4. 黒い糸
「うん。もちろんだよ」
アズちゃんは笑った。涙はいつの間にか乾いていて、その目元は少しだけ赤みを帯びて腫れていた。
「今日はね、大事な日なんだよ」
そのつぎの言葉を、私は待つ。今朝、聞くことができなかった言葉を。
「チナちゃんと安土が、初めてお話しした日、なんだよ」
私が全然覚えていなくても、アズちゃんはしっかり覚えていた。
この話は長くなる。アズちゃんの隣の席の椅子を拝借することにした。
この間、中学生の頃の日記を読み返してみたの。中学2年生のときの、5月中旬。ちょうど今日と同じ日付だった。
チナちゃんもよく知っていると思うけれど、私はとっても人見知りで、引っ込み思案で。自分から声をかけられなくて、もう5月だっていうのにひとりだった。周りの子たちはもうほとんど仲良しさんで固まっていて。ひとりの子もいたけれど、それは好きでひとりを選んでいる子だった。
私は寂しがりやだから、ひとりはあんまり得意じゃなくて、毎日辛かったし、苦しかった。だけどやっぱり自分から話しかける勇気は持ち合わせていなくて、どうにもできなかった。
でもその日、チナちゃんが突然、言ったんだよ。そのペンケース可愛いね、って。
授業と授業の間の短い休憩時間。安土が自分の席で次の授業の準備をしているときに、たまたま通りかかったチナちゃんが、今まさに気付いたって感じでそう言ったの。
それが、今日、なんだよ。
あのときチナちゃんが話しかけてくれたから、私はチナちゃんと話せるようになったし、今も話せているし。これからもずぅっと一緒にいられるんだよ。チナちゃんがいるから、安土は今、幸せなの。
だからね、今日はとっても大事な日なの。チナちゃんはその日のこと、忘れちゃってるかもしれないけれど。安土は、よく覚えてるよ。さすがに日付は忘れていたけれど。
でもね、チナちゃんとどんな話をして、そのとき周りはどういう状況だったのか思い出せるものがたくさんあるよ。
教室、図書室、廊下、美術室、体育館、玄関、音楽室、グラウンド、帰り道……。中学生の頃に見ていた景色を思い浮かべると、そこには必ずチナちゃんがいるの。安土のとなりに、チナちゃんがいるの。今まで話したたくさんことが、昨日みたいになるの。
「だからね。今日はとってもとっても、すごく大事な日」
アズちゃんはそう締め括った。
そっか。そうだったんだ。今日だったんだ。
あの日、私はロッカーに教科書を取りに行く途中だった。そのときたまたま目に入ってきたペンケースのデザインが、あまりにかわいかったのでつい声に出してしまったのだ。持ち主なんて気にしていなくて、ただ思ったことをそのまま口にしていた。
持ち主を見てみたら話したことのない娘だったから、私はちょっと焦った。でもその焦りを吹き飛ばすほど、アズちゃんは可愛くて。今まで会ったことのあるどんな女の子より、それはそれは、もう。
その後も私はことあるごとにアズちゃんに話しかけて、少しでも近付こうとした。だけどなんだか畏れ多い気がして、ずっとそばにいるのは遠慮していた。なのだけれど、アズちゃんは自分から話しかけてきてくれるようになって。こうなるともう私は、ずっとアズちゃんといるしかなかった。一緒にいたいと思った。
私も、アズちゃんがいるから、今幸せだ。昔も幸せだったし、それにこれからだってきっとずぅっと幸せなんだ。
「ありがとう。アズちゃん」
なんの前置きもなく、唐突に。私はただそうしたいから、アズちゃんの両手をぎゅっと握った。
「うん、チナちゃんもありがとう」
私の意図はもしかしたら伝わっていなかったかもしれないけれど、それでも。
中学生の頃から、ずっとずっとアズちゃんが何よりも大切で、大好きで。『掛け替えのない』という言葉の意味を、私に向けて全身で体現しているのが、アズちゃんだった。
