錆猫奇譚(7)

「ところで私のおなか問題は解決してないんですけど」

「アレ見た上で食欲あるの本当に何なんだお前……?」


 メガネを外し、窓から離れ、開口一番。

 時計はそろそろ八時を過ぎようというあたり。鼠の言う通り、体感と時計の動きが異様な程に噛み合わない。

 携帯を確認。壁掛け時計との時間に差は無い。ついでにネットで都市伝説について検索をかけようとしたが、圏外らしく繋がらない。お決まりの、と言った所か。


「私、朝ご飯しか食べてないんですよ。このままだと明日の朝も食べられなさそうだし、三食も抜いたら倒れちゃいます」


 敢えて鼠の真正面に座り込む。

 ん、と疑問を隠さない彼に対して、両手を丁寧に三つ指つき、頭を深々と下げ。


「というわけで恵んでください」

「…………。なんだこいつ、調子狂うな」


 気配でわかる。しっしっ、と手で追い払われている。

 だが、ここでやすやすと引き下がるわけにもいかない。割と死活問題なのだ。空腹は本当に理性を振り切って体を動かすので、先程のようにそのまま「海」に飲まれないとも限らない。


「なんか持ってるでしょ。ください」

「人に物を頼む態度か?」

「頭下げてます」

「下げりゃ良いってもんじゃ……あーくそ」


 苛立ちを乗せた悪態をつきながら、彼はポケットから携帯食料を取り出した。

 何処にでもある、ちょっとだけお高いカロリー保存食。プレーン味。

 それを片手に、軽く虚空でひと振り。途端、一本だけだった物が三本まで増殖する。


「この部屋そのものは異界化する前の状態で保存されてんだ。水はそっから調達しろ。あとそれ食ったらとっとと寝ろ。出る時にゃ起こしてやる」

「ありがたき幸せ」


 頭に投げられたのも気にせず、遠慮なく開封して口に運ぶ。

 量だけで言えば物足りないが、それでも半日以上の絶食から開放されるというのは、それだけでも非常に高い満足感を与えられた。流石に口の中が乾き切るので水道から水を湯呑みに注ぎ、あおるように一気飲み。


「制服じゃなかったら本当に高校生か疑わしいなお前……」


 苦言。気にしたら負けだと思う。

 取り敢えず空腹感は誤魔化せた。その都合か頭がいつも通り回るようになり、流れるように疑問が湧いてくる。


「──そういえば。どうして鼠さんはこんな所に?」

「ん?」


 彼も彼で暇なのか、先程溢れさせたトランプを消したり、或いはまた出したりを繰り返していた。

 ……コレだって三本とは言わずもっと増やせた筈では?


「そりゃ、この穴を塞ぐ為に決まってんだろ。月に一回しか現世と繋がらんのに、二度三度と好機を逃してたらいつ終わるのか知れたもんじゃねぇ」


 都市伝説という形で存在自体は知れ渡っていた、と。

 成程。深い知識に判断力、さらにこの異能めいた手の動きは、その発言に高い説得力を与えていた。


「結果としてお前を助ける形にはなったが……そいつはついでだ。あまりに目に余るようなら、俺は穴を塞ぐ事のみに注力する。飲まれたくなかったら言う事を聞いてな、錆猫」


 ふむ。

 実際、海といい部屋といい何かと助けて貰っているのも事実らしいし──本当に「海」に落ちたらどうなるのか気になる所ではあれど、あの波を見れば真っ当な結末が待っているとは思えない──、少なくともこの旅館にいる間は逆らおうという発想さえ遠かった。

 しかし。しかし、だ。


「穴を塞ぐって、どうするんです。やろうと思えば私が旅館に入ったあたりからできたんじゃないです?」


 エントランスでのもう一人の客。

 それはもう、この男で確定だろう。あの場で聞いた声は自分ともう一人分のみで、やや曖昧な記憶ながら彼の声とも一致している気がする。

 だが、それに対しては嘆息が先に返ってきた。


「やっても良かったんだが、お前ごとまとめて燃やす事になったろうな」

「へっ?」


 間の抜けた声が出る。

 相変わらず呆れたような目で、彼は続けた。


「なぁ、錆猫。お前、この旅館で俺以外の声を聞いたか?」


 何を言っているんだ、と首を傾げる。

 入館して、エントランスで条件の確認。料金の支払いや部屋の案内、さらには夕食の予定まで、



「────」



 聞いていない。


 一度も彼らは、声を発していなかった。


「え……あの、待ってください。じゃあなんで私はここまで案内されて、予定も聞いた気になって、それに違和感をまったく感じなかったんですか──」

「そりゃお前、」


 一拍。



「お前が『アレ』に寄ったからに決まってんだろ」

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