第11章
世界が崩壊する音が聞こえた気がした。
全てが真っ白に塗りつぶされていって、あとは何も残らなかった。
誰かの願いでこうなった。願望だ。誰の願望だろう。
——俺? まさか。
小さい頃、母さんが死んだ。特撮や、ファンタジーやSFなんかが好きだった。
人と話すのが怖かった。バイクに乗って、旅をするのが好きだった。
気づけば、殺風景な教室に立っていた。高校の教室だ。乱雑に掲示物が貼られていて、それとは対照的に整然と机が並んでいる。
一人、少女が座っていた。それ以外誰もいない。
燃えるような赤い髪の少女は、高校の制服に身を包んでいた。
「アンタ、ようやく気付いたのね」
それから「本当にバカね」と呟いた。
場面が切り替わる。
幼い頃遊んだ覚えのある公園だった。
ぐちゃぐちゃに踏み潰されたように荒れ果てていて、酷く寂寥感を感じさせた。
そこにもまた、赤毛の少女がいた。
「夢は所詮夢。目覚める時が来た」
零したのは、俺か少女か。
遠くに、巨大な人影が見えた。
そして、気づけばまた俺は別の場所に立っていた。
見覚えのあるそこは、俺たちが一番よく使っていた場所で——俺は唐突に首を絞められた。
少女の手でグッと絞められる。手の先を辿れば、先程の赤毛の少女がいて。
怒っているような、泣きそうな、寂しそうな、吐きそうな、なんて言うのか、俺の語彙力では正確に言い表すことができないけれど、強いて言うなら、そう——絶望しているような顔をしていて。
少女が首を絞めている手に力を込める。俺は苦しくて声を漏らした。
少女が俺の顔を見る。目と目が合って、少女が口を開いた。
「アンタがあたしのモノにならないなら——」
少女の目の淵から雫が一滴、こぼれ落ちた。
視界が滲んでいくのは苦しさからか、俺の目にも少女と同じものがあるのか。
「あたしはなにもいらない」
俺はそんなこともわからないまま、少女はその言葉を口にした。
赤や、白や、紫の花弁が散っていくのが見えて。
世界が崩壊する音が聞こえた気がした。
平凡な家の出だったと思う。父はサラリーマンで、中小企業に勤める営業だった。母は幼い頃に亡くなっていて、あまり思い出がない。まだ小さかった俺を父は男手一つで育ててくれた。
人と話すのが苦手だった。人見知りを拗らせたかのようだった。
他人が何を考えているのかわからなかった。その時々によって言うことが変わるのが理解できなかった。おそらく全て本当のことを言ってるのだろう。その時によってその人の考えが違うだけで。
一人でいることが普通だった。でも一人でいることが好きなわけではなかった。いつも人に飢えていた。他者との繋がりが欲しかった。それができる人が羨ましかった。
自分のことを出来損ないだと思ったこともある。でもそれは自分を育ててくれた父に失礼だから、そういう考えはなるべく持たないようにした。
普通の人がどういう考えで、どういう生活をしているのかがわからなかった。普通とは何だろうと考えた。
普通の人がわからなかったから、普通の人のフリをした。いつしかそれは人間のフリに変わっていった。俺は人間のフリをしていた。
人間のフリをしているのなら、人間のフリをやめた俺は一体何なんだ? 人間ではないのか? 人間ではないのなら、化物の類か? 見た目は人間なのに?
