第4話 船 ~赤道祭の夜~

 その船は、ある意味では奇怪な形をしていた。

 巨大である。

 左右非対称な甲板を、かさぶたのように船体に載せている。

 ひろいひろい甲板には、奇妙な紋様が描かれている。数字や白線で、意味のわからぬ呪文が描かれている。

それは、横縞に星をあしらった国旗をもっていた国が、かつて、おのが正義をふるうために用いた巨船と同じかたちをしていた――


 薫は、その白い衣をはじめてまとった。まだ完全ではないが、それはたしかに薫の身体のために仕立てられたものだった。

 赤道のまつり、半年にいちどの特別な夜。そのおりに、乙女が身につける純白の衣、といえば、女であればだれしもが憧れ、そしてひとたび袖をとおしたのちは、その夜のことを一生涯心に刻みつけて老いていくのだ。

「へえ、軽いんだね、意外と」

 仮縫いの衣装を身にまとった薫は、さぁっと一回転をしてみせた。まだ染められぬままのしなやかな生地が、きれいに円弧をかたちづくる。薫のために服の寸法あわせをしていた女が顔をしかめる。薫はその服の下になにも着けていない。

「はしたないよ、薫。まさか赤道祭にもそんな踊りをするんじゃあるまいね」

「まさか、まさかよ、ミヤコさん。そんなことするわきゃないじゃない」

 と言いつつ、薫はさらに回転をはやめる。もう、おへそのところまでめくれあがっている。

「まったく、こんなざまで、婿をとることなんてできるのかねえ」

 ミヤコは嘆息した。もはや四十代のなかばにさしかかっている彼女には、すでに媼(おうな)としての年輪がうかがえるようになっていた。<船>では五十歳はもはや長寿の域にはいる。

「だいじょうぶ。いちおう、マーケティングはしてあるのよ」

 薫は回転をとめて、優雅に一礼をした。そういう所作だけは見事に決まる。薫は舞踊においては若手で一番の手練なのだ。

「ムカオも、マサキタも、あの奥手のユキタカさえ、あたしが選んだらうなずき返すって言ってるよ。ほかにもいるかもしんない」

「まだ子供じゃないか」

 ミヤコは顔をしかめる。

「男は十五じゃ大人になれないんだよ。女とはちがう。選ぶんなら、はたちくらいの活きのいいのを選びな。三十あたりなら女の扱いに慣れているから、楽だよ。そりゃあ、四十過ぎのじいさんを選べとは言わないけどね……」

「年上はいや」

 薫はちょっと唇をとがらせた。不機嫌そうな表情になる。

「どうして」

「やらしいんだもん」

 むすっとした顔つきで薫が言うと、ミヤコは吹きだした。

「なによ、なにがおかしいの?」

「まったく、あんたは赤道祭の意味がわかっているのかねえ……? だいたい、同じ船人はできるだけ選ばないのがしきたりだよ。同じ船のなかでいい相手がみつかるとしたら、なんのために赤道祭があるんだい? まあ、あんたは次の祭まで延ばしたほうがいいと思うね」

「それもいや」

 きっぱりと薫は首を横に振った。

「だって、せっかく仮縫いまでしてもらったのに、もったいないじゃない?」

と言うと、スカートの裾をつまんで、もう一度お辞儀をして見せた。

 そうするが早いか、

「ともだちに見せてくるね!」

 一声さけんで、部屋を飛びだした。

「ちょっ、あんたっ! そんな格好で……!」

 ミヤコは絶句したが、もとより薫の脚に追いつけるはずがない。

 呆然と見送るしかなかった。



「だだだだだだっ」

 意味不明な言葉を口にしつつ、薫は甲板に続く階段を駆けのぼった。

 甲板にとびだす。

「ごおおおーっ」

 叫んでいる。両手を左右にまったぐ伸ばし、走りながら。

「風、風、びゅううーんっ」

 細い脚をひらめかせ、長くのばした髪を風に翻弄させて、あたりをぐるぐると走りまわる。

 しばらくそうしているうちに、さすがに疲れてきたのか、脚をとめた。

 汗ではりついた前髪をうるさそうにかきわける。白い額。濃い眉。鳶色の瞳はいかにもきかん気そうだ。

「ちょっと休憩」

 などと言いつつ、薫は甲板の端にむかって歩いていく。端っこで足をとめ、ちょこんと腰かける。手すりもなく、甲板から海面まではかなりの高さがある。慣れていないとできることではない。

