第13話 そして二人は 後編
空港に着くまでにかっ飛ばした自転車は、駐輪場にカギを差したまま置き去りにした。
頭の中でクスリにお礼を言って、そのまま全速力で駆けだす。
脚が動く。息が荒れる。血が逸る。
あー、ここまで全力出したの何時ぶりだろ。
脚が、肺が、神経が、脳が。
速く速くと私を急かす。
今朝の記憶を頼りに、空港のロビーを駆けていく。
トランクを転がす人の波を抜けて、走っていく。面食らう人の横を抜けて、バランスを崩しかけた人を片手で支えて、謝ってから、でもそのまま走り続ける。
抜ける、抜ける、抜ける。
受付に滑り込んで、搭乗口のお姉さんに聞き取れる限界の速さで声をかける。
「羽田まで!! あります?! 一番早いやつ!!」
お姉さんは突然、走り込んできた私に面食らいながら搭乗手続きをして、チケットをくれた。なんでか大慌てで、私が急いでるのにあてられたみたい、はは、おかしいもんだね。
お姉さんにお礼を言って、再び全力で駆け出す。
肺が酸素をよこせと喚く。
心臓が血が足りないと逸る。
いいよ、使え、使え。
今はいい。
脚を使え、目を使え、耳を使え、神経を使え、肺を、心臓を、全部使え。
出し惜しみなんて一マイクロミリも必要ない。
目的はただ一つ。
百井シロカに会うためだけに。
今、私は、ただそのためだけに動いてる。
ああ、ああ。
まだかな、まだかな。
今は、飛行機の搭乗ゲートが開くのを待つ、この時間さえ待ち遠しい。
※
大分からの飛行機を降りて、私は夏の夜に二度目の羽田に降り立った。
飛行機から降りる人の波に揉まれながら、想う。
ここから飛行機を乗り換えて、秋田まで帰るんだ。
秋田までの飛行機の搭乗ゲートが開くまでの待ち時間は三十分。
たったの三〇分。
搭乗ゲートからロビーに出て、改めて人の波を見る。
溢れんばかりの人がいる。もう、最終便の時間も近いというのに。
一体、どれくらいの人がここにいるんだろうか。
羽田空港というのは一日におよそ二〇万人の人間が利用するそうだ。
仮に今、この時間、一万人の人間がいたとしたら。
たった二人の女子高生が三〇分の間に、一万人の人間からお互いを見つけられる可能性はどれくらいだろう?
総床面積は26万8000㎡。この中に一万人の人がいると仮定して私が人を確認できる範囲を私を中心とする半径五メートルの円とすると。
どれだけがんばったとしても三〇分で調べられるのは全フロアの8分の1程度。
概算で私たち二人がであえる確率は……。
ざっと2万6816分の1。
蠢く人の波に辟易しながら前を見た。
弱音が少し、私の歩を鈍くする。
さすがに難しいのかもしれない。
こんな人の中、見つけられっこないのかもしれない。
そんなふうに、一瞬、俯きかけた頭を、私は慌てて前に向けた。
だって、合坂アカネは私の見た目を知らないのだから。
対して私はツイッターで写真を見てるから、なんとなくわかる。
つまり、私の方から彼女を見つけないといけないのだ。
三〇分、あと三〇分。
トランクを転がしながら、秋田に行く搭乗ゲートに向かう。単純に考えれば、私が出てきたゲートからそこまでが一番出会う確率が高い。
仮に、この場に一万人いようが、ルートを限定すれば、実際に行きかう人は少なくなる。
もちろん、次善の策は打ってある。
でもそれが、いま最善を尽くさない理由にはならないから。
さあ、行くよ。私。
ぎゅっとトランクの持ち手を握りしめた。
奇跡でも、運命でも、計算でも、推理でも、なんでもいい。
今、使える物は全部使って。
絶対に見つけてやる。
※
「さあ……どうしたもんかな」
羽田に降り立って搭乗ゲートを潜り抜ける直前に一人、呟く。
かくれんぼといっても、私達のゴールはお互いが出会うことにある。
となると、大雑把に選択肢は二つだ。
こっちから見つけるか、向こうに見つけてもらうか。
ただ、見つけてもらう、の選択肢はおのずと外れる。
ボタン経由で伝えてきた以上、向こうに見つける意思があるかどうか不明だから。
百井シロカは、本に暗号を仕込んだりするところから、表に出るのを嫌い、意図を隠す傾向がある。
もし、本当にかくれんぼ、として捉えているなら。
私を見つけても、最悪、声をかけてこない可能性もあるし、もちろん見栄えを知らない可能性は……ないかな。ツイッターくらいは見てるんだろう。
まあ、どちらにせよ、ただうろうろ歩いて、見つけてもらうのを待つだけなんてのは性に合わない。何より楽しくないしね。
しかし、見映えもわからずに、どう判断するか。
……いや、ま、なんとかなるか。
そこはその時々の自分の勘を信じるしかない。どうせ、できることは限られているのだし。
強いてヒントになると言えば、
髪を染めている可能性を考慮しても、なんとなく目・鼻・形は一致するだろう。
ボタンが教えてくれた電車の時間から逆算した、百井シロカは予定では、もう20分ほど前に羽田についている。
そこから秋田への飛行機に搭乗するまでおよそ10分。
時間は、ない。
とりあえず、走るか。十中八九、搭乗口近辺にいる、はずだし。
うし、と軽く勢いをつけて。
目の前が開けたと同時に駆けた。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
眼を動かす。
一つでも多く、情報を取り込むために。
瞬きの一つすら惜しむ、一人でも多く見逃さないために。
時間が過ぎる。
まだ。
まだ。
逸る息を思考ができるぎりぎりに抑える。
探せ。探せ。見つからない、人波にはいない?
