拾肆ノ妙 浄化の水瓶

 棗は、境内の石段に腰掛けて、正面の大鳥居を漠然と眺めていた。

 鳥居の中央には星の紋章――五芒星。


 鳥居の向こうには、闇に沈む森の木々。

 見上げると雲一つないこいあいの夜空と、一面に広がる無数の星々。

 ここ神織神社は、静謐せいひつな空気に包まれていた。


 凛として冷たい空気は、静寂の中であらゆるけがれを浄化し、神聖な空間を築き上げている。

 棗は改めて思う。


 一口に冷たい空気といっても、瘴気しょうきを含んだ背筋の凍るような冷たい空気と、ここの空気とでは全く違う。

 まるで、躰の中に染み込んだ邪悪なモノが吸い出されていくような気分にさせる。


 棗は、猫の怪異との一件の後、深手を負った巫音を見守りながら神織神社まで戻ってきたのだった。

 というのも、棗は最初、当然のように巫音を病院に連れ行くべきだと考え、救急車を呼ぼうとしたのだが、巫音に強硬きょうこうに断られる。


 それではと、肩か背中を貸そうとしたのだが、こちらも「大丈夫」となかば拒否されたような形となり、すべもなく神織神社まで無事に辿り着けるかどうか見守ることしか出来なかったのだ。


 ――いったい、オレは何のためにここにいるんだ?


 棗は、巫音の背をぼんやりと見ながら思う。


 そもそも、巫音が棗のことを足手まといと思っているかまでは分からないとしても、できたらかかわって欲しくはないと思っていることは確かのようだ。

 棗にしても、白銀しろがね帯留おびどめとヤモリの痣の呪いともいえる術によって、やむを得ず巫音と行動を共にしているに過ぎない。


 棗と巫音の関係は、機械的というか、事務的というか、業務遂行のために仕方なくといったものなのかもしれない。


 棗の気持ちなど知る由もない巫音は、フラフラした足取りで、壁伝かべづたいに歩いたり、時折、足を止めたりしながらも、何とか神織神社の長い石段を上がり、大鳥居をくぐることが出来た。


 神社につくと、巫音は神楽殿を回り込み、静寂の中にあって唯一の音――流れ落ちる水音の響く方へ、おぼつかない足を何とか運んで行った。

 棗も、何時いつ倒れるとも知れない巫音からさすがに目が離せず、付かず離れずの距離を保ちながら後に続く。


 水音の源は、小さな滝。


 鬱蒼うっそうと茂る木々の間の岩肌から流れ落ちる滝。

 滝壺の周辺が浅い池となって清らかな水をたたえ、あふれた水はさらに小さな清流となって木々の間を下っていく。


 巫音は池のへりにヨロヨロと近づくと、靴と靴下を無造作に脱ぎ棄て、池の中に数歩足を踏み入れていく。

 そして、突然、崩れ落ちるように池の中に倒れ込んだ。


 水飛沫みずしぶきが舞い、巫音を中心とした波紋が水面みなもを伝う。

 ゆっくりと水面を進む波紋は池のふちで反射して、幾何学的紋様を池全体に描き出した。


 巫音は倒れ込んだまま、池に沈んでいってしまったかのように全く姿が見えない。

 水面の紋様が徐々に消えて、鏡のように星空を映し出していく。

 池から流れ出る小さな清流に血の赤がじる。


 棗が、巫音の危機を感じ取って走り寄ろうとした丁度その時、巫音が池の中から立ち上がった。


 巫音は、清らかな水に全身を浸し、濡れた黒髪からは光の玉のようなしずくしたたり落ちる。

 濡れた制服が肌に絡みつき、月明かりの中にシルエットを浮かび上がらせる。

 巫音は月の光を浴びて、全身に散りばめた水玉をキラキラと輝かせていた。

 焦点の合わない瞳で星空を見つめ、ただ呆然とたたずんでいる。


 巫音は、スカートをはらりと落とし、やぶれた制服を脱ぎ捨てた。

 巫音の白い肌が、月明かりに照らし出され青白い光をまとい、まるで光のオーラが全身から放たれているかのように映し出される。


 ドクッ。


 棗の心臓が脈打つ。


 清浄な光と清らかなる水により巫音の躰が浄化されていく。

 棗は、そんな風に感じて少し安堵あんどすると、そっと、その場を離れたのだった。


 ――ここから見える星空と鳥居のがくにある五芒星の紋章とは、何かしらのいわれがあるのかもしれない?


 棗が満天の星空を見上げながら、そんなことを考えていると、巫女装束を身にまとった巫音があらわれた。


 巫音は、境内の棗に気付くと意外そうに一瞬眼を見開くと、気まずそうに足元の小石に眼を落す。


 しばしの沈黙。


 巫音からすれば、あれだけのことがあれば、とっくに逃げ帰っているはず、いや、怪異にかかわったことのない者ならば逃げ出して当然とも思っていた。


「あっ……? もう帰ってもいいよ。懲りたでしょ?」


 巫音が重い口を開き、つぶやくようにゆっくりと言葉を押し出す。


 棗は棗で、ヤモリのあざうごめくときの、全身を貫く虫唾むしずの走るようなうずきを想像すると、帰りたいのは山々なのだが帰れるはずもない。

 棗は巫音の質問を流し、怪我けがの具合を気に掛ける。


「ケガ、大丈夫?」


「キズは大丈夫。だけど……」


 巫音は、かなり深い傷を負っているはずなのだが、それよりも傷口からの呪詛じゅその方が気になっている様子。

 右手の傷の部分に軽く左手を添えた弾みに、そでぐちからわずかにのぞいた右手には、呪文のようなものが隙間なく書かれた包帯状の護符が、手首から肩にかけて巻かれているようだった。