 海の色は濃い。いかにも滋養に満ちていそうな潮の流れだ。その海原の川のなかを、巨船はこともなげに進んでいる。船足は風にも潮にも左右されない。

 潮の豊かさに惹かれてか、海鳥がしきりと海面を襲っている。

 ということは、近くにこれら海鳥たちが営巣できる場所があるのだろう。岩礁か、難破した船か。

 しかし、四方を見わたして、視界をさえぎるものはいずこにもない。

 薫は遠い水平線をじっと見つめていた。明るい鳶色の瞳に、ゆるやかな孤状の青を映したまま、脚だけをぶらぶらさせていた。

「水ばっかりというのも、理不尽な話よねぇ……」

 だれに愚痴るわけでもなく、つぶやいてみる。

「絵本には、もっといろんな風景があったんだけどなあ……」

 島というものがあって、椰子の木がはえていて、そこには土や石がある、というような知識は薫も持っている。だが、見たことはない。<船>の航路にそんなものは含まれていない。<船>は決められたコースをずっと巡りつづけている。それがしきたりだからだ。

 <船>がいつから巡航しているのかは、長老たちしか知らない。だが、薫が生まれるよりずっと昔のことなのはたしかだ。

 <船>には、<船人>とよばれる五百人ほどの人間が暮らしている。かつてはもったたくさんの<船人>がいたらしいが、長い年月のうちにかなり人数は減っている。生まれた子供が病気にかかりやすいせいだ。薫も、ずいぶんと友達の水葬を見送ったように思う。

 ――元気な子供を産める女は、だからいばっていられるのさ。

 と、ミヤコは笑って言ったものだ。ミヤコ自身、三度お産をして、無事に十五歳まで育った子供はいない。

 さらに、女の子を産んだ女は尊敬される。女の赤ん坊なら、長ずれば子を産めるからである。女の子を何人も産んだ女は、老いても長老として敬われ、大切にされる。

 自分の子を持たなかったミヤコは、母親を失った子供たちを養育する役目をにないつつ、老いても働きつづけなければならない。

 だが、それでも男よりもましだ。

 男は三十代くらいまでは艀で漁をして、食いぶちをかせぐ。しかし、四十を越えると船底におりる。

 船はすでにかなり老朽化し、あちこちから水や湯がもれる。その水には毒気が含まれていて、放置すれば船じゅうの人間が死に絶える、とされていた。だから、老いた男たちは船の心臓部にこもり、その維持につとめるのだ。

 もしも、心臓部が停止してしまったら、船が停まるだけではなく、電力も供給されなくなってしまう。艀を降ろしたり巻き上げたりするクレーンが動かなくなれば、海から食料を得ることはできず、人々は遠からず餓死するだろう。また、白熱灯で維持される畑も養蚕場もだめになる。浄水器も、空気清浄機も、だ。船のなかで生き延びるための方策がすべて失われてしまう。

 だから、男たちが、その寿命を削って船の心臓部をまもるのは、尊い仕事なのだ。

 とはいえ、彼らは女子供がいる領域まであがってくることは許されない。わずかな例外が赤道祭のときだ。その時ばかりは、たいていの望みがかなえられる。たとえば、女を抱くことさえ――相手はすでに子供を産むことのない者に限られるが――許される。

