人食い兎に夢を指す(L)

 紫煙。

 基準の無い暗闇の中、認識できるのはそれだけだった。

 何も無い。何も無い。──何も。

 ただ、そこには沢山の「何か」が居た。物も気体も気配も実体も無いというのに、それらは暗闇の中で同僚であるかのように竦んでいた。

 たまに、それが目として見える時もある。

 たまに、それが何かを欲している時もある。

 基本的にそれらはこちらに絡んでくる訳でもなく、同胞である事を主張するでもなく、あたかも雑踏であるかのようにそこに居る者ではあるが。


 なんとなく。

 自分もそのうち「こう」なるんだろうな、という実感。


 揺れる。揺れる。揺れる。

 紫煙が揺れる。自分が揺らぐ。

 溶けて消えて無くなっていく意識と五感。夢の中に沈むような、微睡みの中に居るような──それでいて心臓を握られているような、冷たい感覚。


 なんとなく。


(──まだ、だめだ)


 そうなってはいけない、と。

 確たる意思を以て、それに抗う。


(だめだ。一人はあっちに帰せたんだ。まだ私が──楽になる時期じゃないだろ)


 四肢も視界も不明瞭。

 そもそも今残っているのは、誰とも知らない自我がひとつ。もしかしたら混ざっているかもしれない、自分の物と証明もできない冷めた意識。

 暗闇に辛うじて溶けていない、自分である証明。


 じろり。


 睨まれても怯まない。

 怯んでこの一線を越えてはならない。

 今ここで、次の希望の芽を摘む訳にはいかない。

 先の少年だって、どれだけ自我を揺らそうとも、現世へと戻る意思を手放さなかったから、強引に追い返す事ができたのだ。万が一の次があろうとも、きっとそれは成功する。

 否。

 是が非でも、帰さなければならない。


(ここは、安息じゃない)


 ぎょろり。


 その目に苛立ちが見えたのは何故か。

 ──理由は嫌という程にわかりきっている。異物の存在を許せない。ただ、それだけの事だろう。

 ここに来てからどれだけの時間を過ごした。比較物も無く、感覚も朧で、基準を見失ってからは忘れてしまいそうにすらなったが。

 何事も無ければ、それらと同体になっていただけの時間を過ごしていたというのは、想像に難くはなかった。


(──手遅れでも、歯を食いしばれ)


 あちらには帰れない。

 こちらに溶けるつもりもない。

 道はとうに無くなっている。できる事はただ、最後の意識を離さないように抗うだけ。


 何を待つ。

 希望も無いのに。



「いんや、よく耐えた。丸ひと月。踏ん張ったな、『兎』よ」



 声は。


「そうだな。手遅れって言うにも酷すぎる。形すら保てないんじゃ、このまま引っ張り上げてもお前は崩れて霧散する。……現世の重さにゃ耐え切れん」


 聞き慣れた声は。

 無くなっていた筈の心臓を、暴れさせるには十二分だった。


「お前を起点に見つけた穴だ。苦しまないように焼き払ってやる。遺言なら思いっ切り吐け、聞くぞ」


 意向は決定していた。

 無理も無い。というより、そうであって当たり前だ。彼はそういう人だったから。

 そして、ここまで必死に自身を保ち続けたのも、この声を聞くためだったと──今更ながらに思い出し。

 ほんの少しの気遣いに、残る意識を振り絞って答える。


 今この瞬間、私の願いは叶った、と。


「──そうかい」



 紫煙は祓われ、闇がかき消され。

 最後の視界は、紅蓮の炎に飲まれていく。



「夢屋」がそうして壊されるのは、結末としては拍子抜けする程にあっという間だった。

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