俺は他人のこともわからなかったが、自分のこともわからなかった。
「あんたは、あんたでしょ」
俺にそう言ってくれる人がいた。
一際目立つ赤い髪を靡かせて、いつも勝ち気な表情を崩さない彼女は、俺にとって唯一の他人ではない人だった。他者との繋がりだった。
「人間のフリ? バカね」
彼女は笑って、俺の悩みを吹き飛ばした。
「みんなそんなもんよ。誰だって誰かから見た自分を意識して、それに沿うように生きてるわ。要するに、みんな誰かから見た誰かのフリして生きてんのよ」
もちろん、あたしもね。そう言って朗らかに笑う彼女が印象的だった。
バイクで走るのが好きだった。一人でバイクに跨って走るのは、頭を空っぽにできて、嫌なことを全て忘れられた。
休日にはいつもバイクに乗っていた。山を走ったり、海沿いを走ったり。春夏秋冬、いろいろな表情を見せる自然を走った。
一人で走っていたのが、いつの間にか後ろに彼女が乗るようになった。一人で見ていた景色を、二人で見るようになった。
俺は、日本に生きた普通の人間だった。
大学二年の夏だった。
年々暑くなる夏は、今年も最高気温を更新して、熱中症で病院に運び込まれる人が毎日ニュースになっていた。
俺は大学近くのアパートを借りて一人で暮らしていた。学費は奨学金と父からの振り込みで賄って、家賃その他の生活費は自分でバイトをして稼いでいた。いわゆる苦学生というやつだったのかもしれない。
父に迷惑はかけたくなかった。本当は大学に行かずに、高校を卒業したら働こうと思っていた。でも、高校受験の時に、父に大学には必ず行っておいた方がいい、金は何とかするから心配するな、と口酸っぱく言われて、俺は普通科の高校に進学した。
頭の出来がそんなに良くなかった俺は、高校でそれなりに頑張って勉強して、今の大学に進学した。
将来やりたいことがあったわけではない。でも父に苦労してほしくなかったから、安定した公務員になるのがいいかもしれないとは思っていた。
そんな大学二年の夏、とあるニュースが全国を騒がせていた。俺も気になってテレビのニュースやネットのSNS、掲示板などを覗き込んで情報を集めていた。
岡山県の山の中に、巨大な穴が突然開いた。
原因は不明。穴の深さも不明。面積は、何だったか日本の湖の中で五番目くらいに大きい湖と同じくらいと言っていた気がする。
山が陥没したのかと思われていたが、穴の開き方が明らかにおかしい。そこだけまるで最初から何もなかったかのように切り取られていて、淵からほぼ垂直に穴が開いている。
今は警察と自衛隊が協力して封鎖しているが、連日報道陣や野次馬が詰めかけていててんやわんやの有様だ。
あまりの大穴に気流が下方に流れ込んでいて、穴の上空は飛行機やヘリコプターは危険で飛ばせないらしい。
一体何が起こったのか、どんなことが原因なのか、ワイドショーで自称専門家が好き勝手なことを言っているが、どれも要領を得ないことばかりだ。
もちろん俺にも原因なんてわからない。物珍しさから調べているだけだ。
幸い穴が開いたところは民家がなく、人的被害は無かったらしい。
今のところ穴から何かが出てきたとかいうこともないし、まあせいぜいさっきも言った通り飛行機とかヘリコプターが上空を通れなくなったくらいだろう。
だが、突然の出来事だ。岡山でだけ起こったのか、これから同様のことが他の地域でも起こらない保証はないのではないか。ネットには嘘か真か次は東京に大穴が開くとか、静岡に開くとか、根拠もない噂が飛び交っている。
そんな大穴の情報を眺めて、飽きてから近くにあった漫画を手に取った。少年漫画だったと思う。
敵として巨人が出てきて、主人公たちは協力してその巨人に立ち向かっていく。有名な少年漫画雑誌に連載されていた作品だった。
俺はその漫画を買い集めていた。すごく好きだったわけでは無いが、発売日を調べて新刊を買いに行くくらいには好きだった。
そんな漫画を読んでいると、無遠慮に俺の部屋に一人の少女が入ってきた。ノックもせずに勢いよくドアを開けたのは俺の幼なじみだ。赤い髪を靡かせて部屋に入って来ると、そのままズカズカとベッドに寝転んで漫画を読んでいた俺の目の前にまでやってきた。
「大穴、見に行くわよ」
そう言って入ってきたのと同じくらい勢いよく出て行った。
大穴って、最近出来たあの大穴か? 俺もさっきまで調べてたけどさ。
……あんまり行きたくないんだよな、いい予感がしないし。
まぁでも、一度言い出したら聞かない奴だし、俺が何を言っても無駄だろう。大人しく従って早々に満足してもらうに限る。