「いやだな……」

 薫はまるい海をうつした瞳をくもらせた。半年前の赤道祭で、酔った男がミヤコにのしかかっているところに行きあってしまったことを思い出したのだ。

 母親がわりのミヤコが酔漢の相手をさせられているのを見るのはつらかった。そして、もしかしたら、それは薫の未来の姿であるかもしれないのだ。

「やだ……ほんとうにいやだ」

 女の子を産み、その子も女の子を産めば、女系一族の長老として尊敬を受けながら老後をすごせるかもしれないが……

「あーあ、どっか、べつの世界ってないもんかしらねえ」

 目をどんなに凝らしても、ほかに暮らしていける場所など見えはしない。そこには海しかないからだ。

 さて、とばかりに薫は立ちあがりかけた。その拍子に、行く手の海面が視界にはいった。

「――?」

 しきりに海鳥が群れている。

 その下の海面に異物が漂っていた。かなり大きな漂流物だ。

 勇気ある海鳥が、その正体を確かめんと急降下をしかけた。

 異物がみじろぎし、海鳥はあわてて針路をかえた。

「ひと?」

 薫は声をもらしていた。

 それは、なにか浮遊するものにしがみついた人間であるようだった。

「すごい!」

 薫の身体のなかで、なにかがはじけた。めぐる血流がとたんに祭のビートに近づいていく。

 いまの時間帯は漁をしていないし、だれかが海に落ちたという話も聞いていない。もしも、そんな事故があったとしたら、ミヤコが黙っているはずがない。

 つまり、あれは――

 稀人(まれびと)

 であるはずだ。

「すごい、すごい、すごい!」

 わめきながら、薫は走りだした。

 操舵室と呼ばれる、長老たちの執務場所へと急をつげるために。



 稀人――というのは、客のことである。

 なにもない海をただ往く船に、頻繁に客のあろうはずがない。だから、稀人なのだ。

 彼には、一切の記憶がないらしかった。名前も、自分の年齢も、かつて自分が属していた集団のことも、なにも口にしなかった。

 若い、わけではなかった。外見上、三十よりも若いはずはなかったが、五十に達しているには身体が頑健にすぎた。身長も<船>の男たちの平均よりもかなり高いようだ。

 ぼさぼさに伸びた前髪の奥には、やや細めの双眸が光っていた。鼻梁は高く、うすめの唇は常にひきしめられていた。彼は言葉を知らないかのように、つねにそうしているのだ。

 名前をもたない彼は、やむなく稀人と呼ばれつづけた。ふつう稀人は歓待される。しかし、それには儀式が必要だ。集団に受け入れられるための儀式が。しかし、彼はおのれについて口を閉ざしつづけることで、集団からは阻害される<稀人>であることを選んだかのようだった。

 稀人は、ふだん、海をみていた。なにもすることがないのだった。男たちがおもしろがって銛漁に連れだした時、彼はまったく漁についての技量を持っていないことを暴露してしまった。男たちはあざけり、それから稀人を完全に無視するようになった。ただの無駄めし食らいをいじめて遊んでいられるほど男たちの人生には余裕がない。

 薫にあたらしい日課ができた。割りあてられた仕事をかたづけると、稀人がいつもいる開放デッキへと足をむけるようになった。

「やあ、元気かい?」

 快活に話しかける薫に、稀人は視線さえもやらない。デッキによりかかり、茫洋と視線をさまよわせているだけだ。

「記憶、もどった? まだ? 仕事はみつかった? それもまだ?」

 稀人の横に薫は立ち、背の高い男の顔をみあげる。

 こうやって見ると、稀人はけっこうな老人にも見える。肌にきざまれたしわは深い。だが、のどのあたりの皮膚にたるみはない。肩の筋肉も盛りあがるほどではないが、充分に締まっている。

「一言もしゃべらないね」

 と、言いつつも、べつに薫は話をやめるわけではないのだ。

「まあ、いいわ。勝手にしゃべるから」

 漂流しているところを発見したのは自分だから、という理由で、薫は稀人を自分の遊び相手に決めてしまっていた。むろん、相手の同意はとりつけていないが、聞いたところで、黙っているに決まっているからそれでいいのだ。

