マリーへの手記、或いは沈める寺の一考察 

磯崎愛

その一 マリー

たゆたえども沈まず(Fluctuat nec mergitur)



「海底で暮らすというのは、とても安心できることよ」

                   シュペルヴィエル「セーヌ河の名なし娘」



このところツイッターのタイムラインに大洪水に見舞われたパリの風景があふれていた。ルーヴル美術館の収蔵品を避難させるほどの災害だったので、あまりフランスに関心がなくとも水上都市のようなパリの姿をご覧になった方もいるにちがいない。

 パリを訪れたのはもう二十年以上も前の学生時代のことだ。当時、私はフランスのブルゴーニュ大学に夏季留学していた。仏語を学ぶため世界中からひとが集まるそこで寮生活をしながら、休みの日はパリに出かけたり大学主催の世界遺産を巡るバス旅行に参加したりで遊んでばかりいた。

 マリーと知り合ったのはそのバス旅行で、たまたま席が隣りになったのだ。

 初対面の印象はあまりよくなかった。じぶんを棚にあげて言うけれど、日本でフランスに興味のある子たちはよくも悪くもなんとなく気取ってお洒落に見えるのに、そういう感じがしなかった。肩まで伸びた茶色の髪は無造作というよりぼさぼさで、そばかすの浮いた化粧気のない顔に笑みはなく、挨拶をしてもその深い青の瞳は私を見なかった。もちろん定型通りの言葉は返ってきたけれど、すぐに窓の外へと視線をむけた。わかりやすく、これ以上話しかけないで欲しいと訴えられて私はそれに従った。

 車中でみなが自然とフランス語の歌を合唱しはじめたときも彼女はくちを閉じていた。けれど、私がつられて歌いだしたときはこちらを見た。何か言われるまでは気にしまいと割り切っていた私を見ているのがわかった。意地になって横を見ないでいると、ぽすんと音がした。目も耳も覆うように髪に顔を埋めたかっこうで紺色のポロシャツの肩が座席の背にもたれかかっていた。

 次の日は私の隣に同じ日本人の女の子が座った。ゴッホの向日葵(ひまわり)みたいに鮮やかなワンピースがよく似合っていた。その子は杏奈(あんな)と名乗ってすぐ、彼氏がいるのかと尋ねてきた。つづいて生年月日や好きな音楽、父親の職業まで聞かれて目を白黒させたけど、美人でお洒落な子に親しげに話しかけられて嬉しかった。でもすぐに、日本にいる彼氏の文句ばかりになった。杏奈は私のように大学のプログラムで来ているわけじゃなく単独留学なのでさびしいのはわかったけれど、だんまりのマリーのほうがずっと好ましかった。

 翌日バスに乗りこむ列の後ろにリュックを背負ったマリーを見た瞬間、駆け足でそこへすべりこんだ。おはようと挨拶するとマリーは一瞬目を大きくした。ぎこちなく返るボンジュールのRの音が、英語を話すひとらしく巻き舌なのがおかしかった。前の日はちゃんと、フランス語独特のうがいをするときに似たあの音だった。

 その翌日も私たちは隣り合って座った。部屋は別だったから夜と朝はどうしても離れるのだけど、昼ごはんのときは同じ大学の子たちではなくマリーのちかくに陣取った。ずっと外国語に耳を澄まし緊張するなかで、あまり会話しなくてすむのは気楽だったせいもある。七泊八日の旅行が終わるころになって、私たちは同じ寮の二階と三階にいるのだと知った。それからは、あっという間に距離がちぢんだ。

 私たちは寮のベッドで腹這いになり、枕の上に本を置き、葡萄酒に氷を入れたグラスを鳴らしながらアーサー王伝説を読み、源氏物語のお姫さまの品定めをし、海に沈んだイスの都の物語について何時間でも話していられた。話してと言っても、むずかしいことじゃない。アーサー王伝説なら私がランスロットが好きといい、彼女はガウェンがかっこよいという、そんな程度でも十分に盛り上がった。図書館でケルトに関するものを借りてきて見せ合ったりもした。カルナックの巨石群の写真集、『真夏の夜の夢』、ラヴクラフトにも影響を与えたダンセイニ卿の本、麗しい『ケルズの書』、エンヤのアルバム――彼女はとりわけイスの都の伝説が好きだった。その小説を書いていることは別れ際に教えてくれた。私たちは二人とも熱心に小説を読み書きする人間だった。

 今にして思えば、マリーは私のことを英語もフランス語もろくに話せなくても、歴史や物語はとても好きで、それについて話すに足る相手だと信用してくれたのだろう。

 だからといってまともに意思の疎通がはかれていたわけじゃない。私はずっと、髪をおろしたマリーの首の後ろが熱をもたないのか不思議だった。暑くないかたずねると深い青の眼をしばたいて、全然と首を横に振られた。たしかにさほど気温は高くない日のことだった。なんとなく拍子抜けした私の頬にマリーは黙ってキスをした。

 お互い本を読んでいないときは他愛無いことばかりした。たとえば雀斑(そばかす)のある金色の産毛の生えたマリーの腕に冷たいグラスをおしあてたり、ポニーテールの後れ毛を指でつまんで引っ張られたり、肩の上に顎を置かれたまま本を読んだりした。フランス語の黙読は私のほうが早くて、わざと意地悪く、早く早く(ヴィットヴィット)(vite! vite!)と急かすと頬をかるくつねられた。

 日本に置いてきた彼氏のことは意識して忘れた。本を読まないひとではなかったけれど、マリーのほうがたくさん読んでいた。

 帰国してから私の様子がおかしかったらしいのは、親友が「だいじょうぶ?」と小声で聞いてきてくれたので覚えている。彼氏には振られた。それを心配して慰めてくれる子も多かった。今になって言うけれど、ごめん。あのころ四十キロぎりぎりになるほど痩せたのはきっとマリーのせいだ。

 


 



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