可能性あり、もちろんこの中にいる可能性もあるけれど。
考えろ。
いま、残り五分もない状況で。
最大限の人を検索して割り出す方法。
空港全体を見回して気づく。
上だ。
発想と同時に駆けだした。
エスカレータを駆けあがって、一つ上の階へ。
空港は全体が一望できるようにできてる。
上から見下ろせば、さっきまで通っていた道がよく見えた。
よし。ただ、このままじゃ顔を上から見るから判別ができない。
「
身体全体が震えるほど、この場所に、いや空港のロビー全てに響かんばかりに。
息の一滴まで吐き出して、身体のエネルギーのいっぺんに至るまで振り絞った。
あらん限りの声を出した。
酸欠にふらつく頭をどうにか制御して、視界を回す。
道行く人が私を見上げる。
今だ、この時間だ。
探せ。
探せ。
私を見上げる人の中から、百井シロカを探し出せ。
大半は困惑してるだけ。
あるいは、人探しだと気づいて目を逸らすだけ。
見ろ、探せ。
動揺してる人がいないか。
呆けている奴はいないか。
見た目がクスリと一致する人はいないか。
探せ、探せ、探せ。
適当に四人くらい辺りをつけて、手すりの上を走り抜けながらエスカレーターに滑り込んだ。
その人たちが呆けているうちに、人波を掻き分けて、抜けて進む。
「あんた、百井シロカ?!」
「え……ち、ちがいます」
高校生くらいの女の子、違った、次!
抜ける、人波を越える、まずい、一人はもう搭乗ゲートを抜けかけてる。
でも、あの一人を追うと、残り二人の位置を見失う。
歯噛みしながら、やむを得ず一番近い一人を目指す。
「あんた、百井シロカ!?」
「え、ち、ちがうけど」
ラスト! 一人。焦りながら、歩を進める。焦るほど見失いかけるのを必死に制御して、歩みを進める。
―――――――――――――シロ―――。
声をかける前に気が付いた。
百井シロカじゃない、というか高校生ですらない。
上の階から遠目に見えていたから、気付かなかったけど壮年の女性だった。
白いワンピースが年若く見せていたのかもしれない。
慌てて振り返るけれど、最後の一人はもう、搭乗ゲートの向こうだった。
……間に合わなかった、か。
息を吐いて、ふらふらと近くのベンチに腰を下ろした。
思わずため息をついて、パーカーで視界を覆う。
同時に身体の緊張が風船から空気が漏れるみたいに、抜けた。
息に乗せて、腕や足から力が抜けていくのが分かった。
ゲームオーバー……かな。
あー……。
呻き声が漏れる。
ちょっと、……悔しいな。
向こうに、勝負って言う気が合ったのかはわかんないけど。
負けちゃった……な。
いつ振りだっけ、本気で何かをやって、達成できなかったのって。
随分、懐かしい感じがする。
胸が竦むこの感覚が。
頭の裏側が急に冷えていくこの感覚が。
肩から、頬から、目尻から、滲みでるみたいに力が抜けていくこの感覚が。
随分、懐かしい。
そういえば、最近、ご無沙汰だったね。
無意識に、自分が本気を出せば何でもできるって思い込んでたな。
全然そんなことないのに。
小さい頃は、そんなことは当たり前の事実だったのに。
いつからか勝ち方を覚えてから、久しく忘れていたこの感覚を。
随分と久しぶりに、ようやく想い出した。
搭乗ゲートがしまるアナウンスが聞こえてくる。
「シロカ」
零れた言葉は行きかう人の、きっと、誰にも届かなかった。
※
大声がした。
空港全部に響くくらいの。
初めて聞いたどこかの誰かの声。
私を呼ぶ声。
少し前、人波に揉まれるのに疲れた私は、上階に上がって全体を眺めようとした。
ただ、それでも周りに人が多くてうまく集中して観察できなかったから。
もう、出発までの時間もあまりないから、必死にトランクを引っ張りながら急いで登って、いざ下の階の人を眺めようとしたとき。
溢れんばかりの、人間が出せる音量か怪しいほどの、そんな大きな呼び声が、空港中に響いていた。
呆けること、数秒。