 薫の話はとりとめもない。自分のおいたちについて――とはいえ、母親は死に、会ったこともない父親はべつの船に乗っている。家族にちかいのは、世話役のミヤコだけ。べつに珍しい境遇ではない。ただ、薫には同い年の女の子の友達がいない。ちょっと上か、ずいぶん下にはいるのだが、年上の娘たちはもう大人だから薫とはちがう世界にいるし、年下のほうは薫と語りあえる資格をまだもっていない。男の子の友達は何人かいるが、話し相手には物足りない。走りまわって遊ぶぶんにはいい相手なのだが。

 稀人に対してしゃべるのにしても、最初は独り言の延長のようなものだった。彼はなんの意見もさしはさまず、薫が話しあきるまでずっとそこにいてくれたから。だが、あるとき、薫は、稀人の視線を感じた。稀人が彼女を見ていたのだ。薫がその視線に応えると、かすかな反応があった。なにも言わないが、彼は薫の話を聞いていてくれるのだ。

 だから、今日も薫はここへ来ているのである。

「稀人はなにをしていた人なの? 漁師じゃないよねえ。船のなかで畑をやっていたのかなあ? あ、わかった。動物を飼っていたんだ」

 薫は、また彼の視線がほしくて、肘で稀人の脇腹をつっついた。反応はない。だが、いらだっている様子もない。

「稀人のとしならさあ……ま、いくつなのかはわかんないけど……子供とかもつくったことある?」

 ぴく、と稀人の肩が動いた。しめしめ、と薫は思う。なにかしらの接点がみつかりそうだ。

「じゃあ、<赤道祭>で選ばれたんだ。けっこう、もてたんだね」

 うししし、と薫は笑った。それから、稀人の容貌をあらためて見た。

 稀人は横をむいて、海を見ていた。白いものがまざった長い髪。むだな肉のない切り立ったような頬から顎。そしてそこに生えている黒白まだらの短い髭は、いかにも硬くて痛そうだ。薫は、稀人の若いころを想像しようとした。むずかしい仕事だった。<船>にいる若者の誰とも似ていない。たぶん、二十歳のころの稀人は、いまの稀人とはあまり似ていなかったのではないか、と思った。

「ねえ……」

 と、薫は言った。風が三つ編みにした髪をなぶっている。ほどけば、たぶん腰に近いところまで伸ばした髪。もうすぐ、肩のところで切るはずの髪。

「女の子のとうさんだったこと……ある?」



 赤道が近づいていた。気温は日々上昇を続けていた。天気はしかし上々で、しばらくは安定してくれそうだった。

 艦内に音楽が流れはじめた。めったに使用されることのない艦内放送だ。祭の時期だけ、封印を解かれるのだ。曲は、素朴な太鼓と男の声でかたちづくられる、単調だが、心うきたつものだ。