俺は机の上に置いていたバイクの鍵を手に取ると、自分の部屋から出て行った。
先日唐突に開いたこの巨大な穴は、底の見えない深い深い穴だった。直径も何キロにも及んでいて、ここにあったはずの山が一つ丸々なくなってしまったほどだ。俺が住んでいた街のほど近いところで発生したこの未曾有の大災害は当然全国ニュースとなって騒がれて、海外からも調査団が派遣されて連日連夜の大騒ぎだった。
バイクから降りてそんな穴の淵まで近づいていく。当然周りは立ち入り禁止処置がされていて、全面封鎖されてはいるのだが、いかんせん広すぎるせいでその全ての面をカバーできているわけではない。俺たちは割と簡単に立ち入り禁止のテープを越えることができていた。
「ニュースで言ってた通り、底の方は何も見えないわね」
「そうだな。……落ちるなよ?」
「落ちるわけないじゃない、小学生じゃあるまいし」
そう言いながら穴の淵ギリギリまで近づいていく彼女に、俺は一抹の不安を覚えた。あまりその穴に近づくのはよくない気がしていた。
「……何にも見えないし、帰ろうぜ。見つかって怒られるのも面白くないし」
「もうちょっと近くで見ててもいいじゃない。どうせ誰もいないし、見つかりっこないわよ」
何も見えない穴の何がそんなに気になるのだろうか。
警察や自衛隊の人が近くにいないとはいえ、巡回はしてるはずだ。遠くない時間にここのあたりも通るだろう。
そもそも、専門家でも何でもない俺たちが穴を見たところで、何がわかるわけでもない。調査に来ている自称ではない専門家の人たちもいるのだから、その人たちに任せて俺たちはいつも通りに生活するべきだ。
そう思った矢先、彼女がバランスを崩した。穴の淵が欠けたのだ。
「あっ——」
まるでスローモーションのように、ゆっくり穴の方へ倒れていく。俺は考えるまもなく駆け出して、彼女の腕を掴んだ。
だが、人間一人の体重は、なんの準備もなく咄嗟に支えられるほど軽くはなかった。
俺と彼女は、一緒に穴の中へと落ちていった。
このまま死ぬのか、と思った。
大穴に落ちて、地面に叩きつけられてそのままぐちゃぐちゃになって死ぬのか、と。
せめて彼女だけでもどうにかしたかった。俺の命は別にどうでもよかった。彼女だけはどうにかして助かって欲しかった。
でも俺には何も出来ない。穴から落ちていくだけだ。
「……ごめん」
落ちながら、彼女が謝ってきた。
咄嗟に掴んで、そのまま抱き抱えた彼女は俺の腕の中にいた。
「何が」
「あんたの言った通り、淵に近づかなければよかった」
「今更だな」
会話をしながら、俺は必死に考えていた。
どうしたら彼女を助けられる? どうしたらいい? 何ができる?
必死に頭を働かせても、そんなアイデアは出てこない。当たり前だ。俺はただの人間で、化け物でも何でもないのだ。穴から落ちたら、そのまま落ち続けるしかない。
「まぁ、あんたと一緒に死ぬなら、それも案外悪くないかもね」
「……そうか」
彼女は諦めたように笑った。俺は諦められなかった。
俺に力があれば。俺に願いを叶える力があれば、彼女だけでもここから出すことができるのに。
俺は彼女を強く抱きしめた。少しでもどうにかしたくて、俺が落下のクッションになれば彼女を助けられるかな、なんてあり得もしない可能性に縋って。
「何か見えてきたわね」
「……黒い球体?」
穴の下の方に、それはあった。
かろうじて届く太陽の光を飲み込んでしまう、真っ黒の球体。世界で一番黒い物質と呼ばれてテレビで紹介されていたものより、なおも黒く見える。不気味な球体だ。
「あれに叩きつけられて死ぬのね」
ぽつりと彼女が呟いた。体が震えていた。
彼女が死ぬ。そんなことがあっていいのか。寿命で死ぬならともかく、こんな誰も見ていないところで、俺なんかと一緒に死んでいいのか。
そんなことあってはならないと思う。強く思う。
けれども、俺にはどうすることもできなくて。
「……ごめん」
今度口にしたのは俺で。
彼女は微笑んで。
俺たちは黒い球体に落下した。
俺が次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。
蝉の声がうるさく鳴り響いて、クーラーの冷たい風が頬を撫でる、そんな病室だった。
「生きてる……?」
どうして、という声は掻き消えて、俺は咄嗟に身を起こした。
俺のことなんかどうでもいい。彼女はどうなった? 生きてるのか? 俺がここにいるなら、彼女もここにいるのか?
