錆猫奇譚(9)
それが夢だと即座に認識できたのは、それほどまでにありえない光景だったからか。
きっと二度と手に入らない、遠い景色。
──いや。手に入れようとしなかったのは、きっと自分で。
もしかしたら、それはまだ必死に、私に手を差し伸べようとしているのかもしれない。
「起きろ。蹴るぞ」
「ん……?」
ぐるり。
体が捻られた。眠い。
しかし普段と布団の質感も違えば、空気感もどこか澄んでいる。……畳と毛布。はて。
フローリングと薄い布団はどこだ。
「んー……起こされるの嫌いって言ってるじゃん……なんでアラーム鳴ってないのさ……」
「…………」
右肩に鈍痛。
「目を覚ませ。忘れたか阿呆。ここはお前が飛び込んできた旅館だぞ」
半回転。
自分の意志ではない。外部から力を加えられ、うつ伏せから仰向けへと強制的に動かされた。
中途半端に眠気が覚め、畳の匂いを吸い込みながら身を起こす。陽の光。今日も良い天気。
「…………。……。誰?」
「起きろ」
ぺちん、と軽く頬を叩かれた。
寝起きに誰かに触れられるのも揺すられるのも、最近は殆ど無かった。あまりの事態に頭が少しずつ冴えていき、異常事態の原因を探ろうとする。
……目の前に男が一人。誰だ、と問おうとする前に、意識を落とす前の記憶が少しずつ帰ってくる。
「あ──ああ、鼠さん。もう朝なんです?」
軽く目をこすりながら、状況を整理。
旅館。暗闇。波。異常事態。空腹。睡眠。一晩。翌朝。──陽の光。
ばっと体が跳ね、窓の外を確認する。果てのない暗闇は既に、当たり前の山の景色と、朝の眩しい陽光に差し替わっていた。
……なんの気配もない。アレは夢だったのかと思いたい程だが、だと言うならこの旅館と目の前の男に説明がつかなくなる。そちらへの理性的な解説が間に合ってしまっている以上、あの暗闇は現実に起きた出来事なのだ。
「あの状況からここまで寝られるのも、一種の才能だろうよ。無い方が良い類だろうがな」
鼻が鳴る。
いつの間にか当たり前になったその小さな音に、安心感を覚える自分が居た。
「穴のルールは力業で破った。お前は後は、この旅館から離れるだけだ。身支度整えてとっとと帰るぞ。──流石にもう一度異界化したら、俺も簡単にゃ出られねぇ」
「っと。了解です、もうお腹すいて動けなくなるの嫌ですからね」
鞄を確保。完全に無防備だった事に少し反省しながら中身を確認。
必要な物は何一つとして欠けていない。財布も触られた痕跡が無く、本当に手を出すつもりなんて無かったんだなと謎の納得。
「おい」
「?」
普通に入り口から出ようとした所で一声。
機能の出来事のおかげで、疑問こそ抱くが警戒する理由も無く、その警告に逆らう理由も見つからない。
「そっから出るな。窓があるんだ、こっちから行くぞ」
「……えっと、ここ二階では? 陰キャ女子高生の運動神経、過大評価したらいけませんよ?」
それでも非常識に是と言えるほどに強気ではない。
外の様子こそ知らないが、率直に言おう。二階から飛び降りてまともに着地できるほど、体は頑丈でも柔軟でもない。
しかしそれに対しては、まるで読めていたとでも言うように。
「足なら用意する。そっちは『普通の出口』だからこそ、待ち伏せされている可能性は否定できん」
窓に立ち、手のひらを上に。
やがて、無音で生まれるのは、白い折り鶴。
はじめは一般的な手のひらサイズのそれは、見る見る内に巨大化し──三つも数える間に、人が乗れるだけの大きさになっていた。
「普通に戻ってもそんな事できるんです?」
「阿呆。ここはまだ穴の中だ。今は現世と繋がってるだけで、決して普通じゃねぇんだよ」
「乗れ、錆猫。ドラマ性も何も無い脱出劇だ」
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