#13:非→公式×ピァノセグレット×精査
「彼女……大丈夫でしょうか? ここまで純度の高い『赤』って、見たことがない」
唸り声は通常であれば静謐であろう和室の六畳間に染みわたるようにして響き続けている。通常の人間であれば、いかなる時においても「単一」の感情に染まるということは無い。いや、僕の経験上無かった、というか。それゆえに掴めない、から、「疑似体」のように簡単に「相反するモノ」をぶつけ相殺、ってことが困難であるわけで。
でも目の前でどうあがいても毛ほども緩まなそうな頑強な拘束であろうことはそろそろ当の本人がいちばん分かってきそうであるのに、クリーム色髪少女はまったく全身の力を振り絞るということをやめようとはしない。布団の上で黒革の拘束具に包まれてのたうつその小さな体は幾ばくかの背徳感をも巻き付かせており……とか思っている場合ではないか。と、
「い、いきなりグウエエとか声がしたかと思ったら、すんごいバタバタが始まって……わ、私がスーツ脱いであられもない姿を晒したからってこと? だとしたらちょっと同室ってのもアレじゃない……?」
浴衣のふっくり膨らんだ胸元を両手で押さえながらの、いつもながらの作ってる感じの御仁の言葉は僕と村居さんの鼓膜をただ震わせたに過ぎなかったが、じゃあそれまではおとなしく布団を被っていたわけだ。でもそれからのいきなりの「怒り」の感情が理解しづらい。と、
「姫宮クンは、少し特殊な『感情』の持ち主でね。おおまかに分類された『四十二感情』、その全てを満遍なく持ち合わせてはいる。いるのだが……」
ゆっくりと、その「姫宮クン」の足元にあぐらをかいて座り込んだ村居さんは、だいじょうぶだよ、と穏やかな視線を少女に落としたまま呟く。そのいつもながらの凪いだ表情の横顔には、今は慈しみのようなものも纏っているように見えた。あくまで僕の少ない経験からの主観だが。村居さんはそのまま言葉を一度探すかのように口を紡いでから、静かに言葉を紡ぎ出していく。
「……約千秒ごとに、『四十二種類』の『単一』の感情が次々に移行していくという、厄介な、ただ『感情体』を相手するにはこれ以上ないほどの『力』を有した能力者なんだ」
「千秒」は、「十七分弱」。そんな頻度で「単一感情」が巡り巡る? ちょっと想像もつかない感じだけれど、
「それって……途方もないほどの負担が精神にも肉体にもかかるというか……大丈夫なんですか、って聞くのも憚られるような……その……」
うまく言葉にならない。「感情」の及ぼす効果、それは何となく分かってはいると思っているが。まったくの、想像の域を超えてしまっているから、だから。
「落ち着こう藤野クン。彼女自身も、受け入れてやっていることなんだ。他人がどうこう言うのはおこがましい」
村居さんにしては硬質な言葉で遮られてしまった。僕もヒトのことは言えない。そうだよ。
でも。
「何とか……その、制御、みたいなことは出来たりしないんですか? この『拘束』って……怒りとか興奮とかを抑え込むためにやっているものですよね? これで……通常の日常を送れるとは思えない」
何とかしてあげたい、とか思う気持ちは、感情は……意味の無いことなのだろうか。いや、それを通り越しての本人には害悪、にしかならないのだろうか。分からないけど放っていた、そんな言葉を。いつの間にか僕も姫宮さんの布団の傍らに膝を突き、その歪み血走った目と目を合わせていた。
「……キミの思いは分からなくはない。優しさ、思いやりから来ているってことも分かるよ。でも彼女にとってこの『能力』あるいは『特性』と共に生きるっていうのが存在意義なんだ。彼女にとってこれが『通常の日常』、なんだ」
そうなんだろう。そうなんだろう……けど。何も出来やしないし、しない方がいいのかも知れないけど。それでも僕は背後に立ち尽くして呆けた顔をしていた三ツ輪さんを見上げて目で合図すると、それで分かってくれたのか、力無く持っていた手ぬぐいを差し出してくれた。それを受け取り、目の前で歪み続ける幼い顔に浮かぶ玉の汗をひとつひとつ、確かめるように吸い取る。何か……出来ることは、本当にないのか?