「っ……」
強烈な眩暈が襲ってきた。いきなり体を起こした反動だろうか。
「急に体を起こすからよ、バカね」
隣から声が聞こえた。彼女の声だった。
眩暈で眩む視界で横を見る。俺が寝かされていたベッドと同じものが置かれていて、その上には目立つ赤い髪をした彼女が寝そべっていた。
「生きてる……」
「あんた、さっきも同じこと呟いたじゃない」
そう言って笑う彼女。
入院着のような簡素な服を着ているが、どこにも怪我はなさそうで、元気そうだった。
「俺たち、穴に落ちたんじゃ?」
「そうね。でも、気づいたら穴の淵に倒れてたんですって。通りかかった警察官が見つけてくれて、この病院まで搬送されたって。看護師さんが教えてくれたわ」
穴の淵に? どうしてそんなことになるんだ。俺たちは間違いなく穴に落ちて、あの黒い球体にぶつかったはずだ。穴の淵に倒れてるなんてあり得ない。
確かに俺は彼女を助けたいと思った。彼女を助けるために願いを叶える力があればと思った。だが、そんな非現実的なことが本当に起きるはずがない。
……何かがおかしい。俺たちの身に何かがあった。でも、それを俺は覚えていない。
「……まあ、いいか。生きてるんだし」
俺たちは生きている。
今はそのことを噛み締めよう。
特に体に異常のなかった俺たちは、数日の入院を経て退院した。
退院した帰り道、ふと自分のバイクのことを思い出した。穴の淵の近くに停めていたが、今はどうなっているんだろう。
「警察の人が回収して、あんたのアパートまで運んでくれたみたいよ」
隣に歩いている彼女がそう言った。
それはありがたい。またあんなところまでとりにいくなんていうのは、できれば避けたかった。足もないのにバイクで言った道のりを移動するなんて、どれだけ時間がかかるかわかったもんじゃない。
俺と彼女は途中で別れて、それぞれの帰路に着いた。俺は自分のアパート。彼女は彼女のアパートへ。俺たちはどっちも実家から離れて大学近くのアパートを借りて住んでいた。
その日の夜、どうして俺たちが助かったのかをもう一度考えてみた。
だが、あまりにも不可解すぎて、やはり答えは出なかった。まさか、俺の願いが叶った、なんてことはないよな。いや、結果的には叶ってるんだが。
次の日、俺は大学の講義に出るために朝からアパートを出た。一限目、一緒の講義を取っている彼女と合流するために、彼女のアパートの方に向かって歩き出す。彼女のアパートの方が大学に近かった。
ふと歩きながら、周りの景色を見渡す。見慣れた町の風景だ。そこそこの高さのビルがそこそこの間隔で建っている。たくさんの人が出歩いていて、それに合わせるかのように多くの自動車が行き交っている。
田舎でもないが、都会というにも小さな街は、俺が生まれ育った街だった。
夏の日差しがギラギラと照り付けていて、歩いているだけなのにじわりと汗が滲んでいく。昨日の夜考えていた不可解な現象が頭によぎり、足を止める。俺は一人ぽつんと立ち止まって、空を見上げた。時々仕事で急いでいるだろう人が俺にぶつかって、小さな舌打ちを残して去っていく。
「——」
たくさんの黒い人並みの中に、極端に目立つ赤い髪を見つけて、俺は思わずぽつりと名前を呟く。
徐々に近づいてくる赤い髪の彼女は、口を大きく開けて俺に向かって何かを叫んでいるように見える。だが、人混みと彼女との距離から、何を伝えようとしてきているのかはいまいちわからない。
また俺は空を見上げる。
空を隠すように建つビルの影に、巨大な影が見えた気がした。
巨大な怪物が現れた。
その怪物は、ビルよりも大きくて街を壊して回っているらしい。
