15 向き合う

「いつ行くの?」

「休憩は終わったから、すぐに行くよ。ここなら自転車もあるからね」

一度シャワーを浴びてすぐに準備を済ませる。といっても持っていくものなんてほとんどない。強いて持っていくのなら一つだけだ。

「あいくん、耳貸して」

「ん?」

何か言いづらいことでもあるのだろうかと耳を寄せると、背中を思いっきり叩かれた。パァンと子気味いい音があたりに響く。

「いったぁ……」

「いってらっしゃい」

激励なのだろうが、ここ二日はまともな寝床で寝ていないため背中が余計に痛くなった。とはいえ弱音なんて吐いていられない。それに、その激励に元気をもらったのは事実だった。

「あいくんの言う通り、私はあいくんを絶対に許さないから。だからちゃんとしてね」

「……わかってるよ!」

自転車のペダルを強く踏み抜く。ぐっと慣性が乗って加速し始めた。ぐるぐると回るペダルをもっと、もっとと強く踏む。その度にスピードを上げていく。

S女学院はそこまで近い場所ではない。なら電車だったり車だったり、然るべき交通手段を使うべきなのだろう。それでも、と僕は自転車で、自分の足でそこまで行くことを決めた。スマホがあれば大抵の場所までは行ける。便利な時代になったものだと思う。

もう日も沈みかけて夕日が暑くて眩しい。いつもとは違う知らない道に出たときの言いようのない不安感を太陽の暑さが誤魔化してくれる。

とにかく前へ、前へ。

ごめん、橘。何もしてやれなくて。ごめん、何も気づけなくて。

けど、それでも、どんなに僕に落ち度があったとしても、こんな終わり方だけは……。

「こんな終わり方で、納得できるはずがないだろ……!」

より一層自転車を漕ぐ足に力が入った。

景色は流れる。そんな景色を置き去りにしてひたすら自転車を走らせる。信号が点滅していたらスピードを上げて渡り切る。赤信号なら迂回して無理やり渡る。

そうまでして橘に会いたい理由って、なんだっけ?

考える余裕なんてないのにそれだけはずっと心中に残ってふつふつと残る。そんなの決まっているのにずっとしゅわしゅわと、サイダーの泡みたいにその気持ちは湧き出てくる。

ふと気を抜くと自転車から転げ落ちそうになる。ガタガタと揺れる車輪はとっくにオーバーワークだ。段差を越える度に車体がガタンと大きな音を立てて浮く。暴れる前輪を抑えるのに精一杯で曲がり角は体重を移動させて無理矢理に曲がった。

橘と会ったときのことを思い出す。

『隣、天野なんだ』

正直関わり合いにはなりたくなかった。ただでさえ人を避けようとしていたし、橘が放つ棘の強さは僕に取って快いものではなかった。

『お互いに話したくないなら、ちゃんとお互いの話を聞けるんじゃないかって』

そして傷をなめ合うようにお互いの事情を軽く話して、お互いに遠慮がなくなっていたのだと思う。嫌いなものは嫌いだと言うし、買い物に付き合えと言われればそれを断ることもない。着かず離れずでちょうどよいと思っていた距離感は、たくみが来てから変わっていった。

清水の秘密を知って、橘の本当の過去を知って、気晴らしに四人で遊んで。

そして、どうしたって逃げようのない大人の事情から、僕たちは逃げ出したんだ。

一年と少し、それくらいの付き合いだ。僕は友人の清水のことも、幼なじみのたくみのことも、そして橘のことだって何一つ理解できていないと思う。

ただ、それでも僕は。

どうしようもないほどに、僕は橘に伝えたいことがあるのだ。

だからこんなところで止まっていられない。危険運転は承知の上だ。

「待っててくれ、とは言えないな……」

正直橘には合わせる顔がない。彼女に僕を信じさせるだけの材料を提示できなかったのだから。かといって会わないまま、なんて選択を取れるほど賢い愚か者にはなれない。

荒い息を吐き出して、吸う。思わずもう一度吐き出す。呼吸が追い付かなくなるほどに自転車を飛ばす。本当にどうしようもなくて止まらなければならなくなったときだけ、呼吸を整えつつ道を確認する。S女学院まではまだ距離があるようだ。

「そりゃ自転車で三十分全力漕ぎした程度じゃ着くわけがないけど」

さすがに心が折れそうになってくる。体力ももうかなり限界が近い。

自分の足で、自分の意志で彼女に向き合うことに意味があるのだ。ここで止まって何かいられない。止まれない。

再び漕ぎ出そうとしたとき、後輪がイヤな音を立てた。ゴムとゴムが擦れるような音。降りて確認するとやはりと言うべきか、パンクしていた。スピードを緩めずに段差を越えたりしていたから当然だった。

「ってことは、走るしかないのか」

とりあえず近くの駐輪場に自転車を置いて、僕は走り始める。

リズミカルなんてものじゃない、足を踏み出す速さは不安定でときどき躓きかけてしまう。毎朝走っているのとは違う。競技でもなければ何かが残るわけでもない。だからどれだけ不格好でも構わない。汗もダラダラと滴り落ちる。タオルもハンカチも置き去りにしてきたから仕方なく手で拭う。べたついて気持ち悪い。

