7. かたちなきもの
アズちゃんは無言で、早足で入り口に向かう。繋がれた私はその速度に合わせる。
外の窓口でチケットを買って、自動ドアを抜けて。
青いせかい。
水と、生き物と、光のせかい。
アズちゃんは歩みを止めて、ぐるぐると辺りを見回した。
「すごいね。安土、こんなきれいなせかい初めて来た」
再び歩き始めたアズちゃん。だけれどその速度はとてもゆっくり。一歩進む毎に、新しい何かを探している。
「水族館、来たことなかったの?」
「うん。今日が初めて」
そうだったんだ。
「初めてのきれいなせかいを、チナちゃんと見られて嬉しい」
笑ったアズちゃんの顔が、薄い青色に染まっている。きっと、私の顔も同じ色に染まっている。
いろいろなかたちの水槽の中に、いろいろな生き物がいた。
陸地とは全然違う、不思議な生き物たち。
私は、水族館が少しだけ怖い。異世界だから。吸い込まれるような感覚があるから。不思議だから。
何よりも、きれいだから。
この世の神秘という名の、美しくも畏れ多いものたちに囲まれているという感覚。あまりにも身近な非日常。
上を見上げると、天井に広がる水槽の中で小さな神秘たちが私の頭上を泳ぎ去っていった。
アズちゃんは首が痛くなるんじゃないかと心配になるくらい、一心に上だけを見詰めている。神秘の光を受けるその横顔を、私はずっと見詰めていたい気持ちだった。
アズちゃんはそんな私に気付いているのかいないのか、こちらも見ずにきれいなせかいに入り込んでいる。
ここもやっぱり空調が効いていて、アズちゃんの体温は変わらず私の隣にある。
ドーム型の水槽を抜けて、円筒形の水槽が立ち並ぶ空間。そのひとつひとつには海月たちがふわふわと漂っている。
あ、アズちゃんだ。そう思った。
これはアズちゃんの、来世の理想。
水槽いっぱいに詰め込まれた曖昧なふわふわを、私は写真に納めた。右手はアズちゃんと繋がっているので、左手操作だ。
「私、海月がいいって言ったけど…。水族館の海月になるのは嫌だな」
窮屈そうに見えるふわふわたちを前に、アズちゃんは言った。
きれいだけれど、水族館は悲しいところ。
壁に埋め込まれた小さな水槽。壁全体が青いせかいになっている巨大水槽。外の日差しを受けるペンギンプール。
どのせかいも、アズちゃんにとっては初めてのせかい。
アズちゃんは最初にそう言ったきり、もう「きれい」とは言わなかった。
その代わり、ずっと青いせかいだけを見詰めていた。隣にいる私の存在さえ、見えていないくらいに。
言葉もなくずっと、ずっと。
私にはアズちゃんが考えていることがわからない。
でも、来てよかったと思う。青いせかいに。
やっと帰ってきた頃にはもう20時近くになっていた。
青いせかいに入り込んで、抜けて。
バスを使って駅に戻り、そして構内という名の迷宮迷路を少しだけ攻略した。いろんなお店を見て、少しだけお金を落とした。アズちゃんの笑顔が見られるならば、それは安いものだった。
散々歩いて電車に乗って、段々と寂しくなっていく景色を眺めながら。段々と深くなる空の色を感じながら。
とうとう私たちは帰ってきてしまった。
今朝待ち合わせた自販機の近くで、私たちは立っていた。
「きれいだった。けど、きれいなだけじゃないところだった」
「うん。そうだね」
「楽しかったよ。ありがとう。安土のわがままに付き合ってくれて」
「そんなこと言わないで。わがままじゃないよ。私もアズちゃんと一緒にいられて楽しかった」
ぎゅっと、私はアズちゃんを抱く。ぎゅうぎゅう。
「今から、大切なこと言うからね」
うん、とアズちゃんが頷く。
「アズちゃんにあげる。私の過去も未来も今も、全部アズちゃんにあげる。ずっと」
アズちゃんの声が降る。
やさしい声が。
ありがとう、と。
結局、私にできるのはこれだけだ。
最後まで「かたちあるもの」は思い付けなくて。
私自身をあげることだってままならない。宣言することしか、できない。
この言葉に嘘はない。私の過去も未来も今も、全部、今この瞬間からアズちゃんのものだ。
何がほしいかと訊かれて、真っ先に私を望んだアズちゃん。その言葉を私は信じる。
だからアズちゃん。私の言葉も信じて。
「私はアズちゃんのものだよ」
だから。
目を瞑る。
チナちゃん、とアズちゃんの声。
「チナちゃん。安土と一緒にいてね」
「もちろん」
「ずっと、ずっと。せかいが崩れても、明日がなくなっても、安土がいなくなるまで。隣にいてね」
次の言葉──
「約束」
アズちゃんと小指を絡める。
私は右手。アズちゃんは左手。
私の右手の薬指で、黒い糸が自販機の照明の光を受けて光っている。
かたく、つよく。
絶対に千切れない契りを。
嘘をついたらもう、会えない。
これは一生の誓い。
私の全人生の誓い。
アズちゃんに捧げるための。その儀式。
私は、アズちゃんのもの。
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