最初、トランクを置き去りにして駆けだそうとした。でも、そもそも搭乗時間まで、もうあまり猶予がない。
ここでトランクを置き去りにしたら、飛行機に間に合わない。
数瞬の迷いの末、トランクをひっつかむと私は必死に、トランクを引きずりながらエスカレーターを駆け下りた。他人を巻き込まないように、自分自身がトランクにつぶされないように一段一段確実に、でも急ピッチで降りていく。
重いトランクを引きずるから息が荒れる。段を一つ降りるたび、自分の体重ごと持っていかれそうになって慌てて体勢を立て直す。
そうやって、少しでも早く降りようと、ついた頃には息は乱れんばかりで。
でも、ついた。
ようやく。
のに。
「あれ?」
いない。
どこに?
どうして?
さっきまで、確かに、いたのに。
呆けて。
数秒固まって、ようやく気付いた。
考えろ、なんで合坂アカネはあんなことをした?
そこに何か意味が、意図があったんだ。
あれは上から声をかけて、下の人に上を向かせるためだ。
そこから辺りをつけて、声をかけにいったのだ。
だから、今、下にいる。
慌てて手すりから身を乗り出して下を見る。
分かる? 分からない!
行きかう人は混雑を極めていて、誰がどれを探してるかなんてわかりっこない。なにより、それで見つけてからじゃ間に合わない。
とりあえず、とりあえず、降りなきゃ。
さっきと同じように、必死で、大慌てでエスカレーターをトランクと一緒に駆け下りる。ああ、もう危ないったらない。
必死に降りて降りて、思わず頭を抱える。
人。 人。 人。 人。 視界を埋め尽くさんばかりの人。
ああ……もう、今は人波に酔ってる場合じゃないって言うのに。
焦りと苛立ちをどうにか抑えながら、必死に人波を急いで進む。
人。熱。音。視界。埋め尽くす。他人。他人。他人。
想うように進めない。少し急いだだけで、トランクが人にぶつかる。
小さく舌打ちされて、歩を緩めると尚のこと進めなくなる。
ああ、でも、それでも探さなきゃ。
見つけなきゃ。
この中に。
このどこかに。
もう、すぐそこに。
いるんだ。
合坂アカネが。
いるのに。
いる、はずなのに。
『秋田空港行きJAL163便、最終搭乗のご案内をさせていただきます。JAL163便に搭乗予定のお客様はお急ぎの上、指定の搭乗口よりご搭乗ください』
間に合わなかった。
いるのに。
本当に。
きっとすぐそこに。
このまま、飛行機を乗り過ごせば、まだ探すことができる。
できる。
できるけど。
でも、それはなんというか、
なんていうんだろう、ルール違反、かな。鬼ごっこやかくれんぼじゃ、ないんだけどさ。
仮にそれで出会っても、お互い納得して出会えないような、そんな気がしたから。
その『納得』は私たちにとって、何より大事な気がしたから。
これがもしちゃんと時間内に会えてたら、飛行機を乗り遅れるのも、仕方ないなって想うんだけどね。
私は小さく、息を吐いた。
仕方ない。今日は、ここまでかな。
気持ちを引きずるのは飛行機の中でしよう。
だから、すっと前を向いて歩きだした。
早く行かなきゃ、飛行機が出てしまうから。
残念、だよ。
すごくね、残念。
でも、そこまで落ち込んでいないのは。
きっとまだこの先があると知っているからだと思う。
だって十回連続で同じ場所に立った私達だ。
たった一回すれ違ったくらい、どうってことないよね。
きっと、またどこかで会う機会はあるはずだから。
そう遠くないうちに。
そんなことを想って、歩く、そのうちに。
「シロカ」
声が聞こえた。
……気のせいかな。
たくさんの声が、響く空港だもの、都合のいいように聞こえる音の一つや二つあるのだろう。
振り返ったけれど、視界に映るのは蠢く人ばかりで当然、合坂アカネなんて見つからない。
軽く笑って、私を前を向いた。
そうだって気にしなくたって。
そう遠くないうちに会えるから。
「またね、アカネ」