テレビやネットの動画サイトで見られる映像は、まるで現実のものと思えなかった。
毛むくじゃらの、猪とライオンを足して割ったかのような見た目の巨大な怪物。カラフルな色合いで、人の下半身に鳥の上半身を持つ怪物。立ち上がったワニのような、爬虫類みたいな怪物。この世のものと思えないような、悍ましい怪物たちが暴れまわり、街が破壊されていく。
自衛隊も米軍も出動して対処に当たっているが、特に効果がない。いくら戦闘機や戦車で砲撃しても、傷がつかないのだ。
何もかもを破壊していく怪物から『壊獣』と命名されたその三体の怪物は、蛇行しながらも段々とこっちに近づいてきているらしい。ただし、その進行速度は非常に遅くて、俺たちが住んでいる街まで辿り着くにはあと数ヶ月はかかるだろうという見込みだ。
「何なのかしらね、あいつら。何でこっちに向かってくるのかしら」
大学の食堂で昼食を食べながら、彼女が呟いた。
「さあな。穴に用事でもあるんじゃないのか」
何気なくそう返す。
「何でそう思うわけ?」
「何となくだよ。ただの通り道かもしれないけど、穴だってあるわけだし。あいつらが出てくる直前に空いた穴なんだから関係あるかもしれないだろ。それに」
「それに?」
「あの穴、不思議なことが起こるだろ」
「……そうね。それは否定しないわ」
穴に落ちて、生存した。
俺たちは警察の人にもそう説明した。もちろん全く取り合ってはもらえなかったが。
だが、俺たちは共通の認識として穴に落ちた記憶があるし、そこからなぜか生存した記憶もある。不思議なことが起こる穴と、こちらに向かってきている怪物。無関係とは思えなかった。
「何にしても、そのうち出ていかなきゃいけないかもね、ここから」
「……そうだな」
俺たちはその後、無言で昼食を食べた。
食堂についていたテレビでは、相変わらず怪獣の報道が流れていた。
「私の個体識別名称は、カレナ・ラドフォード。世界初の完全自立型AIを搭載したアンドロイドとして製造された。製造目的は壊獣の撃滅。それと、あなたの監視」
ある日、いつものように大学に向かおうと家を出たところで、そんなことを宣う紫色の髪の少女と出会った。無機質に無表情で、確かにロボットっぽい雰囲気の少女だった。
「カレナ、あんたの言ってること本当なの?」
自分一人で手に負えないと思った俺は大学に行くのをとりあえずやめて、彼女のところに来ていた。カレナ・ラドフォードと名乗る少女も一緒だ。
「事実。私を開発した博士は、あなたたちが大穴に落ちて生還したことを事実だと仮定して、研究を行なっている。あの大穴には、正確には大穴の底にある黒い球体には世界の法則に作用する何らかの力がある」
「その何らかの力のおかげで、俺たちは助かったのか?」
「そう。博士は、触れた者の願いを叶える力があるのかもしれない、と言っていた。実際に触れたのはあなたたちだけだから、確証は持てない。でも、監視して報告するには十分」
「何を言ってるのかさっぱりわからないわ。監視することと壊獣を倒すことがどう繋がるのかもね」
「あなたたちに働く力の作用は、壊獣を撃滅する際の何らかのヒントになるかもしれないと博士は考えている。自衛隊や米軍の装備で打倒することが困難な現状、壊獣に関するヒントはどんな些細なことでも必要」
淡々と語る彼女は、俺と彼女を交互に見た。
「これから、よろしく」
俺と彼女は顔を見合わせた。
作戦内容を伝える。なんて言われても、まだ俺には実感が湧かなかった。
それまで平和に暮らしてきたのに、今日からいきなり命をかけて戦えと言われても困る。心の準備ができないし、したくない。
