第17話 乳母と乳姉妹と乳兄弟と(1)

【アキュハヴァーラ大学附属病院 D館一階 産婦人科フロア 個室415室】


 ユーシアの記憶では、産まれたばかりの新生児は専用ルームで暫く面倒を見、母親は産後の疲労を病室で癒すシステムのはずだ。

 四年前に妹が産まれ時は、そうだった。

 母がしきりに「死ぬかと思った」アピールをし、父は親戚ご近所友人同僚の寄せたお祝い金に歓喜し、赤ん坊だった妹はよく寝てすこぶる可愛かった。今では、兄に蹴りを入れる生命体だが。

 サリナ・ザイゼン軍曹に挨拶をしてカステラを渡し、ガラス越しに新生児を見物してから帰るというプランは、初手で終わった。

 ユーシアが個室に入室すると、サリナ・ザイゼンは新生児に授乳している最中だった。

「おや、乳の匂いに惹かれて、もう吸いに来たの?」

 神々しい存在感を放ちながら、かつての乳母は新生児にゴクゴクと乳を飲ませている。

「…いえ、その、赤ちゃんが外に出るのが、早いかなあ、と…」

 久しぶりに見る乳母の美乳に見惚れて反応が遅れたユーシアは、ベッドの側でリップが先刻の不機嫌動画を視聴しているのに気付いて、固まる。

「リップ。それ、見ないで」

「あたしには構わずに、サリナさんの乳を見ていなさい」

 リップは、良い〜笑顔で、ユーシアの怖い笑顔を堪能している。

 仕事中の怒り面を上機嫌で見物されて、ユーシアは用事も忘れて懇願する。

「見〜な〜い〜で〜」

 足元に土下座してお願いするユーシアを見ずに、リップは激情を顕にした画面内のユーシアをエンドレスで満喫する。

「普段はデレて締まりのない顔ばかりだからね〜。こういう顔のユーシアも、好きよ」

「好きにならないで。そんな場面を、好きにならないで」

「だって、あたしに見せる顔のレパートリーが、和んでいるかデレているか、パンツを覗いてエロい顔を堪えるムッツリ顔だとか、出し惜しみが酷い」

「出し惜しみじゃないです。不機嫌な顔を見せないようにする、エチケットです」

「丸ごと愛でてあげるから、全部出しなよ」

「え〜〜、でも〜〜」

 隙を見て映像閲覧端末を触ろうと手を伸ばすユーシアの手首を、リップはノールックで掴む。

「あたしの閲覧を検閲する事は、何人にも許さない」

 リップは容赦なく土下座ユーシアの上に座り、閲覧を続ける。

 ユーシアの人生に、リップの攻撃を避けるという選択肢は、ないがぜよ。

「…あのう、サリナさんへの、挨拶を済ませていないので、解放してくれないだろうか?」

 姑息にも、乳母をネタにして自由の回復を図るイスに、リップはジト目で処遇を思案する。リップはイリヤにユーシアの襟首を掴ませ、サリナ・ザイゼンの胸元付近に押し付けさせる。

「イリヤ。五分間、ユーシアを授乳のガン見に専念させなさい」

「さあ、お嬢様の許可がおりましたので、心ゆくまで授乳を観賞するであります」

 イリヤは平然と、リップの命令をこなす。

 リップがユーシアをイスにしていた事に関しては、平然とスルーしている。

 イリヤにツッコミを入れても疲れるだけなので、ユーシアはその姿勢でサリナへの挨拶を始める。

「カステラを買ってきました。滋養にしてね」

 自由に動けるエリアスが、カステラの四箱入った紙袋を見せる。

「助かるわあ。もう、お腹減っちゃって」

『ありがとう、ブラザー。病院食味の母乳には、飽きてきたところだ』

 頭に直接テレパシーで話しかけられて、ユーシアは視線を母乳から乳を吸っている新生児に移す。

「受け継いだ能力は、火炎能力だけじゃないみたいですね」

『早熟過ぎて、同業者たちの泣き声に耐えられなくてね。看護士さんたちにテレパシーで引っ越しの相談を持ちかけたら、母さんの所に押し付けたのだ。母さんが休む暇がないのが、今の問題だ。手を貸してくれ、乳兄弟』

 外見上は生まれたての新生児なのに、中身が熟成し過ぎている。

(シーラみたいに、前世の記憶とチート性能持ち込み新生児か?)

