錆猫奇譚(4)
「……海だ」
窓辺に駆け寄り、一面に目を走らせる。
暗闇。まだ夕方にもならない時間だというのに、陽の光も草木も地面も全く見えない。どこを見ても、広がる物は闇のみだ。
だというのに、それを海だと認識するのは──広すぎる視界に、何やら波らしき動きが見えるからか。
「落ちるなよ。流石に飲まれたら俺も拾えん」
横から「鼠」と名乗る男の声。
呆れと苛立ちを半々に混ぜた声は、若干の不快感と不信感を煽らせる。
「流石に落ちたりはしませんよ。……なんか、こう。異世界っぽくて不気味ですね」
まず感想。
次いで、横目で顔色を伺ってみる。
──物凄く、微妙な顔をされていた。
「お前……なぁ。頭おかしいのか? 不気味で済む状況じゃねーのが見てわかんねぇのか?」
「へ?」
嘆息。二度目。
意図を掴みかねたので小首を傾げてみる。
「異常。異質。異次元。異界。ここは完全にさっきまでとは『異』なる状態だろ」
「えっと……はい」
「『帰れないかもしれない』って喚くのが普通じゃねー?」
はた、と気付く。
そうだ。ここは山の奥とはいえ、歩いて登って一時間やそこらの距離。体力さえ持つなら問題なく、帰ろうと思えば帰れる場所ではあった。
──ただ、このあまりに様変わりしてしまった現状。まともにエントランスから出ようとしても出られるかどうか。というか、そもそもこの海はいつ、どこから現れた?
「……鼠さん。都市伝説ってご存知です?」
「奇遇だな。俺もそれ目当てでここに来た」
ようやく彼の口元に笑みが浮かぶ。
腰を壁から離し、卓袱台のあたりへと腰を降ろす。
先程までとは正反対。彼を見下ろし、立ったままで話を続ける。
「『新月の日にだけ現れる旅館。一晩を過ごせば、そこの人ならざる物と同類になる』──って」
「くく。俺の聞いた話と寸分違わねぇ。こうまで微塵も話が揺れない都市伝説も珍しい!」
哄笑は何を要因としてか。
掴めない不気味さも、しかしそれを覚えた直後に言いしれない威圧感で塗り替えられる。
「覚えとけ、錆猫。俺達の今いる場所を含め、『穴』には必ずルールがある」
「えっと──さび、ねこ?」
ん、と目を丸くしながら鼠は返す。
「お前だお前。錆びた目をした好奇心の塊。だから、錆猫」
「初対面の人にアダ名で呼ばれるの地味に嫌なんですけど……私には」
「やめとけ」
声は低く。
警告の意図を込められている事は、その一言だけで嫌と言うほどに伝わってきた。
「こういった場所で、自分の名前を口にするなよ。そこから全部持っていかれるぞ」
「……持ってかれる?」
ふぅ、と一息を挟み、彼は話を続けていく。
どこからかトランプを取り出し、手慰みか両手でシャッフル。プラスチックの乾いた音が環境音に変化する。
「俺は便宜上、こういった環境を『穴』と呼んでいる」
話しながら、よく混ぜられたトランプを唐突にぶちまける。
シャッフルに失敗した訳ではなく、むしろ手首を返しながらの投擲から、カードは綺麗に畳に広がっていく。
見える限り、全て表。しかしそれは──
「……なんですこのトランプ。ハートもダイヤもぜんぶ黒じゃないですか」
「そうだな。セット五十三枚が一通り黒にしてある」
散らかされた黒の図柄。
それを前に、手元に一枚だけ残された、赤い色のピエロが描かれたカードを示し。
「この黒が『穴』、そしてジョーカーが『俺達』だ」
「はい?」
返答も理解も待たず、男は最後の一枚を黒い塊に投入。
──異常な事に、そのカードの絵は見る間に黒に変色していく。鮮やかな赤色のピエロは、彩度を失った道化へと変わる。
驚愕を隠せず観察している間、それも待たずに彼は続けた。
「放っておけば、どう足掻いてもこうなっちまう。穴は人間を飲み込んで──人間は穴の一部になる」
不満そうに鼻を鳴らしながら。
「まぁ、俺は例外だがな。ついでに俺の側にいる限り、お前の安全も保証してやるよ」
「押し売りみたい……ありがとうございます?」
どかりと背中を畳に投げ、鼠は語る。
当たり前のように、当たり前では無い事を。
「この穴も同じだ。何もせずほっとけば穴に食われる。──都市伝説、奴らの仲間入りってな」
「えっと。ひとつ確認です」
つまらなさそうな態度を崩さないまま、それでも一瞬だけ目が合った。
反面、自分が珍しく興奮している事を自覚する。異常、異質、異次元、異界。そういった状況は、なるほど確かに平時には味わえない感覚なのだろうが。
「穴にはルールがある──って、言ってましたね」
「ああ」
ふう、と一息。
ちゃんと質問には答えてくれるらしい。意外と律儀な正確なのかもしれない。
「穴は穴の形を維持する為に、極めて強固なルールの上に成り立ってる。これはどれも例外はねぇ」
「じゃ、この旅館……もとい、穴のルールは?」
「もうわかってんだろ?」
疑問符。
固まっている間に「都市伝説」と一声が耳を打つ。直後の、理解。
「『新月の日にだけ現れ──』」
「『一晩を過ごせば仲間入り』、だ」
誰がこの話をまとめたのかは知らんがな、と続けながら。
「既に現世からは隔絶された。この『旅館』が現世ともう一回繋がるタイミングは、明日の朝になるんだろうよ。一晩を過ごした翌朝にな」
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