俺は、どうしようもなく弱いのだ。どうにも後が無くなって、こんなところまで駆り出されても、いまだに踏ん切りがついていない。
……人と話すのは苦手だった。新しい環境に放り込まれるなんて尚更だ。人とどう接していいかわからない。自分以外の他人は、何か計り知れない全く別の生き物のように感じていた。
それでも、どうにか生きていくために俺も人間のフリをして、他人と接していた。そう、フリだ。人間として出来損ないの俺は、人間のフリをするしかない。
人間のフリをする俺と、アンドロイドのカレナ・ラドフォード。一体何が違うのだろうか。
「アンタには無理そうね。無理せずあたしに任せときなさい」
艶やかな赤い髪が特徴的な彼女がそう言った。
幼なじみの彼女は、俺が人間だと感じられる数少ない人だった。数少ないというよりは、唯一だと言っていいかもしれない。
「それにしても、巨大な人形の怪物なんて、漫画やアニメの世界じゃないんだから。それにいきなり戦えだなんて、勘弁して欲しいわね」
「そうだな」
ラドフォードを作った博士と、その研究所の主体の元、俺たちは壊獣と戦うことになった。軍隊ではダメだった。俺たちだって何ができるかはわからない。
正直戦いたくなんてない。せっかく拾った命を捨てる真似なんかしたくない。いや、させたくないのだ、彼女には。
俺には、大事なものはそんなに多くはない。けれども、守りたいと思うものはあった。
研究室兼作戦室のモニターには、巨大な人型の獣が映し出されていた。
赤い髪の彼女が叫んでいる。街はボロボロに崩れ落ちていて、無事なものは何一つとして残っていない。
俺はひび割れて、地面が露出したアスファルトの上に倒れ込んでいた。
巨大な怪物が歩くたびに、地震のような振動が響く。頽れたビルの破片がパラパラと地面に降り注ぐ。
それまで、当たり前のように享受していた日常が崩れ去った。あっけない終わりかただった。
残されたのは破壊された街と、悲嘆と絶望に暮れる人間だけだった。
全てを壊す巨大な獣は、一心不乱に大穴を目指して進んでいく。大穴の黒い球体を目掛けて。
「——なんなんだ、これは」
つぶやきが漏れた。
俺たちが何をしたというのだろうか。こんな訳のわからない理不尽なことがあっていいのか。
——この世界は、間違っているのだろうか。
全て全て壊れてしまった。どうしようもなかった。
俺たちは、大穴の淵に立っていた。壊獣が三体、大穴の淵で止まっていた。
「これが最後ね」
彼女が言った。
博士が言うには、壊獣は黒い球体に触れることで、世界をリセットするらしい。本当かどうかはわからない。何せ、それを証明してしまったら世界は無くなってしまうのだから。
「私が壊獣を引きつける。その間に、あなたは穴の中に降りて」
「わかった」
壊獣を直接倒すことは不可能だった。通常兵器は弾かれ、全く意味をなさなかった。
俺たちは、壊獣よりも先に黒い球体にもう一度触れることで、黒い球体を処理するという考えを持ってこの場にやってきた。
これは賭けだ。もはや俺たちにはそうするしか残されていなかった。
「行くわよ」
「……ああ」
ラドフォードが駆け出した。俺と彼女は、穴の淵から中へと飛び込んだ。
後方——上空となった場所から、爆撃音が響き渡った。ラドフォードと、最後の作戦部隊が壊獣の足止めをしているのだろう。
黒い球体は触れた者の望みを叶える。博士はそう言っていた。俺とフィオナが同時に触れるとどうなるのだろうか。どちらかの望みが優先されるのだろうか。それとも、両方の望みが叶うのだろうか?
