人食い兎は夢を指す(1)
おはよう、少年。
こんにちは、少年。
こんばんは、少年。
今が何時かわかる?
どんな状態かわかる?
ここがどこかわかる?
さぁ、目を開けて。
目の前には、何がいる?
紫煙。
視界は暗く、輪郭は朧。自分の指先さえ認識が甘くなる闇の中、そんな声を聞いた。
目を開ける。その行為で目を瞑っていた事を理解した。
腕を上げる。その行為で自分が寝ていた事を理解した。
身を起こす。膝を立てる。足を付く。
一連の動作で、自分の体を少しずつ組み立てていく。形が少しずつ明確になり、溶けていた境界線を自分の意志で引いていく。
「──その調子」
声。
自分以外が居る事を理解した。
と同時に、自我が有る事を理解した。
理解。理解、理解、理解、理解。──疑問。疑問。
「お見事。あそこまで溶けてまだ『自分』を形にできるの、才能だよ。保証しよう」
目を向け。
口を開き。
声を発した。
「……何、アンタ」
両の足で立ち、睨みながらの苦言。
それに対して、飄々とした声は相変わらず、ふざけた色を崩さないまま応える。
「名乗る程の名前は無いよ、多分」
「多分って……」
「というより、名乗る理由は薄いんじゃないかな」
くす、と笑い声が混じる。
僅かな苛立ち。まとまりつつある感情は意外と短気なようで、思い通りの回答が来ない事に不満が残る。
「キミはねぇ……。人に何か聞くより、自分の体とか身の回りとか探る方が先じゃないかな?」
ん、と喉から唸り声が出た。
まるで何かを盗まれたと示唆するような言い方に、また僅かに不快感。しかし親切心の可能性を否定しきれずに、まずは財布の確認から始める。
右手をズボンのポケットに、
無い。
「えっ──」
無かった。
財布が、ではない。
探る為の指が、そして手が──手首からぼやけたように無くなっていたのだ。
「はっ、え、え──何、これ」
「言ったじゃん?」
喜色が抜け。
呆れを混ぜた声は、繰り返す。
「『あそこまで溶けて』ってさ」
慌てて自身の姿を確認する。
右手は無い。左手は……指先が不明瞭。
両足。足先こそ地面についているものの、左太腿付近はぼけて見えない。
胸。腹。形を保っていた。左手で触って確認しようとする。
すり抜けた。
「──なんだよ。どういう事だよこれ」
紫煙。
視界は暗く、輪郭は朧。
指先は溶けているにも関わらず、感覚が繋がっている違和感を払拭する前に、暗闇の中から声は響く。
「そうだねぇ。今のキミは、水道水を注いだコップの中の角砂糖さ」
「……は?」
「放っておいたら溶けて消える。ここに居たら希釈される。自我を見失えば、──さて、どうなるだろうね」
ゆるり。
震えた闇が、その姿を吐き出した。
「改めて。はじめまして、少年。呼び名が無いのは不便だろうから──私の事は『兎』とでも呼んでくれたら良いかな?」
見慣れた男物の学生服に見を包んだその人は。
首から上が、暗闇に溶けて混ざっていた。
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