6. 水族館

「チナちゃん!おはよう」

 いつもの通り、待ち合わせ時間より少し遅れて到着くしたアズちゃん。

「おはよう。アズちゃん」

 無人改札を抜けて、ホームに移動する。

「電車、どれ乗るの?いつ乗るの?これ?それとも次?」

 矢継ぎ早に質問を重ねるアズちゃん。よほど水族館が楽しみなのだろう。

「電車が来るのは10分後。落ち着いて、アズちゃん」

 うん、とアズちゃんは深呼吸をした。

 いつもはポニーテイルのアズちゃんだけれど、今日はツインテイル。生地の薄い半袖のブラウスに、膝が見える丈のスカート。今日は背が高いなあと思ったら、靴が厚底だった。肩には黒いショルダーバッグを掛けている。

 アズちゃんが左手を私の方に伸ばしてくるので、右手で応える。アズちゃんは温かい。

「…糸、つけてるんだ」

「学校じゃないときはいつもつけてるよ」

 嬉しい、とアズちゃんは笑った。私も嬉しい。

 乗るべき電車がホームに到着した。

 もう10分経ったのか、とそこで気付く。アズちゃんといると、時間の進みがとても早く感じられる。そういうことをふと感じてしまうと、急に寂しくなる。

 ぽつんと、何もかもに置いて行かれる感覚。暗転する思考。

「チナちゃん、乗らないの?」

「あ、乗る」

 私はアズちゃんの左手に導かれて電車に乗った。手を繋いだまま、アズちゃんの左隣に座る。

 アズちゃんがこんなに近くにいるのに、こんなに幸せなのに。

 寂しい。悲しい。痛い。痛い、痛い。

「乗り換えになったら教えてね」

 私は頷く。

 アズちゃんはそれきり自分から話さなかった。

 ごめんねアズちゃん。勝手に寂しくなったり、悲しくなったりして。

 こんなときに絶対理由を訊かないのがアズちゃんだ。単に興味がないだけかもしれないけれど、私はアズちゃんのそういうところに救われる。

 特に今。もし理由を訊かれても答えることはできないだろうから。

 ぼんやりとした感情を言葉に表すのは、とても難しい。

 だからと言って、ずっと沈んではいられない。折角の遠出なのだ。

 アズちゃんの体温を感じる。温かい。車内は冷房が効いていて、涼しいと寒いの中間くらい。アズちゃんの体温を掴んだ右手の温かさが、冷たい空気の中で浮いている。

 目を閉じる。アズちゃんの姿は見えないけれど、その体温が私を安心させる。

 大丈夫。アズちゃんはここにいる。

 アズちゃんは隣にいる。いつも。一緒にいる。

 私を縛り付けてくれている。

 寂しくない。悲しくない。

 痛くない。

「この次、乗り換えだよ」

 アズちゃんは私の瞳をじっと見て、わかったと頷いた。それからアズちゃんは水族館楽しみだね、と話し始める。

 きっと、先程私の瞳を見たときに理解したのだ。私がもう大丈夫なことを。


 乗り換えをする際にふたりで迷子になりかけたけれど、無事に水族館の最寄り駅で降りることができた。あのときはかなり焦った。方向音痴だったこともあるけれど、何しろ駅が広すぎる。地元の無人駅に慣れてしまっている私たちにはまるで迷宮のようだった。

 ここから市内循環バスを使って20分強。

「バス停ってどこにあるの?」

「どこだろう…。取り敢えず駅を出ようか……」

 改札を抜けると駅構内。これもとっても広い。迷宮迷路。

「ここ日本だよね」

「そうだと思うんだけど」

 さすがに国境を跨いではいない。異世界でもないだろうし。

 だけど本当に…。

「私たちの地元って田舎だったんだね」

「うん」

 そんなこととっくの昔に知っているつもりだったけれど。これが都会だと言うのなら、私たちが住んでいるところは何だろう。田舎以下ってあるのだろうか。

 構内にはいろんなお店がぎゅうぎゅう詰まっていた。地元の駅にはお店なんてひとつもないのに。自販機はカウントしてもいいのかなぁ…。

 アズちゃんは初めて見る都会的なお店に目を輝かせている。

「帰りに寄ろうか」

 私の提案に、アズちゃんは激しく頷いた。頭がもげるんじゃないかと心配になるくらいの首振りだった。ツインテイルがふぁさふぁさと揺れる。

 なんとか構内を抜けて、外の景色を見回す。 

 すごい。建物がみんな高い。

 不意に、右手が引っ張られる。

「チナちゃん、あっちにバス停があるよ」

 アズちゃんの指差す方向には、確かにそれらしきものが立っていた。

 日差しが強い。蒸し暑い。だけど手は絶対離さない。アズちゃんと並んでバス停へと歩く。

 アズちゃんが時刻表を確認して、10分だね、と言った。

 ベンチに腰を下ろして、一息つく。備え付けられた大きな屋根が、うるさい光線を遮ってくれる。

 アズちゃんは私の隣で、ぱたぱたと両足を揺らしている。

 アズちゃんが楽しそうだと、私も楽しい。

 アズちゃん、と意味もなく呼んでみたくなる気持ちを抑える。

 バスが来た。

 アズちゃんと合わせて立ち上がる。

 バスの中はそれなりに混んでいる。ひとつしかない空席に、私もアズちゃんも座らなかった。

 立ったまま、手を繋いで、ゆっくりと流れる景色を眺める。空調の効いた車内で、アズちゃんの存在を手に感じた。

 不意にアズちゃんの方を見ると、アズちゃんもこちらを向いた。そしてふわりと微笑んで、また車窓の景色に向き直った。

 どんどん人が降りて少なくなっていって、アズちゃんとふたりだけになりたいな。それでもまだバスは走って行って、水族館はもっとずっと先。そんなせかいを想像する。

 見たことのない景色が、後方へと流れてゆく。建物ばかりで、街路樹以外の緑は全く見えない。遠くに来たんだなぁ。

 停車。何人かが降りた。ふたり分の席は空いただろう。だけれど私たちはやっぱり座らなかった。

 あと何回停まったら、水族館に着くのだろう。ずっとバスの中でも、私はいいな。

 だけれど、きっとアズちゃんは水族館に行きたいのだろうな。水と生き物がたくさんの景色を見に行きたいのだろう。

 アズちゃんがそうしたいなら、私もそうしたい。

 アズちゃんが行きたいと願うところに、私がいかない理由はない。

 アズちゃんのことばかり考えていたら、バスが何回停まったか数えるのを忘れてしまった。

 気付いたらアズちゃんに手を引っ張られていて、車内の電光掲示板には水族館の名称が光っていた。

 運賃を支払って、バスのステップを駆け降りる。一瞬転びそうになった。アズちゃんがこちらを振り返った。大丈夫、と心配そうな顔。大丈夫と答える。

 アズちゃんは正面に向き直った。その先に、水族館の入り口が見えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る