「で、決めたのかい?」

 ミヤコは、椅子にすわっている薫の後ろに立って、少女の髪をけしくずってやりながら質問した。

「なにを?」

 薫は、鏡のなかの自分の顔とにらめっこしながら、聞きかえした。かるく白粉をはたき、紅を唇に差した程度だが、幾年(いくとせ)かおとなびて見える。

「相手だよ、あいて」

 ミヤコは、ちょっとあきれたように、そして心配そうに言葉をかさねた。

 薫はちょっと思案した。

「だいたい決めた」

「だれだい」

 間髪入れずに聞いてくるところをみると、ミヤコはずいぶん気をもんでいたらしい。

「――ひみつ」

 にやっ、と薫は笑った。薄化粧をほどこした顔が、年相応の表情にもどる。

「やれやれ――この子ときたら」

 ミヤコはまるい肩をすくめた。あきらめたらしい。

「ところで、ねえ、あの稀人の行き先が決まったみたいだよ」

 ミヤコはさっきまでの世間話の口調にもどった。

「へえ、どこ? どこ? 水耕栽培の畑? それとも……」

「船底だよ」

「え……?」

 鏡のなかの薫の表情がかたまった。

「漁はだめだったけど、機械の扱いには慣れていたそうだよ。それに、本人もそれを希望したってさ」

「うそ!」

 薫は叫んだ。頭を乱暴に振って、ミヤコに向きなおる。櫛にからみついた長い毛が数本ぬけて、鋭い痛みが薫の意識にわりこんでくる。

「薫!?」

「下におりちゃったら、赤道祭のときしかあがってこれないじゃない! それに、毒気で病気になるかも!」

 ミヤコは一瞬少女の剣幕に驚いたようだったが、すぐに表情をあらためた。

「――あの男もいつまでも稀人ではいられない。なにかの仕事をしなくちゃいけないんだ。船底の仕事は……そりゃあたいへんな仕事だけど、大切なことなんだよ」

「でも、水耕栽培とか、養鶏場とか、はたらく場所はいっぱいあるじゃない! 漁だって、なれればうまくなるわ!」

 ミヤコの目がほそくなる。まっすぐに薫を見つめている。

「まさかとは思うけど、あんたが決めた相手というのは、稀人じゃないだろうね」

 薫は押しだまった。本心ではなにも決めていなかった。だれの顔も思いうかばなかった。薫の相手はまだ、誰でもなかった。まだ――

 沈黙を肯定にとったのか、ミヤコはさらに目を細めた。きゅっ、と肩が強ばった。

 薫は顔をふせた。ぶたれる、と思った。だが、ミヤコの手は動かなかった。

「自分の若さを、自分の好きなことにだけ使っていい時期はすぎたんだよ、薫。おまえは<船>のために健康な赤ん坊を産まなくてはならないんだ。そのために、赤道祭はあるんだ。どんな娘でも、最高の主役になれるこの時が。それを、お遊びでだいなしにする気なのかい?」

 子供を産まなかった女が<船>のなかでどんな暮らしをせねばならないか、薫も知っている。産まない自由は<船>にはない。老いた男が船底におりることを拒むことができないのと同じように。この場所で生きるためには、男にも女にも枷がある。

「……でも、稀人は子供をつくったことがあるのよ。きっと女の子を。だから、きっと、彼は女の子をわたしにくれるわ」

「もしも、あの男が前の<船>で底にいたとしたら――おまえは息のできない子供を産むかもしれない。わたしのように……」

 薫の身体がしばりつけられた。そうなのだ。これが運命なのだ。<船>で生きるということはそういうことなのだ。でも、べつの世界がどこにあるというのか? 稀人は知っているのだろうか? べつの世界を。海にゆられる<船>の上ではない世界を。



 西の水平線に太陽がその身を近づけた。水平線はゆらめきながら、熱い火の玉を受け入れる準備をする。赤い水面がさざ波をつくり、そのちいさな山と谷が、太陽からの最後の贈りものを受けとめつつ、うねっている。

 凪、とまではいかないが、どうして赤道を渡るときには、こんなにも海は静まるのだろう? むろん、そうではない赤道祭があったことを薫は記憶しているのだが、この光景のなかでは、この舞台は必然的にしつらえられていたのだと信じざるをえない。

 薫は甲板に立ち、白い衣を風になびかせるにまかせていた。風は、しかし、ゆるく、なまぬるい。薫のいまの心には物足りない。もっと激しさがほしい。そう、稀人を見つけたときに吹きつのっていた風の荒々しさがほしい。

行く手に黒いかたまりが見えていた。薫たちが乗る<船>とおなじ形をした船。いびつな広い甲板を持った巨大な船。もう何十年ものあいだ、補給を受けることなく、巡航しつづけている船。半年前にすれちがったのは、べつの船だった。だが、一年まえにはこの船ともすれちがっているはずだ。同じ船は四隻はあると言われている。が、いまでもすべて残っているのかどうかは、これからの赤道祭で確かめるしかない。

