挿話 ある地下室にて・別室

【金子敦士】

 旅館で真綾たちと共に連れ去られた敦士は、全面がコンクリート剥き出しの部屋の中央でうしろ手に縛られた状態で吊るされていた。


「誰か……誰か助けてぇぇぇ!」


 なんの応答も無く、コンクリートの室内に叫ぶ声が無情にも吸い込まれていく。こぼれ落ちた涙も、床に染み込んでいった。


「ねえ、誰かぁ! ねえったらぁぁぁ!」


 わめき散らして身体を揺さぶれば、縄がさらに手首に食い込んだ。

 敦士が痛みに耐えかねておとなしくなると、部屋の扉が突然開き、次から次に赤黒い目玉をした村の子供たちがバットを片手に入ってくる。

 子供たちは無言のまま敦士を取り囲んだかと思えば、手にしていた木製のバットをそれぞれ構え、敦士の尻を時計回りの順番に殴打し始めた。


「痛い痛い! やめてよ、やめてよぉぉぉ!」


 敦士は泣いて懇願するも、子供たちは笑い声を上げるだけで誰1人としてその手を休めない。


「痛いってばぁ! もうやめてよぉ! ううっ、うああああ……ん、ぐッ……!」


 とうとう敦士は、痛みと恐怖のあまり失禁してしまった。漏れ出た尿が、宙ぶらりんの足をなだらかに伝って床へと溜まっていく。


「なんだぁ、こいつ? しょんべん漏らしてるぞ!」

「汚ねぇーなぁ、東京とうきょうもんは! 東京とうきょうもんは汚ねえや!」


 子供たちはゲラゲラと大声で笑いだし、尻叩きを再開する。



 ──因果応報。



 つまり、善い行ないをすれば善いことが自分に返ってきて、悪い行ないをすれば悪いことが自分に返ってくる。そんな意味の言葉を、次々と襲いかかる尻への激痛と共に、敦士は思い出していた。


「汚ねぇ、汚ねぇ、汚ねぇやい! 東京とうきょうもんは、汚ねぇやーい!」


 赤黒い目玉をした子供たちは、そう囃し立てて陽気に踊りながら、順繰りに敦士の尻を叩き続ける。

 終わりなき激痛が意識を蝕み、正気であることですら困難にさせる。

 そういえば、前にもこんなことがあったような気がした。薄れゆく意識の中で、敦士はまた思い出す。

 いつだったか、同級生のおとなしい女の子がトイレへ行こうとしていたのを敦士と男子生徒たちが取り囲んで通せんぼし、尿意を我慢できなくなった女の子を泣かせてしまうといった事件があった。敦士はそれを、ふたたび因果応報の言葉と共に思い出していた。

 囚われの身となった恐怖と尿失禁による羞恥心、そして尻の強烈な痛みが脳内で激しく渦を巻き、底無しの絶望へと変わる。

 やがて、風が凪ぐ闇夜の水面みなものような敦士の心に、何かが芽生えた。



 ごめんなさい。



 敦士は謝っていた。

 おとなしい女の子に、棒で叩いた犬に、そして、今までいじめてきた全ての尊い命に、心から謝っていた。


「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」


 敦士が言葉に出して謝ると、今まで尻をバットで殴打していた笑顔の子供たちの笑い声と手が止まった。


 敦士は謝り続ける。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 敦士は謝り続ける。


「ごめんなさい……ごめんなさい……みんな、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」


 敦士の目からは、痛みや恐怖からとは違う、後悔の涙が流れ落ちていた。


「──再生だ」


 すると、赤黒い目玉の子供の一人がつぶやく。


「再生だ」「再生だ」


 ほかの子供たちも後に続く。


「すげぇ……再生だ。魂の再生だ!」

「オレ、初めて見たぞ!」

「うん! わたしも初めて見たわ!」


 子供たちが何をざわついているのか、敦士が理解できないでいると、部屋の扉が急に勢いよく開いた。


「エクセレントッ! エクセレントですよ、金子敦士くんッ!」


 拍手をしながら笑顔で入ってきたのは、細身の背広を着た黒縁眼鏡の男だった。

 そのまま吊るされた敦士の前で立ち止まると、その男は周囲の子供たちに何やら目配せをする。それを察知した子供たちが、敦士のすぐ前でお行儀よく横一列に整列する。それらの光景はまるで、教室で騒ぐ生徒を鎮める教師のようだ。