 ユーシアは新しい乳姉妹を注視しつつ、探りを入れるのは控える。

「俺の名は、ユーシア。ユーシア・アイオライト。呼び方は好きにしていいよ、乳姉妹」

『タウ。兄さんが発作的に命名し、母さんが適当に妥協した』

「で、エイリンは?」

 探した途端に、オムツを買ってきたエイリン・ザイゼンが、個室に戻って来る。

「あ! 来やがったな、こいつ」

 赤と白の頭髪を逆立てた少年は、頑丈そうな身体でユーシアにグイグイと近寄るや、イリヤの手から強引に乳兄弟をもぎ取る。

 力ずくで取られるとは思っていなかったイリヤが、壮健な少年の怪力に瞠目する。

 エイリン・ザイゼン(十歳、燃えるような紅白の頭髪&紅瞳、勤労小学生)は、まなじりを逆立てて、ユーシアをドヤしつける。

「この野郎! 本当に乳を吸いに来るとは、どういう了見だ?! 常識というものが、どうして身に付かない? 社会性の学習能力はゼロか、貴様は!?」

「乳を吸いに来たのでは、ない」

「ぬう?」

「乳をガン見しに、来ただけだ」

「そうか。勘違いしてすまない」

 エイリンは、ユーシアを掴む手を緩めかけて、締め直す。

「ガン見も、ヤメロ」

「リップの許可は、得ている」

「そうか。許可されていたのか。すまない」

 エイリンは、再びユーシアを掴む手を緩めかけて、締め直す。

「リップの許可は、この場合、関係ないだろ?」

「ほう、では問おう。誰の許可を得れば、正解だ?」

 エイリンは、考え込んでしまう。

 乳を観賞する権利の問題で、考え込んでしまう。

『母さんが正解だよ、兄さん』

 タウが苛々とテレパシーで口を挟む。

 エイリンはユーシアをポイッと手放すと、妹にデレて手放しで褒め始める。

「かわいい上に、賢い〜〜」

『ウザいからヤメロ。兄さん』

「だって、かわいいし〜〜」

 自由を取り戻したユーシアは、エリアスと一緒にカステラを小皿に分けて配り始める。

 この流れを、カステラの力で変えるつもりだ。

「いや〜、母子共に健康で良かった」

 リップも悪趣味な映像の閲覧をやめて、カステラの消化を始める。

 というより、ユーシアが母子への接待を始めたので、その見物に気が移る。

『まだ健康だが、このままでは損なう。新生児ルームが使えない以上、母さんを休ませる為の計画が必要だ』

 昨日産まれたばかりの新生児が、その場を仕切ろうとする。

ユーシア「軍の基地に、専用施設が」

タウ『飯が不味い』

イリヤ「別料金で、サポートを増やせば良いのでは?」

タウ『金が掛かり過ぎる』

リップ「子宮に戻っちゃえば?」

タウ『実現可能な提案だけして!』

エリアス「イリアス商会の育児施設であれば、リボ払いでご利用出来ますので、是非ご利用を…」

タウ『今、リボ払いと言ったのか、この邪妖精は?!』

エリアス「邪!?」

 タウの頭上に、五本の魔法弾が浮かんでエリアスに照準を定める。

 エリアスは対魔法シールドを展開し、防御に徹しようとする。

 ユーシアが、間に腕を入れて自制を促す。

ユーシア「出禁になるぞ。攻撃魔法は出すな」

タウ『ちっ』

 タウは、わざわざ舌打ちをテレパシーで送ってから、魔法弾をキャンセルする。

タウ『次にリボ払いを薦めるなどという悪行を働いたら、ユーシアが許しても地獄に送るぞ。きしゃ〜!』

 前世でのトラウマが何か、モロバレの新生児だ。

(めんどくせえ、シーラの同類確定だ)

 ユーシアは、タウも前世の因縁ネタで絡んでくるのではと、心中で警戒ラインを敷く。

エリアス「リポ払いは、合法ですから!」

 ユーシアの影に隠れながら、エリアスがタウに抗議する。

タウ『うっせえわっ、悪徳商人の使い魔が』

 タウの周囲に拘束系魔法の準備動作を表す魔法陣が幾つも浮かぶが、そこは母親が宥めてキャンセルさせる。

サリナ「はい、暴れない暴れない。今のタウは、新生児ですよ」

タウ『ばぶぅ〜』

エイリン「おおっ?! 初めて赤ちゃん言葉を!?」

リップ「赤ちゃん言葉は、生の喉でよくない?」

タウ「ぎゃあああ」

タウ『めんどくさいなあ』

タウ『ずっとテレパシーで良いような』

タウ『あ、眠い』

タウ『ユーシア、母さんと兄さんのサポート、お願いね』

ユーシア「エイリンの面倒は、見なくても大丈夫だよ」

エイリン「そうだ。お兄ちゃんは、こんな変態忍者の世話にはならない」

タウ『(寝息)』

 寝ている時だけ、完全に普通の新生児。

サリナ「じゃあ、お母さんも、寝るね」

 サリナ・ザイゼンが、ようやく気を抜いて、寝落ちする。

ユーシア「ずっと、こんなか?」

エイリン「ずっと、かわいい」

 エイリンは、いい笑顔で妹を見守る。

ユーシア(母親の心配も、しろ〜〜)

エリアス(脳筋か、こいつ)

リップ(サリナさん、丈夫そうに見えるからなあ)

 イリヤが空気を読まずに、サリナ・ザイゼンの容態に口を出す。

イリヤ「対策を怠ると、このままでは過労死するであります」

 睨みつけるエイリンに、イリヤは忠告する。

イリヤ「赤子の我儘には付き合わずに、サリナ殿の安全を最優先にすべきであります」

エイリン「軍にも商会にも、頼る気はない」

 断固言い切る乳兄弟に、ユーシアは提案する。

ユーシア「一つ、良い場所が空いている」


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