第2話 あかい糸

 タモツは空を見るのが好きだった。

 子供のころから、することがないときは、屋根に出て寝ころんでいた。もうすぐ仕事を見つけなければならない年齢になっても、その癖は変わらなかった。

 その日も、彼にとってはごくあたりまえのことだが、まわりから見れば無気力きわまりない姿勢のまま屋根にいた。

 空はよく晴れわたっている。

 上空にかすかに雲がちぎれて飛んでいて、そのずうっと先に、またたく光が見えた。

 子供のころから遠くを見ることばかりしていたせいか、タモツの視力はすこぶるよかった。

 ちいさな光のかたまりがいくつか点在していて、よく見ると、その光の群れがギザギザの線を形作っているのがわかる。

 内球儀を見るまでもなく、空のむこうには海と陸がある。ギザギザに見える光の線は海岸線だ。海ぞいにあるたくさんの街が夜の装いをしているのだ。

 世界の半分は夜なのだ。そんなことは常識以前のことだ。そして、世界が球体の内側に広がっていることも、文明が発達した現代にしてみれば、よほど信心ぶかい老人をのぞいては自明のこととなっている。

 もっとも、昔は「世界は平坦である」とか「世界は球体である」というような迷信がけっこうはびこっていた。だが、船乗りたちは、天気がいい時には海がせりあがって見えることを知っていたし、平原に住む狩猟民族たちは、巨大な神が大地を踏みしめて、そのために世界がへこんでしまったのだと信じていた。なにしろ彼らの視力はすこぶるよくて、四方を見渡すと、海や大地がせりあがりながら視界の涯に消えていくのを感じることができたから。

 でも、まあ、不思議なのは、鉄道を馬車のかわりに蒸気機関車が引くようになっても、以前として空の彼方の異国は遠い、ということだ。望遠鏡というものを使えば(高価すぎてタモツなどには手が出ないが)、空の彼方の街を歩いている人の帽子の形さえわかるというのに、そこまで行くのには、鉄道、船、馬車などを総動員しても百日はかかるのだ。

 タモツが空を見るのが好きなのも、じつはそういう遠い世界に行ってみたいと心の奥であこがれているせいかもしれない。

 それにしても――と、タモツは思う。

 これからどうすればいいのだろう。家業は服の仕立て屋だが、それは大昔から兄が継ぐことが決まっている。次男の彼は修行さえしなかったから、いまだにボタンすら自分でつけられない。もっとも、祖父が健在のときには、針に糸を通す手伝いだけはやたらとさせられたので、目のよさと手先の器用さだけは培われたが、そんなもの手に職があるわけでもなんでもない。

 まあ、町の製糸工場ではいつでも人手が足りないから、一人分の食いぶちを稼ぐだけなら、そんなに苦労はないだろう。

 だが……

「タモツさーん、またお昼寝ぇ?」

 寝そべっていたタモツの耳に明るい声がとどいた。

 タモツは身体を起こし、家の前の砂利道をてこてこ小走りにやってくるおさげ髪の娘に目をむけた。つい、頬がゆるんでしまう。

「やあ、ユリちゃん」

 タモツは手を振り、それからあわてて屋根の端まで移動した。そこから地上まではたいした高さではない。尻を屋根のはじにかけて、えいやっと飛びおりる。

 ひらりと身をひるがえしながら地面に降りたつ。

 というわけにはいかず、着地にやや失敗し、つんのめる。顔をあげたところに、ユリは待っていた。バスケットをさげている。ほこりよけにナプキンをかけてあるが、甘い香りは焼きたてのパイにちがいない。

「こんにちは!」

 ユリは近所に住む女の子で、タモツの幼なじみだ。歌うのが好きで、声もいい。ついでに顔もよければ言うことないのだが、まあそちらは十人並みといったところだろう。でも、タモツは、小さい頃からじぶんの嫁にするのはこの子だ、と決めてある。もっとも、その決意は相手には知らせていない。

「今日はどうしたの? なんかあったっけ?」

 タモツは、ユリの持っているバスケットのナプキンをつまんで、なかを覗きこみながら訊いた。いや、そうするとことで、ユリに自然に接近できるものだから、つい。

「あー、だめですよお。これは、まずウキコさんに渡すんですから」

 タモツの無作法をたしなめるようにユリは言った。ウキコというのはタモツの兄嫁だ。もとお針子で、兄の助手だった。まあ、職場結婚の一種だろう。そのウキコに、ユリは裁縫を習っているのだ。