私はきっと、とっても小さなことで勝手に機嫌を悪くしていたに違いない。だけどその小さなことは決して『くだらないこと』ではなかった。と私自身は断言する。
約3年間。アズちゃんと私が一緒に過ごした時間。それは思ったより簡単に、すいすいと泳ぐように過ぎてしまった。そのときそのときの私たちはいつも真剣だったし、その時間にはとんでもない質量があった。だけれど私は、その全てを思い出すことはできなくて。それはきっとアズちゃんも同じ。
小さな、でもひとつひとつ楽しかった会話のいくつかは、もう全然思い出せない。思い出せないことがたくさんあって。それでも私たちは思い出せる限りの素敵な記憶の上にたって、幸せを感じている。
私は今までアズちゃんと喧嘩らしきものをしたことがなかった。それは、単に思い出せないというわけではなく、本当に。
埋もれてしまった記憶の中に、もしかしたら小さな行き違いがあったかもしれない。だけれどそれは些細なことで、私たちの関係を歪めたりする理由にはならなかった。記憶残るような重大な口論やすれ違いは、これまでなかった。断言する。
そんな私たちが今日、したのはなんだろうか。
すれ違い、だろうか。お互いに説明不足だったことで起きた、小さいけれどくだらなくないもの。
「それでね、チナちゃん」
これ、とアズちゃんは床に置いていたリュックから、紙袋を取り出した。
群青、と表現したのでは足りないくらい深い深い青色をした、それは紙袋だった。
その紙袋の中から、アズちゃんは小箱を取り出した。黒い、小さな箱。
アズちゃんはそれを私に差し出した。
「開けて」
そう促されるまま、箱の上蓋を開く。なんだか緊張する場面だなあと思いながら。
その中身を見て、私は息を止めてしまった。
何も言えなくて、ただ目を見開いて。
感動、してしまって。
「嵌めても、いい、ですか」
気が動転して、普段の言葉遣いを忘れてしまった。それくらい嬉しかった。もう、泣きそうなほど。
「もちろん」
笑ったアズちゃんの向こうに夕日が見えて、きれいだという感想が必要以上に湧き上がる。
私とアズちゃん以外、誰もいない教室。直前まですれ違っていた私たち。差し込む夕日。
全て、今の状況をより素敵なものにするために誰かが用意したとしか思えないくらい。
小箱の中の、線の細いリングを、私は手に取った。そして、どの指に嵌めたらよいものかと数瞬迷って─
「小指」
アズちゃんの言葉に従って、右手の小指にはめた。
リングはとてもとても細い。よくあるシルバーのアクセサリとは違うもののようだった。
「黒いね」
「ふふ、黒いでしょ」
理由があるんでしょう?とアズちゃんに訊く。
「チナちゃんは、安土にとってすっごく大切な、大切な存在なの。だから、ずっとずぅっと一緒にいてほしい。シルバーは嫌だったの。安土の想いとは違う色だから。安土の想いに一番似てるのは、黒色。チナちゃんと絶対に離れたくない。これは絶対、絶対、絶対、なの。だから、何よりも強い色にしなくちゃいけない。それが、安土の想いだから。チナちゃんをずっと、安土の隣に縛り付けておくための、黒色。なんだよ」
今までにないくらい真剣な表情のアズちゃん。今までで一番強くて、やさしい口調だった。
だけど、その後すぐに弱いアズちゃんになって、言った。
「嫌いにならないで」
「嫌いになるわけないでしょう?アズちゃんは私の一番大切なひと、なんだよ」
椅子から立ち上がる。すっかり不安な表情になってしまったアズちゃんを、私はぎうと抱き寄せた。
「ありがとう。すごくすごく、嬉しいよ。黒い糸も、アズちゃんの想いも、全部嬉しい」
嫌いになんて、なれない。こんなに自分のことを大切にしてくれるひとを、嫌いになれるわけない。
私はアズちゃんに、もう一度。
「ありがとう」
「大好きだよ」
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