日が沈んで少しずつ薄暗くなっていく。出来るだけ早く着かなければならないのに、こんなところで足踏みはしていられないのだ。真っ暗になっても走り続けてやる。

ガッとアスファルトを踏みしめる足に力が入る。


走れ、走れ。


サイダーみたいに、思いが湧き出る限り。



「あさひ、話を聞く気くらいはないのか?」

扉が少々乱暴気味にノックされる。父の甘言に乗るつもりはなかった。父の中ではあたしが転校するのは決定事項。どれだけ喚いても変わらないことだと思う。

あたしには転校の意思はない、ということだけでも伝わればいい。扉のノックがその答えみたいだけれど。思わず左手を握る力が強くなった。

「ない。お願いだから、話しかけないで」

「……どんなときも口調を崩さないというのは忘れているようだな」

「そっちこそ、厄介払いみたいにあたしを追い払った癖に何を今更……明が倒れたからあたし? ならこれまでの明の頑張りはどうなるの?」

弟である明のことは正直好きじゃない。話したことも数えるくらいしかない上に、夜の発作は明の発言が原因だ。けれど本来ならあたしが頑張らなければならないことを押し付けてしまったという呵責がある。だからあたしは彼のことをどうしても嫌いになることはできなかった。

「それも悪いとは思っている。しかし、橘の家をこの代で終わらせるわけには……」

父の言うことは重々承知だ。わかっている。拒否権なんてないということは。

明の頑張りはどうなるのか、とあたしは言った。その言葉はそのままあたしにも突き刺さる。ここであたしが断ってしまったら、父が、橘の家が築き上げてきた歴史はどうなるのか。だからあたしはこうやって子供じみた真似で時間稼ぎくらいしかできないのだと思う。

本気でイヤなら、そもそも天野と逃げ続ければよかっただけの話なのだ。どこまで逃げられたかは正直わからない。けれど、今よりも強く拒絶の意思は伝わるはずだ。

でも、それでも。

「やっぱり、イヤ」

優しかった寮の人たち、先生、踏み込んでくる芹沢さん。そして天野。

会った人たちとの関係をなかったことにされたくない。それをイヤな思い出で上書きしたくない。せめて、少しだけでも話せればと思う。父がどれだけ聞く耳を持ってくれるかが不安だが、何も話さないよりはましだ。

そんなことはわかりきっているのに、口は勝手に動き、体は勝手に拒絶する。どうして?

『姉さんが男なら』『そうだなぁ』『男なら』『女だから』

頭の中で言葉がずっと繰り返される。繰り返される度に頭がズキンッと痛む。ジクジクと蝕むようにしてその痛みはあたしを疲弊させていく。

「まだダメ、まだ、今はダメ」

自分に言い聞かせる。左手首をぎゅっと握る。震える手を押さえながら、父の言葉が途切れるのをじっと待っていた。

「ちょっと……待ってください!」

場違いな声が響いたのは、聞き間違いだろうか。扉越しだからはっきりとは聞こえなかったし、大方幻聴の類だろう。頭が痛むといつもこうだ……と自己嫌悪する。

「君は……あさひの、クラスメイトか。どうしてここに」

父のその言葉で思わず顔を上げた。

そんな、まさか。そんなバカなことをするはずが。

信じられなくて、でも確かに信じたくて。自分の部屋の扉を開け放つ。

開けて、どうしてここにいるのかがわからなくて、でもいてくれることに驚いて、声が震える。絞り出すように、あたしはその人の名前を告げた。

「あま、の……?」

そこには困惑している父と、肩で息をしながらその父に対峙している彼の姿があった。



S女学院の周りを調べて、ようやく見つけた橘の家。時刻はすっかり夜だ。また外出許可を得ずにこんなところまで来てしまっている。後で叱られるだろうなという場違いな感想が脳裏をよぎった。目の前には現実逃避したくなるような大きさの家。施設、とまでは行かないけれど、そう言われれば信じてしまいそうなほどに大きい建物の入り口には確かに橘のネームプレートが存在する。ここまで来て同姓の誰かの家、ということはさすがにないと信じたい。

僕は万全を期すために、電話をかける。コール音が一つ、二つ、三つ鳴ったとき、「もしもし」と電話口から声が聞こえた。繋がるかどうかは完全に賭けだったが、今回はその賭けに勝てたようで一安心する。

繋がったのなら話は早い。単刀直入に要件を告げる。

「今、彼女の家の前にいるんですけど……入ってもいいですか?」

「……は、今なんと?」

「だから、家の前にいるんですよ。クラスメイトである橘さんと、話がしたくて」

「……少々お待ちください」

電話はやはり一方的に切られる。息を整えながら言われた通りに待つ。汗は引いてきたが、脚には乳酸が貯まって歩くのもやっとと言った具合だ。正直倒れ込まないのが自分でも不思議でならない。

