錆猫奇譚(8)

 目を向ければそこにある、人が溶けて混ざる悪夢のような光景。

 波の様に揺れ続けるそれらを意識しながら、自分の体を見下ろす。

 見慣れて、触り慣れた体。手を軽く這わせ、違和感の一つも無い事を確認。


「……どこが?」


「アレ」の示唆に読み違いさえ無ければ、そういう事なのだろうが。

 その傾向は一端すら見られない。


「もう少し俺が来るのが遅かったら終わってた、って所だ。現世を基準にするなら、二割程度はお仲間みたいなもんさ」


 しかし彼の発言は崩れない。

 どういう事か、と続きを促す。


「分解しちまえば単純なもんだ。お前はアレらの気配を理解できる程度には『飲まれた』が、溶かされるには至っていない。身も心もまだ現世に寄ってはいるが、これ以上奴らの干渉を受ければ完全に飲まれる。……非常に不安定な所に居るな」


 ふん、と鳴らされる。

 そろそろ慣れた。不快感はもう湧いてこない。


「ええと──穴が異界化してから、あの海に飛び込んだら飲まれるのでは?」

「阿呆。穴そのものが人間を貪食するんだよ。海に入ったら救えない程に致命的なだけで、そうでなくとも時間さえありゃ溶かされる。──お前が言ったろ。『穴』は胃袋、『お前』は飯だって」


 ぺたぺたと身体を探りながら、言葉と実感を繋ぎ合わせていく。

 ──もしかしたら、そもそもこの旅館に踏み込んだ時点から、少しずつ状態は変化していたのかもしれない。無自覚だっただけで、状況は悪化の一途だったのかもしれない。

 それらを理解するにつれ、鼠という男が(少なくとも今は)守ってくれているという事実に、改めて感謝と安心感がやってくる。


「……ありがとうございます?」


 目を合わせず、声も出さず、片手を上げるだけで返事された。

 悪人では無いのだろう。無いのだろうが、どうにも人付き合いというか、コミュニケーションが下手ではないだろうか?


「どちらにせよ今はどうしようもねぇ。俺が何かするかもしれんと思うなら無視して良いが、明日に響く。寝とく事を勧めるぞ」


 は、と気づく。

 完全に無防備であったし、言われるまで意識もしなかった。そういえば、と遅れて言葉の裏を読み取るくらいには。

 しかし。


「そんな事言う人が、わざわざ手を出してくるとは思えないんですけどね」


 寝具は用意されていなかったが、押し入れを開けば必要な物はまとめて入っていた。

 とはいえきっちり用意するのも面倒だ。毛布だけあれば十分寝られそうだったので、適当にひっぱり出して包まっておく。


「鼠さんは?」

「夜行性だ、ほっとけ。明日の朝、日が昇った辺りで叩き起こすぞ」


 トランプが右手を行ったり来たり。

 こうまで律儀な人が、こういった点で嘘をつくとは考え難い。各部の要因をまとめるにしても、今ここで自分を守ってくれている点に関しても、疑うほうが難しいだろう。


(──あ)


 体を倒し、目を瞑り。

 いつの間にか疲れていたのか、意識が微睡みに落ちていくまで、時間はさほど必要なかった。



(お茶、もう一回試せば良かったな──)

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