「……!!」
その時だった。ピピ、と黒革拘束具の首元辺りからそんな間の抜けた電子音が聴こえた。かと思ったら、その拘束具はどういう仕組みか分からなかったけど、一斉に弛緩したかのように見えて。目の前の黒い人影が素早く動いた、かと思ったら。
「……ありがとぉ。君って優しいんだね……」
いきなり胸元に飛び込まれていた。その上で僕の両脇を通って回された細い腕にきつく抱きしめられている状態。むせかえるほどに濃いのに、限りなく透き通って見える「桃色」の
先ほどまでの苦悶と怨嗟と緊迫の混ぜ合わせのような感情はまるで消えていて、今は……何だ? あまり相対したことのない「桃色」。だからよくは分からないけど……胸元に擦りつけられてくる熱く柔らかい頬の感触を、まだ着たままだった黒スーツ越しに感じて硬直するばかりの僕がいる。
「【
村居さんの少し呆れたかのような鼻息混じりの言葉に、ま、また切り替わったってことですか、拘束は危険が無い「感情」時は自動で解除されるんですか、というかちょっと助けてくださいよずっと擦られていてちょっと痛みすら感じるほどになってますよ、と僕は矢継ぎ早に返すものの、生温かい目で見られただけで終わる。
「わたしっ、姫宮ヒナタといいますよろしくねっ」
がばと上げられた顔は、先ほどまでの緊迫しまくりの形相とは全く異なり、穏やかで柔らかな笑みが浮かべられていたわけで。至近距離。三ツ輪さんとは違う香り、イメージだけど「森」をイメージさせるかのような……いたずらっぽい光を帯びたぱっちりとした瞳に見据えられて、今しがたまで「猿ぐつわ」的な器具をカマせられていたけどそれは首元まで落ちていて、現れていたその下の艶やかなパールピンクの唇に目を奪われて。いや駄目だろ。
「っとーこうしちゃいられないって。おねーさん、一緒に温泉いこ? 即風呂入らないと汗で死ぬし。残り十五分ッ!? 間に合えぇぇぇーッ!!」
とか葛藤未満の思考を脳内でこねくり回している僕を置いて、姫宮さんはぽかんとしていた三ツ輪さんの手を引くと、黒革のレオタードのような、旅館とは言え公共のスペースに出ていくにはちょっとな恰好で部屋を出て行ってしまうけど。裸足で。
「……」
後に残されし男衆ふたりとしては、半笑い未満の表情を突き合わせてすごすごと元いた自分らの部屋に退散するしかないわけで。
「彼女……姫宮クンは何とか退却できたようだが、他は無傷というわけにはいってないそうだ。まともに『奴ら』と渡り合えるのはここにいるキミら三人と、絞ってしまっていいだろうね」
気を取り直し戻ってきた部屋で座卓を再び挟む。端末をいじっていた村居さんが顔を上げて言った言葉は、そうですかとしか言えない内容であったものの、さりとてどうこう出来るのかは全く見通しが立たない。相手は「六人」と……そう考えていいんでしょうか、との問いを何とか挟むものの、
「『最低六人』。数の多寡ではないと信じたいが、まあ厳しいとそう言える状況ではあるね。上の偉いさんもだいぶ泡食ってるようで、『即無力化』を、とか言ってきているが、まあ補充も補給もままならない状態で何をか、って感じだ。とは言え肌で感じたあの危険度合いは……はっきり、放置は出来ないと見ている。年若いキミたちに頼むことになってしまうのは心苦しいが、何とか、やってもらうほかはない。当初の目的通り、奴らの総本山、『洗足池』に乗り込み、奴らをすべて封じ込める」
言葉の軽さとは裏腹に、その落とされた視線にはやはり陰、のようなものが宿っている。状況は芳しくない。そして先ほど見せつけられた「感情」に……言い方は悪いけど振り回されているヒト。考えろ。考えた先にしか、答えは無いはずだから。
刹那だった。
頭の中に突如降って湧いたビジョン、それは。
もつれにもつれて投げやり気味に裁断放置されていた思考の塊が、整然と自ら編み込み直されていくような、イメージは悪いがあの壮年、橙谷が操っていた「糸」のような挙動を僕の頭の中で描き、そして僕の中で紡ぎ積み上げられる。
「……僕に考えがあります。姫宮さんが、自分を、自分の力を制御できたとしたら、それはもう多大な『戦力』ですよね?」
「戦力」とか言ってしまったけれど。本当はあの「怒り」苦しんでいた感情の坩堝のような中から、
「……策が、ありそうな口ぶりだね?」
……少しでも引き上げてあげることが出来たのならと思っただけであって。返された村居さんの言葉に、勝算は二十パーセントくらいしか無いものの、強く頷いてみせる。
そう。
「僕が……彼女の『拘束具』になります。あ、いえその……あんな風にがんじがらめに、ではなく、もっと何て言うんですかね……ソフトに、ええと、軽く抱きしめる感じ、というか。うまく説明できないですけど」
まとまらない頭の中で何とか紡いで出した言葉は、ちょうど風呂から帰ってきてまたこちらの部屋に浴衣姿で上気しながら上がり込んできた二人の女性の真顔とぶつかり、それらのきめ細かい頬辺りに吸い込まれるように波及してしまったものの。
体感したことのない妙な「感情」の渦に戸惑い、助けを求めるように村居さんの方に目線を飛ばすが、返されてきたのは先ほども見た、生温かいそれなのであって。
沈黙。
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