 むこうはこちらを認めていて、甲板のうえで手をふり、踊りをはじめている。

 音楽が大きくなった。こちらもいよいよ始めるのだ。赤道の祭を。半年にいちど、<船人>が男女にもどるその瞬間を。

 薫は視線を感じた。それは、甲板の一部にかたまっている男たちから放たれていた。年齢はさまざまだが、ふだん漁をしている者たちだ。双眸がぎらぎらと光っていた。彼らの視線は、薫の、成熟しきったとはいえないが、もはや子供とはいえない胸元や腰に集まっていた。

 男たちの視線は容赦なく薫の薄物を剥いだ。薫は身体がすくむような感覚とともに、心臓の高鳴りを感じた。

 いつのまにか、自分が笑っていることに薫は気づいた。

 音楽が高まる。それはもはや、艦内放送室に残されたテープによるものではなく、若い男たちによるほんものの演奏だった。大型の缶からつくった太鼓を掌で叩き、甲板を鉛のパイプで叩いている。声がもれる。荒々しい吐息。それらが渾然となってリズムをつくりだし、薫のなかのなにものかが首をもたげる。

 たぶん、それは、かつて楽園で無垢なる男を誘惑した――おんな。

 手首と足首にまいた鈴が高い音をたてる。身体が動きだす。

 はじまった。いま。薫の祭が。



 ライトが煌々と甲板を照らしだす。すでに周囲は深い藍色に包まれつつある。

 <船>はかなり速度を落としている。だが、確実に進んでいる。その会合点へとちかづいている。たぶん、むこうの<船>でも、薫と同じように、乙女が踊っているはずなのだ。自身の人生で最高の踊りを。そう、いま。

 薫は理解していた。みんなが自分を見ている。

 年を経た女たちは思いだしているだろう。自分がどのように踊ったのかを、たぶんに美化しながら。

 稚ない女の子は、不思議な生き物を見るようにして、くちをぽっかりとひらいているだろう。たぶん、薫自身がかつてそうしていたように。

 踊りをつづけながら、薫は遊び友達の男の子たちに近づいた。ムカオが、マサキタが、ユキタカが、頬を紅潮させ、薫を見つめていた。その目は、すでに、ふだんふざけあっている時のそれではなかった。十六歳のムカオが一歩前に出た。十五歳のマサキタは一歩さがり、そしてユキタカは――十四歳の少年はその場に立ちすくんでいた。

 薫は微笑を彼らにおくった。彼らが痙攣するのをたしかに薫は見てとった。

 そして、資格のない男たち――船底にいる男たち――薫は、その一群に目をやった。あわれみをこめて。

 そして、稀人の顔を見た。

 稀人は、そこにいた。船底にいる男たちから少しだけ離れて。そこにしか彼の席はなかったのだ。稀人は、薫を見ていた。今まで以上にしっかりと見ていた。それでいて、稀人の目だけがちがっていた。ほかのすべての男たちとはちがっていた。

 ふいに薫は羞恥がこみあげてくるのを感じた。あたしはこんなにも乱れている。裾をまくりあげながら、白いはぎをみせながら、それを楽しんでいる。これは、ほんとうのあたしじゃない。これは――

 その時だ。耳をつんざくほどではないが、けっして低くはない轟音が、間近にせまった。<船>と<船>がすれちがおうとしているのだ。速度は極端に落ちている。神業のような操船技術だ。

「友よ! 赤き道にての再会を祝す!」

 長老たちが叫んだ。男たちがそれに和した。

 左舷のすぐ向こうを、ほぼ同じ高さの甲板が通っていく。ほとんど甲板同士がすれあうほどだ。人々が走りはじめる。

 名前を呼びあっているのは親と子か。彼らはそれぞれの甲板を並走しつつ、言葉をかわしている。

 甲板同士がほとんどこすれ合っている箇所で、一年も前から言い交わしていたのかもしれない男女が手を握りあった。どちらかの<船>に移るつもりだとしたら、この瞬間しかない。跳んだのは、男のほうだ。もしも、受胎可能な女をその<船>から奪ったとしたら、つぎに赤道ですれちがう時には戦いになりかねない。だから、男がゆくのだ。