「ここからは、一人で大丈夫。今までもそうだったから」


 巫音は、棗の帰るに帰れない事情を知るよしもなく、棗が何故なぜこうまで自分にかかわるのか不思議でならないと同時に、無理をしているように見える棗が少なからず気がかりなのだろう。


「さ、さっきは、オ、オレがいなければ危なかったけどね」


 棗としては、先ほどのような怪異との接触は、もう二度と勘弁してほしいと思っているのだが、引き下がることなどできるはずもなく、自棄やけになって言い放つ。


 巫音は、足元に顔を下げたまま上目遣いに棗に眼を向け、一瞬、ふくれた顔をすると、あきらめたように言う。


「もう、どうなっても知らないからねっ」


 ――いや、オレだって何とかしてほしい……。


 複雑な心境の棗なのであった。





 神織神社を守護する鬱蒼うっそうとした森の木々は、より一層深い闇に包まれていく。


 それとは対照的に、神社の社殿は、月の光を受けて、その明暗を鮮明に浮かび上がらせていた。


 刻々とけ行く夜の只中、棗と巫音は、とある部屋の中にいた。


 神社での社務所とでもいうことになるのだろうか。

 宝物庫も兼ねているのかもしれない。

 その建物の、とある一室。


 和風木造建築の畳の部屋には、種々しゅじゅの呪的文様のほどこされた呪符と、数々の古い文書を納めた書棚が立ち並ぶ。

 巨大な天球儀と様々な呪具。


 棗が首に白銀しろがね帯留おびどめの存在に気付き、葛乃葉との約束が現実のものだったことに気付かされるきっかけとなったかべかがみ


 棗が、今の悪夢のような状況に巻き込まれる原点となったともいえる場所だ。


 巫音は、棗を追い出すでもなく、かと言って気持ちよく招き入れるというでもない微妙な反応。


 棗はといえば、会話の切っ掛けも見付からず、神織神社の静寂さと相まって、沈黙ちんもくが一層際立ち、若干の気まずさを感じていた。


 巫音は、先ほどまで、夜空の星々を見上げて難しそうな顔をしていたが、星の動きから眼を離すと、書棚にある膨大な数の古文書の中から十数冊を選び出し、小さな机の前に腰掛けると調べ物を始めた。


 どうやら、猫の怪異について書かれたものを探しているようだ。


 棗は、書棚に寄り掛かりながらも仕方なく、手近にあった古文書を開いてみる。

 文書は、戦前の異体字で書かれており、さらに、くずし字のため、読みくには、かなりの慣れと時間が必要に思えた。


 棗は、一つ溜息をつくと、気持ちを入れ替える。


 ――やるしかないかー。


 書棚に寄り掛かりつつも、胡坐あぐらをかいて座り込み、駄目もとで、難解な部分を携帯で検索してみる。


 ――結界の中でも、携帯の電波、届くじゃん……。


 猫の怪異に無関係と思われるものを出来るだけ省く。

 かなり時間は費やしているものの、一歩一歩確実に読み進めてく。


 ――織紙巫音は、これ、読めるのかな?


 ふと疑問に思い、巫音の方に眼を向けると、必死な形相で古文書をパラパラとめくっている。

 巫音は、気になったページを見付けると、しばらくそのページを見つめ続け、またパラパラとページをめくるという動作を繰り返していた。

 よくよく見ると、絵の描き込まれているページを探しているように見える。


 棗は、古文書を凝視する巫音に問いかけてみる。


「織紙さんは、古文書を読めるの?」


 すると巫音は、あからさまに慌てた仕草で、あたふたして古文書を畳に落としてしまった。

 眼を泳がせながらも、うん、うん、うん、と小刻みに首を縦に振る巫音。

 巫音は、顔を真っ赤にしながらも、平静をよそおおうとしているようだ。


 棗は思う。


 ――これ、きっと読めてないぞ。


 棗には聞き取ることが出来なかったかもしれないが、巫音は膨れながらも小さく呟いた。


「え、絵を見れば分かるし……」


 しばらくの間、棗は、携帯を手にしながら、古文書の解読に奮闘していたのだったが、一向にそれらしき猫の怪異に関する記述を見つけることはできなかった。


 棗が古文書から顔を上げ、ふと巫音の方へ眼をやると、巫音は古文書に覆いかぶさるようにして、寝息を立てている。


 ――ったくー。


 まったく棗のことを気にしていないのか、あるいは眼中にないのか、無防備すぎる巫音に呆れ果てる棗。


 柔らかく閉じたまぶたが長いまつ毛を際立きわだたせ、あどけない寝顔は、丸くなった子猫を思わせる。

 心ならずも、見つめてしまう棗。


 ――可愛いか、可愛くないかといったら、なぜか悔しいが、すっごく可愛い。

 これもある意味、猫の怪異かっ!


 棗は、起こさないように気を付けながら、古文書をそっと巫音の下から引き出すと、部屋の明かりを落とした。


 部屋の明かりを落としてもなお、月明かりが斜めに差し込み、室内にある品々を明るく照らし出していた。

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