錆猫奇譚(6)

 ばんごはんだ。

 空腹は理性を押しのけて体を動かす。ドアへと向かい、ノブへ手をかけた所で、肩に違和感。

 意識がそちらに向かう前に、体をぐいと後ろへ引かれる。何をする、と怒りをぶつけるより早く、男は躊躇いなくドアを開け放った。


「──は?」


 怒声を上げようとして、勢い良く拍子が抜けた。



 海。



「いい加減目を覚ませ。ここはとっくに異界だ。はじめからその片鱗はあったろうが」


 真っ暗闇に、僅かな白波。

 音はなく、匂いもなく。だというのに、そこに波間が見えるというだけで海と認識していた。

 冷静に思えば、窓の外から見た景色も似た物だった。視界を染める真っ暗闇に、不規則に揺れる波の色。つまり、ここは今は部屋以外の全てが、このバグめいた世界に置き換わっているわけで。


「えっと。もしかして鼠さんが居なかったら、部屋も私もこの海に」

「飲まれてるな。だから言ったろ。俺の側に居る限り、錆猫の安全も保証するって」


 ふん、と鼻を鳴らす。

 呆れか苛立ちか、はたまた他の感情か。この男、いつも不機嫌そうでいまひとつ読み切れない。


「さっきお前が扉を開ければ、この波に引きずり込まれて終いだったんだぞ。迂闊に動くな阿呆」


 一拍。二拍。

 置いてから、彼の言葉が腑に落ちて──鳥肌が立つ。

 引きずり込まれて。それはつまり、この波は何かの意思を持っている事を意味している。穴そのものが持っているのか、都市伝説として意味を持たされたのかは理解の隅に置いておくとして。

 ……そもそも、この暗闇に浮かぶ白い波とは一体なんだ。何もないのなら波すら見えない、果ての無い闇が延々と続いている筈なのに。

 気付きに対して、悪寒を押しのけるだけの好奇心が湧いてきた。急いで部屋の中に投げた鞄に飛びつき、中からメガネを確保。明瞭になった視界を確認し、今度は窓へと向かう。

 細い理性は、このままドアの外に意識を向けたら、きっとそのまま落ちていくと警告していた。


「おいおい、なんだそりゃ。普段は弱視か?」

「ド近眼なんですよ。日常生活に不便はないですけど、後ろの席の方とかだと困るので持ち歩いてるんです」


 外の景色に目を向け、遠くなった「海」にピントを合わせる。

 僅かにもブレない景色をじっと観察すること、数秒。


「知らなかった方が良かったとか──言うんじゃねぇぞ」



 皮膚。



「────?」


 白波だと、どうして思った。

 暗闇の中に揺れるそれは、薄橙。


「……あ」


 腕が。

 指が。

 足が、眼球が、内臓が。

 人間の外観らしきパーツが、無秩序に。

 或いは溶け、或いは混ざり、或いは重なり。

 時に首から足が生え、そこに割り込むように骨が刺さり、先端から腸が浮き、眼球がその先に繋がり、見る見るうちにそこから指が伸び、それは三本で脳を潰し、湧き出る液体が毛髪へと変わる。

 変わり続け、混ざり続け、壊れ続け、治り続け。

 人体で造られる悪趣味な「波」は、暗闇の中で絶えず流動し続けていた。


「まともな神経で見るもんじゃねぇ。むしろ見るな」


 音が鳴らなくてもわかる。アレは死ぬよりなお酷い。

 臭いを感じなくともわかる。アレは腐るよりなお悪い。

 覗く顔を見て確信する。アレは未だに生きている。

 揺れる姿を見て理解する。アレは尚も感じている。


「──そう」


 何の渦中に居るかを、ほぼ全て飲み込んだ上で。

 彼女は、自分の中にある情動も、ようやく理解した。



「たのしそう──」



 男の目が丸くなる。

 数秒の恍惚。対する硬直。

 それは何度目かの嘆息と、そして呆れの声で破られる。


「……成程な。お前、頭がおかしい側だったか」

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