【浅尾真綾(5)】

 孝之と藤木の足取りを何もつかめないまま、とりあえず村の出入口をめざしていたのだが、暑い陽射しと村人たちの魔の手から一時でも逃れるため、真綾は大通りの外れにある廃屋同然の農具置き場に隠れて小休止をすることにした。


(お腹空いたな……孝之は何かちゃんと食べれてるのかな?)


 トラクターの物影で三角ずわりをしていた真綾のお腹が、情けない鳴き声を上げる。

 昨夜から宿泊客たち全員、食事らしい食事をしていないはずだ。工場で差し出されたお粥も、毒が盛られているかもしれないと考えて口にしなかった。

 真綾は深い溜め息をつきながら、トートバッグに入れていた缶詰を手に取る。飲み水は先ほどの争いで失ってしまったので、もう無い。


「……いただきまーす」


 腹が減っては戦ができぬ。

 真綾はみんなに申し訳ないと思いつつ、缶詰のプルタブを開けた。


「えっ? これって……カレー!?」


 開封直後に立ち込める香辛料スパイスのにおい。缶の側面には〝~ケツバット村カレー総研公認~ ケツバッとんのカレー煮(辛口)〟と書いてあった。

 急いでいたので、持ってきた商品をすべて把握してはいなかった。真綾は小さなうなり声を上げると、しかたなく中身を指で摘み取る。豚肉は大きな角切りで、3個ほど入っていた。


「……あっ、美味しいかも!」


 そういえば、夕食時に出てきた味噌焼きも絶品だった。数少ないこの村でのいい思い出のひとつがケツバッ豚の味であると、真綾は思った。


 ──ガッシャーン!


 突然の物音。

 それは外から聞こえた。


(誰かに見つかった!?)


 食べかけの缶詰をコンクリートの床に置き、トートバッグからバットを抜き取る。ゆっくりと立ち上がった真綾は、その身を屈めたまま神経を集中させて外の様子をうかがう。


 ──ガッシャーン!


 また同じような音が聞こえてくる。

 どうやら、農具置き場の裏手にある雑木林に誰かが──いや、何かが起きているようだ。

 すぐにこの場を立ち去ろうと考えた真綾ではあったが、ひょっとすると孝之たちと関係があるかもしれないと考えを改め、危険を覚悟の上で雑木林へと向かうことにした。

 すっかりと耳に染みついた蝉時雨の中、真綾は獲物を狙う獣のように草木にまぎれて身を隠しながら、バットを片手にゆっくりと忍び寄る。


 ──ガッシャーン!


 その瞳に映るのは、小さな背中の人影。

 4、5歳くらいのおかっぱ頭が愛らしい女の子が、足元に置いてある竹籠の中から陶器の皿を両手で掴み取り、頭上まで持ち上げてはそれを地面に掘られた穴の中へと叩きつけて割っている。


 ──ガッシャーン!


 どうやら、先ほどから聞こえていた音の正体は、この女の子の仕業のようだ。


(あの子、いったい何をしてるんだろう?)


 都会育ちで年齢の若い真綾にはわからなかったが、欠けてしまったり要らなくなった不要品の陶磁器は、こうして叩き割ったりして地面に埋めて処分をするのである。

 もっとも、埋めたところで数百年経っても土に還ることはない。古き時代の、悪しき風習だ。


(ほかに村人は…………誰も居ないみたい)


 握っていたバットをトートバッグに納めると、真綾は笑顔で声をかけながら女の子に近づいてゆく。


「おーい」


 だが、振り返った女の子の両目は赤黒かった。

 油断していた真綾は、踏み出した格好のまま固まる。

 ここはケツバット村で、村人たちは全員危険な存在だ。それは子供でも例外ではなかった。


「やだ……ウソでしょ……まだ子供なのに、そんな……」


 サイレンが鳴ってからずっと、絶望感を味わわされてきた。それはまだ、どこまでも果てしなく続くようだ。

 女の子は、じっと真綾の顔を見つめたまま動かない。

 襲いかかってはこないと信じたいが、仲間を呼ぶ可能性は多いにある。

 真綾はこの状況をどう打開すべきか必死に模索するも、すぐに答えが出てこなかった。


「……おねえちゃん、どうしたの? 具合でも悪いの?」

「えっ」


 狭い歩幅を刻みながら、女の子が近づいてくる。

 真綾は思わず怯んでしまい、後ずさる。

 だが、不思議と危険は感じられなかった。そのことが余計に混乱を招き、それ以上逃げずに、ただ立ち尽くすだけの結果となった。

 近づいてきた女の子は、真綾の両股に抱きついて顔を埋める。どうしたらいいのか当惑する真綾ではあったが、自然と笑顔がこぼれ、女の子を抱き上げた。


「ねえ、あなたのお名前は、なんていうのかな?」


 笑顔で訊ねる真綾をしばらく無言で見つめていた女の子は、瞬きもせずに間を空けてから、消えてしまいそうなほどの小さな声で「飛鳥」と名乗った。


「飛鳥ちゃんていうんだ、可愛いお名前だね。おねえちゃんはね、真綾っていうんだよ」


 飛鳥は何も喋らず、唇を尖らせて真綾を見つめ続ける。そんな飛鳥の頬っぺたを、笑顔の真綾が人差し指で優しく何度も突っつく。


「おねえちゃーん、お腹空いたぁ」

「んー? あっ、ちょっと待っててね」


 思わぬ催促ではあったが、トートバッグにはまだ食料が──お菓子がいくつか残っていた。

 飛鳥を足元に下ろすと、真綾はそのまましゃがみ込み、肩に掛けてあるトートバッグを漁る。そして中から、個包装のケツバット饅頭をふたつ取り出した。


「はい、飛鳥ちゃん。おねえちゃんと一緒に食べよう」


 母性を感じさせる満面の笑みに、飛鳥も笑顔で応える。

 だが、差し出された饅頭を受け取ろうとしない飛鳥を見て、真綾はある事に気づいた。


「邪魔なフィルム取ってあげるから、ちょっと待っててね……はい、どうぞ」


 饅頭を包んでいたビニールシートを食べやすいように破ってあげてからもう一度差し出すと、それを両手で受け取った飛鳥は、愛くるしい笑顔で頬張った。


「美味しい?」


 訊きながら自分もビニールシートを破り、饅頭を口にする。飛鳥も饅頭をかじったまま、大きくうなずく。

 目玉は赤黒くても、普通の子供と何も変わらないじゃないか。残りの饅頭も順調に頬張っていくあどけない仕草に、真綾は目を細めた。


「うふふ、かわいい」


 もしも赤ちゃんを産むなら、女の子がいいかな──そんな思いを巡らせていると、食べ終えた飛鳥が周囲を気にしはじめる。真綾も我にかえり、つられて辺りを警戒した。


「飛鳥ちゃん……どうしたの? ひょっとして、おトイレ?」

「あっちー」

「あっち?」


 飛鳥が指差した遠くには藪があった。

 単なる茂みに見えたが、よく目を凝らせば、何かが中に潜んでいる。考えるまでもなく、それは村人であろう。

 真綾は藪を注視しつつ、トートバッグから伸びているバットのグリップを掴む。と、同時に、藪の中からあねさん被りをした農作業着姿の老婆が、バット片手に前のめりで飛び出してきた!


「飛鳥ちゃん、逃げよう!」


 ごく自然に、なんの迷いも無く、真綾はグリップを手放して飛鳥を抱き上げる。そしてそのまま、老婆と交戦せずに逃走した。

 雑木林を抜けて農具置き場へ駆け込んだ真綾は、開け放たれている出入口に飛鳥を下ろす。

 まだ幼いとはいえ、子供を抱きかかえて長距離を走る自信はない。すぐに追いつかれてしまうだろう。真綾は飛鳥を少しでも安全な場所に隠したかった。


「ねえ飛鳥ちゃん、この中でかくれんぼしようか?」


 乱れてしまった飛鳥の髪型を手櫛で優しく整えながら、怖がらないように、これからの出来事を遊びとして提案する。


「ここでぇ? いいよぉ」


 振り向いて置き場の中を見た飛鳥は、無表情ではあるが承諾してくれた。


「おねえちゃんが見つけるまで……これ全部食べていいから、隠れててね!」


 バットを抜き取ったトートバッグを飛鳥に預け、「絶対にここを出ちゃダメだからね」と念を押して走り出す。背中を向けた真綾を見送るとすぐに、よちよち歩きで飛鳥もトラクターの影に身を隠した。


「ヒャッハッハッハ! こんの小娘がぁー、逃げれると思うなよぉ!」


 ちょうど雑木林から出て来た老婆と鉢合わせた真綾は、バットを素早く身構えてこれを迎え討つ。走りながら振り回された老婆のバットを跳ね返した直後、今度は地面の土を蹴った目潰し攻撃を仕掛けられる。


「きゃっ!? ぺっ、ぺっ!」

「ヒャーハッハッハッハァァァァ!!」


 わずかに生まれた隙を突き、老婆は真綾の背後を取る。

 尻に迫る危険を察知して振り向いたまさにその時、赤黒い目玉をした老婆の真顔と目が合った。

 老婆はフルスイングの構えをみせていたのだが、そのままバットを伏せて笑顔をみせる。しまいにはなぜか、「すんませんですぅ」と謝罪の言葉まで添えて、雑木林へと何事も無かったかのようにおとなしく静かに消えていった。

 何がどうなっているのか──真綾は理解に苦しむも、とりあえずは過ぎ去った危機に安堵する。

 そして、ゆったりとした歩調で農具置き場に戻っていく。


「飛鳥ちゃーん、どこにいるのかなー?」


 この中で隠れられる場所といえば、たかが知れている。

 にっこりと頬笑みながら、少しずつ奥へ進む。


「ここかなー?」


 泥にまみれたトラクターの影を覗く。

 ここにはいない。


「んー……もしかして、ここかなぁ?」


 錆びついたパイプハンガーに掛けられている農具の向う側を覗き込む。

 ここにもいなかった。


「えっ……やだ、飛鳥ちゃん?」


 狭い農具置き場で隠れられそうな場所は、もうほかには無い。念のため隅々まで探してみたが、飛鳥の姿はどこにも無かった。

 ただ、不思議なことに、先ほどは無かったはずのトートバッグが、出入口の外にひっそりと立て掛けて置いてあった。


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