「んー、でも、一個くらいならいいかな」

 にこっ、とユリは微笑み、バターの香りが香ばしいほかほかのやつをバスケットから取りだして、タモツに差しだした。

「へえ、うまそうだ」

 タモツはパイを受けとって、ユリに笑いかけたが、ふと、相手の表情の変化に気がついて言葉を途中でのみこんだ。

 ユリの目尻が光っていた。

「……どうして泣いているの?」

 と訊けないまま、タモツは立ちつくしていた。

 ユリは、ふっと頭をさげると、

「さよなら」

 と言って、タモツの家の裏口に向かっていった。

 大仰な声でウキコが出迎えるのが聞こえてくる。


 ユリが海岸沿いの大きな街の音楽学校に行くことが決まったことを知らされたのは、その日の夜のことだった。



 音楽学校があるタチバナという街へ行くには、タモツたちが住むタナベの町から馬車で一日、鉄道に乗り換えてさらに一日半かかる。はっきりいって、けっこうな旅である。

 手紙のやりとりはむろんできるが、それでも往信に三日、返事をすぐに書いたとしてもさらに三日かかる。

 ユリからは近況を知らせる葉書が来た。毎日がとても楽しい、と元気な字で書いてあった。タモツは、返事を出そうと決めたが、それを実行したのは何日も過ぎてからだった。ヘタクソな字で、自分が製糸工場に勤めだしたことを書いた。すると、驚いたことにすぐに返事がきた。

「わたしも新しい学校で一生懸命やってます。タモツさんもがんばって」

 タモツは舞いあがった。その簡単な文面に、あらゆる意味を読みとって、心に刻んだ。

 それからというもの、タモツは手紙を書きまくった。内容はどうでもいいようなことばかりだったが、書くことじたいが楽しかった。ユリも律義に返事をよこした。しかし、文面は少しずつ簡単に、定型的になっていた。会話でいうと、うわすべりになってきた感じだ。

 タモツはあせりはじめた。いろいろなことを想像した。学校は全寮制の女子学校ということだが、教師には男もいるはずだ。ましてや、街に出れば、それこそ男だらけだ。しかも、街の男は女癖が悪いものだ、とタモツは決めつけていた。

 ――ユリがあぶない。

 タモツは真剣にユリを守る方法を考えはじめた。

 いちばんいいのは、そばにいてやることだ。だが、タモツにも仕事ができた。製糸工場で、できあがった糸をリールに巻く蒸気機械を操作する仕事で、それはそれでおもしろかった。手先の器用さを生かして、何点か機構を改造し、効果もあげていた。ひるがえって、タチバナの街で、なんのコネもなく、新しい仕事を見つけられるとは思えなかった。

 休みのたびに会いに行くといっても、往路だけで三日かかるので、そう簡単にはいかない。手紙の頼りなさは、すでに現状あるとおりだ。

 タモツは考えぬいたすえに、子供のころからぼんやりと夢想していたことを実行に移してはどうか、と考えた。

 むりに決まっている。

 というのはじつに簡単な結論だ。しかし、ほんとうにそうなのか?

 タモツは内球儀と地図を交互に見た。さいわい、タナベからタチバナまでのルートは、ほぼ直線で、地勢も平坦だ。やるしかない、とタモツは思った。

 そして、工場に無理をいって休みをとり、タモツはタチバナに出発した。

 小指にしっかり糸をむすびつけて。



「タモツさん!?」

 しばらく会わないうちに、ユリの髪型はかわっていた。以前のような素朴なおさげではなく、短く髪を切って耳を出していた。音楽学校では歌劇も学ぶので、かつらをかぶる機会が多いのだそうだ。だからなのだ、とユリは照れながら説明した。

「でも、いったいどうしたの? お仕事? でも、製糸工場のお仕事でも出張ってあるのかしら」

 はきはきとした物言いは以前と変わってはいない。タモツは安心した。でも、やたらと美人になったように感じるのはどうしてなのだろう。

 音楽学校の談話室でさしむかいになっていた。ついたてをへだてて、女教師がそば耳をたてている。ふつうなら、肉親以外の面会者は門前払いをくらうところだ。それをタモツは田舎者の無口さをもって押し通ってきたのだ。

「おとうさんやおかあさんは元気にしてる? ううん、最近、あんまり手紙を書いていないの。ここへ来たころは、友達もいなくてもさびしくて手紙ばっかり書いていたの。田舎の友達全員に、毎週出していたわ。でも、友達もふえたし、それ以上に勉強やお稽古が毎日たいへんで……」

 屈託なくユリは話した。なんだかんだいって、郷里の幼馴染あいてにしゃべるのは楽しいのだろう。だが、タモツの顔色は蒼くなったり赤くなったり、ひどく変化した。

 ――おれだけじゃなかったのか……

 目の前が暗くなった。思いこみが激しかっただけ、落差もはげしい。

「どうしたの、タモツさん?」

 ユリが首をかしげてタモツを見ている。踊りの稽古が毎日あるからか、おなじ年頃の娘たちにくらべてほっそりとした首筋をしている。髪を短くしたせいで、頭のかたちがいいのがくっきりとわかるようになってもいる。タモツの知っているユリは、こんなにきれいじゃなかった。きりきりと胸がいたむ。

「……かえる」

 タモツはふいに立ちあがった。小指にまいた糸が食いこんだ。ぶち、と皮膚がやぶれて、血がにじんだ。

「タモツさん、待って、血が」

 ユリがあわてて、タモツの左手をとる。小指に食いこんだ糸を見て、一瞬身をこわばらせた。糸のゆくえにそっと視線をめぐせて、しばし絶句する。

「あかい糸が――」

「ごめん、ユリちゃん。おれはバカだったよ」

 タモツは顔をふせて、吐きだすように言った。ついたてのむこうで、教師が身じろぎする気配がした。さらに聞き耳をたてているのか。

「ううん……」

 ユリはタモツを見あげながら、タモツの小指を口にふくんだ――



 三日ののち、タモツは製糸工場にもどった。

 工場ではタモツの帰りを待ちかねていた。

 というのも、タモツが出発してからの三日間、糸を作っても作っただけどこかへ消えていく、という珍事が起こっていたからだった。

 おそらくタモツが担当していた糸巻き機械の故障にちがいないということで、タモツが帰るまで工場は休止状態になっていたのだ。

 タモツは、機械を調整して、正常にもどした。工場側はひと安心して、タモツの給料をあげてくれた。正式な技師としてみとめてくれたのだ。

 うきうきしながら、タモツは家にもどった。小指には糸をまきつけている。

 熱くしたウィスキーを入れたマグカップを手に、屋根にでた。

 ウィスキーを飲みながら、時間を待つ。

 くらい夜空のむこうに、ほのかな光のヴェールが見える。ああ、世界の半分はいま昼なんだな、とタモツは思った。でも、もうそんなに遠くは見ようとは思わない。

 視線をさげて、タチバナの街がある方角を目をむける。夜には、地平が湾曲しているのがよくわかる。街の灯があるからだ。

 ウィスキーを飲み終えたマグカップをさかさにして両のひざのあいだにはさむ。小指にむすんだ糸をほどくと、絆創膏でカップの裏に貼りつけた。

 そろそろ時間だ。あの子が自分の部屋にもどってくる。窓際に垂らした糸のところへ、底のひらたいカップを持って。

 タモツはマグカップを耳に当てて、待った。

 ユリからの「もしもし」という呼びかけを――



 ――この先を物語るのは野暮としかいいようがないが、五年ののち、タモツとユリは一緒になった。五年のあいだ、実際に会ったのは数回しかなかった。よくもまあそんな遠距離恋愛を成就させたものだとまわりの人間はおどろいたものだったが――

 その数年後、タモツが製糸工場をやめて、糸電話を引く商売をはじめて、ようやくみんな納得した。その回線をはりめぐらせるのには、タモツが改良した、あの糸巻き機械がおおいに役立ったという。

 タモツの糸電話会社はおおいに発展した。時代とともに、回線の精度も、その設営方法も進歩し、反対側の大陸にまで、直接回線が引かれるようにさえなった。有線によるテレビ放送もはじまった。

 困ったことといえば、各家庭から糸が何十、何百本と伸びだしていて、いろいろなところにつながっているものだから、空が糸だらけになってしまったこと。

 でも、まあ、しょうがないか。


                       「あかい糸」 了

                       1996/12/16 完成

                       1997/4/29 字句修正

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