【浅尾真綾(1)】

 真綾は怖かった。

 恐怖していた。

 ケツバット村も、自分が置かれているこの状況も、目に映るものすべてが、不気味にゆがんで見えて恐ろしかった。


(助けて……助けて、助けて、孝之!)


 滲む涙を拭ぐうことなく、真綾は廃墟の中のような薄暗い廊下を1人ひたすら走り続ける。途中で道が別れると、迷いながらも、勘だけを頼りに先へと進んだ。


 天が味方をしてくれたのか、村人に見つからずに工場1階の正面出入口へと辿たどり着き、無事に外へ出ることができた。

 夏の強い陽射しが薄明かりに慣れた真綾の視界を奪い、ほんの一瞬だけ景色がいびつにゆがんで目がくらむ。確かに疲れてもいたが、それを感じている余裕さえも無いくらいに追い込まれていた。



 無事に生きて逃げ延びなければ──


 ここから──ケツバット村を──ケツバット村から──


 でも、そのまえに──



 駆け足を止めて、来た道を振り返る。

 誰も追っては来ない。

 聞こえるのは、激しい心音と耳ざわりな蝉時雨だけだ。

 少しだけ安心した真綾は、切ない眼差しで息を整えながら、さらに歩いて先を進む。

 足元の地面では、大きな黒蟻が何匹も忙しなく獲物を求めて蠢いていた。都会育ちの真綾にしてみれば、そのサイズは充分に化物バケモノのように感じられてしまい、さらに不安な気持ちへと変わり、それから背けるようにして顔を上げる。

 と、建物の影を抜けたすぐ近くで、歩廊から落ちた紺色の作業着姿の男たちが頭から血を流し、首や手足があらぬ方向へ曲がって倒れているのを見つけた。

 彼らは絶命していることだろう。

 だが、それでも村人への恐怖心は消えなかった。


(どうして……どうして、こんなことに……今ごろ孝之は、どこで何をしているのかな……)


 真綾の心は、不安と恐怖で押し潰されそうになる寸前だった。

 次第に歩く速度が弱まっていき、ついには止まる。


(孝之は……孝之はきっと無事だよね?)


 滲む涙が陽射しを受けてきらめき、頬を伝って渇いた地上へとすべり落ちる。山間からは微風そよかぜが吹き、真綾の乱れた髪をそっとやさしく慰めるようにして撫でた。

 すると、カラカラと乾いた音をたてながら木製のバットが転がり近づいてきて、立ち尽くす真綾の靴の踵に当たって止まる。


「あっ……!」


 真綾は唇を開けたまま、そのバットをしばらく見つめてから拾い上げる。

 なんとも言えない感覚が、感情が、大きな渦を巻いて自分を主軸にうねっていた。


「わたしも……わたしも戦わなきゃ……」


 バットに向けてつぶやくと、真綾は太陽のぬくもりを背中いっぱいに浴びながら、ふたたび孤独に走り出した。


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