もう一度言うが、これは賭けだ。どうなるかわからない、一か八かのギャンブルだ。
「ねぇ。あたし、あんたのこと好きよ」
落ちながら、唐突に彼女が言った。顔は下を向いていて、表情はうまく伺えなかった。
「そうか。俺もだ」
俺も下を向いたまま、返事をした。
俺と彼女は、落ちながら手を握り合った。黒い球体がすぐそこまで迫っていた。
手を伸ばす。黒い球体に触れる。
俺が願ったのは————
「全部思い出した?」
俺とフィオナは、真っ白な空間にいた。
俺とフィオナ以外、何もない真っ白な空間だ。上下の概念もなくて、俺は下を向いているのか、上を向いているのか、そもそも立っているのか浮いているのかもわからない。
「……ああ」
体の感覚がわからないまま、視線だけはフィオナに向けて返事をする。
今ので、全て思い出した。
俺は、平凡な会社員だった日本人ではなく、壊獣によって世界が破壊された日本に生きて、壊獣と戦っていた人間だった。
そして、最後に黒い球体に触れて願ったのだ。
「別の世界で、全てをやり直す夢を、か」
世界は破壊されて、どうしようもなかった。そもそも、俺はあの世界に大した未練はなかったように思う。
だから、願ったのだ。別の世界でやり直すことを。
「あんたって、ホントにバカね」
フィオナが笑う。いや——彼女が笑ったのだ。
「そのバカに付き合ってくれて、感謝してるよ」
彼女は気づいていたのだろう。俺たちが生きていたあの世界が、俺が願った夢の世界であるということに。
「感謝しなさいよね。どれだけの回数、付き合ってあげたと思ってんのよ。壊獣が現れてはやり直しって、あんた壊獣にトラウマ持ちすぎ」
「仕方ないだろ、それは」
「……まぁ、それもそうね」
俺は、何度も何度もこの夢をやり直していた。
やり直した記憶は、俺には残っていない。それを代わりに押し付けたからだ。それはサクライ先輩という形で、この夢に現れていた。
大した未練はないと思いながら、わずかな郷愁がフルトを生み出した。
そして、心の奥底で忘れることのできなかった現実が、ラドフォードを夢の中にまで引っ張り込んできた。
「それで、どうするの?」
彼女が問いかけてきた。
具体的に何をどう、とは聞かれなかった。
俺がどう答えるのかは、もうわかっているのだろう。
「あんたがどんな答えを言ったって、あたしはあんたに付き合うわよ」
彼女はそう付け足した。
……黒い球体は、触れた者の願いを叶えるらしい。それがもし本当であるなら、俺はおそらく最初に触れた時点である力を手に入れていた。全く使いこなせていなかったが。
今まで見ていた夢も、俺が本当に望むのなら夢ではなく現実になるのかもしれない。最後に壊獣に撃ち落とされたところの続きから再開して、再開した暁にはまたこれまでのことなんてさっぱり忘れているのかもしれない。
壊獣は三体とも倒したのだ。落下した後の怪我さえ治ってしまえば、老後まで安全に穏やかに生きていけるかもしれない。魔法をバンバン使ってドンパチやる派手な生活を送るのもいい。クソッタレな現実を捨てて、夢を現実のものにして暮らすのが、俺にとって賢い選択肢なのかもしれない。
——だが、それは。
俺は彼女を抱き寄せる。いつの間にか上下左右の感覚が戻り、俺は両足でしっかり立って、彼女を抱きしめていた。
「お前、ずっとそばにいてくれたんだろ。だから、今度は俺がずっとそばにいるって約束するよ」
「……そう。後悔しない?」
彼女が俺の背中に手を回す。俺たちは抱きしめ合う形になった。
「今まで散々してきた。だからもう、大丈夫だ」
そう言うと、彼女は笑った。穏やかな笑顔だった。
大丈夫だ。俺は、俺たちは現実に戻ってもしっかりやっていけるさ。
「じゃあ、この願いを叶える力、あんたに返すわ」
「それはお前が持っててもいいんじゃ」
「——あんたって、本当にバカね」
彼女の唇で、俺の唇が塞がれる。驚く俺と、目を閉じて口づけをする彼女。
刹那の時間が永遠にも感じられた。突然のことに思考が止まった。
長い長い時間をかけた口づけは、ゆっくりと彼女が唇を離したことで終わりを告げた。
「今度は、あんたがあたしの願いを叶えなさいよね!」
真っ白な世界に、亀裂が走る。パラパラと崩れていく。
破片の一つ一つに、夢の世界での出来事が映し出されては消えていく。夢の世界が終わりを告げ、現実に戻っていく。
「——いくらでも、叶えるさ。これからずっと一緒にいるんだから」
そして、俺たちは俺たちは溶け合うように、夢の世界に別れを告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます