錆猫奇譚(11)
過ぎてみればあっという間で、まるで夢だったかのような体験で。
それでも、明瞭に過ぎる感覚と記憶、それに異常極まる現象に事細かに理由付けされた事実は、確かに現実だと思わせるには十二分だった。
(……大きなケガなく帰れたから、何が変わるってわけじゃないんだけどさ)
日曜の朝。
あれから学校に行かなかった事、無断で外泊した事に関しては──親から何一つとして咎められず。
帰ってからお帰りの一言も無く。心配の言葉も無く。それが当たり前の日常だと、否が応でも突きつけられた。
空疎な心が僅かに軋む。あの旅館の中の方が、今より圧倒的に心が踊っていた。
ただこうして暇を持て余しているのが嫌だから、自然と家から足が離れてしまうのに、それを理解してなおも心の隙間を埋められずにいる。
理解を拒んだのは自分で、理解しようとしなかったのも自分で。
だから、今更歩み寄って欲しいとか、子供として見て欲しいなんて、そんな事を言える立場にある筈もなかった。
(ダメだ、気を散らさないと。これ病む。病んじゃう)
嫌な事は考えないようにしたい。
そもそも普段は意識を回さない事にどうして思考を向けたのか。珍しい考えに僅かな疑問が混ざり。
ふと、旅館で見た夢を思い出した。
(そういえば、お茶のリベンジしてないな……)
食器棚を漁る。マグカップをいくつか確認。
折角の機会だからと必要な物を書き出そうとして、使えそうな物だけを引っ張り出してみる。
小さな急須。マグカップ。電気ケトル。……茶葉の入った筒。
意外にも、このまま挑戦するには充分な物が揃っていた。好都合と言えば好都合だが、急須や茶葉は一体どこで使った物だろうか?
(ま、使われたくないならこんな所に入れないよね)
電気ケトルに適当に水を差し、取り敢えず沸騰まで待機。
その間に急須に茶葉を入れておこうと、筒の蓋を開けて、
「──悠里?」
「んっ!?」
名前を呼ばれた事に驚き、筒を取り落とす。
散らばる茶葉。慌てて手でかき集めようとして、そもそも聞き覚えのない声の主は誰かと顔を上げたら。
「何をしているんだ。……緑茶の用意か?」
滅多に口を開かない、寡黙な父親の姿があった。
改めて顔を見るのも久々で、目を合わせる事に至ってはいつ以来か。声も考えてみれば最後に聞いたのは何年前だ。
同じ家で暮らしているのに、自分の親だと言うのに、冷静に思えばあり得ない程に他人行儀だった。
「え、と。なんとなく興味を持った……から?」
「…………」
非常に、気まずい。
悪い事をしていた気もする。もしかしたらこの茶葉は父親の大事な物だったのかもしれない。勝手に使う事も非常識なら、今ここで床にぶちまけたのも相当に不味い。
怒られるか。殴られるか。今までの不干渉を思えば声をかけられた事自体がイレギュラーで、どうしたらいいのかわからなくなった。
声を発するのも限界で、無意識に頭が下を向く。
「……私の物なら、好きに使いなさい」
「──え?」
だから、その言葉そのものが予想外で。
つい、また目を上げてしまう。
「必要なら淹れ方も教えよう。茶葉のストックなら、未開封の物がもうひとつある。やってみるか?」
「え、──あの」
怒られれば喜んだのか。
無視されれば好都合なのか。
自分の感情があまりに暴れ過ぎて、全く整理が追いつかない。ひたすら声を詰まらせながら、それでも疑問を口にする。
「……怒らないの?」
「怒るものか。いや、確かに勝手に使われたのには驚いたが」
す、と茶葉をかき集めながら、父は語る。
自分の想像していた以上に、優しい声で。
「娘が自分と趣味に目覚めてくれたんだ。嬉しい方が先だよ」
ふと、思えば。
理解を拒み、理解を避け、それからずっと、親の趣味も嗜好も知ろうとしなかった。
普段何をしているのか、それすらも全く見えていなかった。
……薄情なのは、自分に何もしなかった親か。それとも何も見ようとしなかった自分か。
「……ごめんなさい」
「謝る事なんて無い。急に声をかけたのは私だ」
どうして、親の事に唐突に意識を向けたのか。
それは、旅館で見た温かい夢が理由なのか。
二度とあり得ないと思っていた、親に何も気負わず、自然体で話すだけの夢が。
「──すまなかったな、今まで」
首を振りながら、足元の惨状の始末を手伝う。
都市伝説以上に、正夢というのも信じてみるべきかもしれない。今のこの時間は少しぎこちないけれど、家を出る理由を探そうとは不思議と思わなかった。
「ね、父さん」
歩み寄ろう。
一歩でもいい。一歩ずつでいい。
お互いの凍っていた時間を、少しずつ取り戻して行こう。
「美味しいお茶の淹れ方、ちょっとずつ教えてくれないかな?」
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