誰にも聞こえない言葉を、一人こっそりつぶやいて。
※
空港のベンチで独り天井を仰ぐ。
秋田行の便が出発してもう結構な時間が経っていた。
……へこんでる。
正直、まれにみるへこみ方をしてる。
身体から力が抜けて、動かない。
息はただ漏れ出るばかり、いつ吸っているのかも判然としない。
後悔はないけれど、脱力感と虚無感だけが身体をじんわりと藍色に染めていく。
全力で挑んで、それでもなお成しえなかった感覚。
敗北感っていうのかね、別に勝負をしていたわけじゃないから、ちょっと違う気もするけれど。
あー、でもほんと懐かしいな。
頑張っても、頑張っても結果にならないことはある。
そんな、ちょっとひねた小学生なら知っている事実を、久方ぶりに想い出せた。
小学生の頃、お父さんに、大学の研究室に行き始めたころに
あー………………。
あー…………。
あー……。
ああ。
肺が震える。
頬が引きつる。
抑えきれない息が漏れていく。
笑う。笑う。
腹を抱えて、笑う。
やっばい、楽しい。
こんな遊び体験したことがない。
日本横断して、擦れ違って。
羽田でまた、擦れ違って。
それでなお、会えなくて。
まだそれでも会いたくて。
だからこそ、この出会いは劇的でないといけないんだ。
にやにや笑って、ぶんぶん腕を振り回して。
次の遊びに想いを馳せる。
そんなことをしていると、スマホがぶるぶると私を呼び出した。
「もしもしー、ボタン。どうしたの?」
『あ、出会うの失敗したらしーじゃん』
「ありゃ、なんで知ってんのよ」
『シロカから電話あったんだよねー』
「シロカって、百井シロカから?」
『そ、ライン交換したからさ、で、「声は聞こえたの! 声は聞こえたのに見つけられなかったの! あともうちょっとだったのに!」って連絡来たわー』
「——————」
『あとは……「次こそ会いたいな」だってさ』
「ふうん———、そっか」
『なに? もうちょっとへこんでるかと思ったけど……上機嫌ね』
「んー? あはは、そうでもないよ。ところで、ボタン、東京土産なにがいい?」
『んー……食べれるものかな、うち弟たちと分けるし。……ってやっぱ、上機嫌じゃん』
「っくふふ、そんなことないってー」
『そーなの』
「そーなの」
『で、ほんとは?』
「めっちゃ、嬉しい」
『そーなの』
「そーなの!!」
通話口の向こうでボタンがにやにや笑っているのが目に浮かぶ。
『なんでよ』
「そんなの私もシロカに会いたいからに決まってんじゃん!!」
声も知らない。
顔も知らない。
そんな間柄だけど。
会いたいという気持ちが同じだと。
ただそれだけ知れたから。
今回の旅もきっと捨てたものじゃなかったのでしょう。
私はまだまだへこたれない。
何せ失敗は成功への過程の一つでしかないのだから。
諦めなければ、この遊びは終わらない。
それに何より次の遊びのタネはもう撒いてあるのだから。
「そんじゃ、まったねーシロカ」
届かない言葉をそっと背後に放り投げて。
私はぐっと伸びをした。
「そんじゃ、帰るわ!!」
『はいはい、早く帰って来なさい。まだ夏祭りも間に合うわ』
何せ遊び倒して疲れたし。
次の遊びまでに一杯、英気を養わねば。
さっきまでの落ち込みはどこへやら。
私は家までの帰り道をスキップしながら歩き出した。
※
今回の旅の収穫はお互いが『会いたい』ということを知った、ただそれだけ。
具体的な交流は、出会いも、言葉も何もない。
徒労に、無駄足、骨折り損。
それでも二人は笑ってて。
それぞれを運ぶ飛行機の中、浮かぶ笑顔は小さくあどけない幼女のように。
次はどんな遊びができるかと期待に胸を膨らませて、アカネとシロカは帰路につく。
これは二人の天才のおかしな『擦れ違い』の物語。
そして、これは二人の少女のささいな『遊び』の物語。
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