 全員がきちんと並び終えたのを確認した男は、掛けている黒縁眼鏡の位置を中指で直す。


「敦士くーん、敦士くーん、敦士くん! 起きてるかーい、金子敦士くんッ!」


 男は敦士の左頬をつねりながら、なおも笑顔で語りかける。彼の口からは、きついミントのにおいがした。そして、間近で見る男の目玉は赤黒くはなかった。


「は、はひ……おひてはふ」

「よーし。いいかい、敦士くん。キミはね、生まれ変わったんだよ。わかるかい? 生まれ変わったんだよぉ?」

「生まれ……変わった……の?」


 泣き腫らした顔で、敦士は男に訊き返す。


「そうだよぉ。きょうからキミは、新しい金子敦士だ! いいかい? 親と財産は捨てなさい。きょうからキミは、ケツバット村の新しい住人なんだからね。ようこそケツバット村へ、新しい金子敦士くん!」


 そう言い終えた男は、赤黒い目玉をした子供たちと一緒に盛大な拍手を始める。

 いったい何がどうなっているのか──敦士にはまったくもって理解ができなかったが、先ほどまでの拷問とは違い、村の子供たちに笑顔で囲まれるこの状況が少年の今にも壊れそうな心を落ち着かせた。


「ははは……新しいオレ……あははははは」


 涙で腫れた顔で、敦士が笑う。

 それに続いて村の子供たちも元気よく笑い、コンクリートの無機質で冷たい空間には、いつまでも子供たちの笑い声と拍手が鳴り響いていた。



     *



「よし、なかなかうまいでねぇか」


 米蔵老人は満足した様子でうなずきながら、敦士の頭をゴツゴツとした手で強く撫でまわす。


「へへへっ!」


 敦士は照れ臭そうに笑い、人差し指で鼻の下をこすると、真新しい木製のバットを両手に握り直す。息を大きく吸い込んでから目の前の標的に狙いをさだめ、不格好ながらもフルスイングでふたたび当てて見せた。


「やったー! ホームランだっ!」

「ガッハッハッハ! 上出来だァ!」


 その場で飛び跳ねて喜ぶ敦士を、米蔵老人が赤黒い目を細めて褒め称える。

 そんなふたりの様子に、腕を組んで壁にもたれ掛かっていた男が軽く舌打ちをする。作業帽を目深に被っているためにその表情は見てとれないが、嫌悪感を全身からかもし出していた。

 やがて男は、その身と同じように立て掛けていた金属バットを手にして部屋を後にする。

 米蔵老人は男の背中を一瞥してから、視線をまた敦士に戻す。バットが当たるたびに鈍い音と鎖の軋む音が部屋中に鳴り響く。

 敦士が何発か当てると鎖がほどけ、吊るされていた標的が──その肉塊は、床の血溜りへと叩きつけられた。


「まあ、最初はこんなモンでええじゃろ」


 米蔵老人は少年の肩を強く抱き寄せ「次は女の尻だな」と、いやらしく笑いながら話しかける。敦士もそれに応えて満面の笑顔をみせた。

 そしてふたりは、楽しそうに何やら会話をしながら部屋の外へと出ていった。



 部屋の中が静まり返る。



 静寂の世界に敦士の名前を呼ぶ声がかすかに響き、やがて吸い込まれるようにして消えた。



     *



 地上へ出る階段を上りながら、あの男のことを思い返す。

 どれだけ痛めつけられても決して屈することなく、死をも恐れない素振りで耐え、バットを握る自分をにらみ、闘い続けていた男のことを。

 だが、そんな彼でも、最後にひとつだけ懇願した。


『息子を……息子だけは助けてくれ……!』


 しかし、自分の祖父が連れてきたのは、その男の息子だった。悪趣味なやり口は、どうせまた眼鏡野郎アイツが考えたことであろう。金属バットを持つ手に自然と力が入る。


いさみさん」


 不意に呼び止められ、作業帽を目深に被る顔がわずかに振り返る。細身の背広姿の男が、かたちだけの笑顔で階段の下に立っていた。


「ことは順調に進んでいます。そろそろ、実行に移されるそうですよ」


 黒縁眼鏡を中指で直すその表情は笑顔ではあったのだが、勇にはとてもいびつで醜いものに見えた。


「それにしても……いやはや、実に暑い。蒸し暑いと言ったほうが正確なのでしょうかねぇ……僕にはこの国の風土が合わないようです。アッハッハッハッハ!」


 いくら話しかけても無言を貫きとおす勇の様子に男はとうとうあきらめたのか、軽く会釈をすると、背中を向けて勇の視界から消えていった。


「──だったら、とっとと帰れよ、クソ野郎が」


 正面に向き直った勇は、そうつぶやいてから金属バットを肩に担いで階段をふたたび上りはじめる。

 一歩一歩踏みしめながら、今は何を思うのか……彼の両目もまた、赤黒い狂気の色に染まっていた。


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