「薫! 行って、選びなさい! 若い男を。強い男を選びなさい!」

 ミヤコがすぐそばに来ていた。薫の背中を押した。よろめきながら、薫は舷側へ進んでいた。

「乙女よ! おのが相手をえらべ! だれであっても、その導きを拒みはせぬ!」

 それぞれの<船>の長老たちが、そのように叫ぶ。太鼓をたたく音が大きくなる。

 薫は見た。むこうの<船>にも薫がいるのを。顔に白粉をはたき、唇に紅を差し、白い衣を身につけている。小柄で、ほっそりしていて、それでいてしなやかだ。髪は腰までの長さだ。走っているので、風になびいている。今宵を限りに断ってしまう髪。少女時代のしるし。

 男たちは、走る少女たちに道をあけた。紅潮した顔つきで、その姿に見入っている。

「乙女よ! すべてはこの夜のためにあったのだと知れ! すべてをささげよ! この夜に!」

 長老たちの声に、男たちの怒号が和す。

 太鼓の音が耳をつんざく。カツカツとアスファルトを叩くパイプの音のピッチが速まる。

鈴の音が高まっていく。薫の心臓はやぶれそうに暴れていた。

 白い指がのびる。

「おまえ!」

 少女の喉がするどい声をたてる。すべてのためらいをかなぐり捨てた、獣の声のようにそれは響く。

「おまえ、こい!」

 指差されたのは、ムカオだ。顔があからみ、喉仏がゆっくりと上下する。

 一瞬、気弱げにあたりに視線をやる。だが、次の瞬間、ムカオの顔は大人のそれになっていた。選ばれたのだ、自分は。それに応えられなければ、ただ暗い海底が待っているだけだ。乙女に恥をかかせた男に生きる場所はないのだ。

 ムカオは跳んだ。

 跳んで、となりの甲板にうつった。そして、白い衣の少女を抱きしめた。

 歓声がわいた。双方の船から、それは怒濤のように湧きおこった。



 薫はそれを見ていた。拍手をしていた。おめでとう、もうひとりのあたし。あなたはとてもうまくやったわ。ムカオは、たぶん、この<船>ではましなほうの男の子だわ――

「薫――どうして?」

 ミヤコが背後に立っていた。

 <船>は遠ざかりつつあった。祭の興奮は潮のように引きはじめ、そしても人々はそれぞれの個人的な祭に移ろうとしていた。船底の男たちでさえ、女を物色しはじめている。

「――まあ、いいわ。半年後にも祭はある。あんたはいい踊り手だった。だからきっと、みんなも納得するよ」

 ミヤコの声に厳しさはなかった。どことなく、ほっとしたような響きさえ感じられる。

 薫は首を横に振った。

「いいえ……明日の朝、わたしは髪を切るわ。ミヤコさん、手伝ってね」

 そう言うと、薫は歩きはじめた。どこに行くべきなのかはわかっていた。ミヤコにもわかっていただろう。しかし、彼女は止めなかった。

 稀人はそこにいた。ずっと動かなかったのだ。船底の男たちがそれぞれの楽しみのために散ってしまってもなお、稀人はそこにすわっていた。

 薫は稀人の前に立った。ちょうど、見下ろすかたちになる。

「おまえ」

 薫は稀人に声をかけた。稀人は顔をあげた。わずかに不審そうな表情がうかぶ。薫は心に最後の鞭をいれた。走れ。走れ、おまえ。

「おまえをわたしは取る。こばめば、海に捨てる。それがしきたりだ」

 言葉を投げつけ、薫は審判がくだるのを待った。



                        「船」  了



                        1996/12/22完成

                        1997/5/17 字句修正

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