「嘘は吐いてないよな」

僕は橘と話をしにきたのだ。それは本音そのものであり、そこに欺瞞や虚偽の入り込む余地は一切ない。別に連れ去りにきたわけではないのだ。

しばらくの間手持無沙汰でいると正門のような場所がキイと音を立てて開く。そこには如何にも老紳士然とした、先ほどと昼の電話の相手が立っていた。

「正直、門前払いだと思っていました」

そう素直に言うと目の前の老紳士はフンと笑って言う。

「お嬢様が転校を拒否されたときから、あなたがここに来るという想定はしておりましたので。まさかあの教師を通さずに直接訪ねてくるのはさすがに予想外でしたが」

「先生にそこまで迷惑はかけられませんよ」

「立派ですな。このご時世に珍しい、熱い心をお持ちのようだ……それで、何をしに来たのでしょう?」

値踏みするようにこちらの全身を隈なく見つめられた。ともすれば擬音がしそうなほどに鋭い目つきは、橘のそれとは比べ物にならない。このとき、本職が纏っている雰囲気を確かに感じた。それほどの重圧。

「あさひさんと、話をしに来ました」

その視線に耐えてようやく言葉を絞り出すと、老紳士は自ら纏った空気をさっと雲散霧消させる。脅しというより、試していたのかもしれない。大きくため息を吐くと扉に手をかけてこう言う。

「お入りください」

もう逃げられないところまで来ている。引き返すのなら今だけだ。今ならまだすべてを諦めて見ないふりをして、こんな面倒ごととはおさらばできるだろう。

「……何のためにここまで来たんだ」

口の中だけでそう呟くと、覚悟を決めて門をくぐった。


「どうしてお嬢様が転校を拒否なさるのか、あなたにはおわかりで?」

「わかりませんよ。それをちゃんと聞いてあげるのが親の仕事なんじゃないですか?」

つい言葉に棘が出てしまう。慌てて上手く言い訳をしようとしたが、言ってしまった言葉は取り消せない。

「すみません、変な言い方をしてしまって」

「いえ、我々も耳が痛い話ではありますから。お嬢様と過ごしていた時間は長いにも関わらず、今のお嬢様の理解者はあなたである。それが残念でなりません」

そんな話をしつつしばらく歩いていると、応接間のような場所に通された。橘はいない。

「今お嬢様をお呼びいたします。しばし待ってもらうことになりますが」

「ああ、はい。わかりました」

いざ橘に会うとなると途端に緊張してきた。いきなり来て押しかけて、ぶっちゃけ文句を言われても仕方がないことをしていると思う。こうするべきだと思ったし、こうしたかったから動いたわけで、責められようが後悔する気はないとはいえ。

「怖いな、橘と会うの」

彼女の真意がわからない以上、僕がものすごく傷つくことを考えていた可能性だってあるのだ。それを聞いて尚僕はここに来てよかったと思えるのか、それが怖い。バクバクと、心臓の音が聞こえるようだ。だが不思議と心は落ち着いている。怖いけれど落ち着いているという矛盾したような精神状態。

そんなどこかおかしい心のまましばらく待つ。だがいくら待ってもあの執事らしき人が戻ってくる気配はなかった。いくら家が広いとはいえ、ここまで時間が掛かるということがあるだろうか。橘が会いたくないと言っているのか? その可能性を考えてみたが、彼女なら直接顔を合わせて「もう会いたくない」とはっきり言うはずである。だからこれは違う。

気付けば僕はそっと部屋の扉を開けていた。どこからか声がする。その方向に進む。人の家を勝手に歩いているという罪悪感はあるが、背に腹は代えられなかった。今はやるべきことをやるために多少のことには目をつぶらなければならないときだろう。

足は勝手に急ぎ足になり、小走りに、そしていつの間にか走っていた。

「転校はお前のためにもなると思うんだが」

そう言っている男性を見つける。部屋の扉の前で、扉の向こうの誰かへと必死に話しかけている人物。

薄っすらと聞こえるのは聞き覚えのある声。

「ちょっと……待ってください!」

思わず声を荒げてしまった。本当に、どうしてしまったのだ僕は。さっきから無意識にやってしまう行動が多すぎる。

「君は……あさひのクラスメイトか」

「……失礼しました。あさひさんのクラスメイトの天野あいです」

名乗らずに話を続けることはさすがに失礼がすぎるので一応立場と名前を伝える。

「あさひさんを転校させるって、どういうことですか」

「言葉通りの意味だ。今の学校に通っている場合ではなくなった、ということだよ」

「あさひさんから聞いた話では、あなたがうちの高校に通わせていると聞きましたけど」

「それは事実だ。だが状況が変わればそれもまた変わる。至極当たり前のことじゃないかね」

確かに理屈の上ではそうだ。状況が変われば取る行動は変わる。その通りで反論の余地はそこにおいてはないだろう。だけど、でも。

「でも、あさひさんの意思はどうなるんです? あなたがそれをいいと思っていても、あさひさんはそうだとは限らないでしょう」

「子供の判断と大人の判断、どちらがより優れていると思う? 私は私の経験から、こうした方がいいということを教えているのだ。……そもそも君は、どんな立場からこの話に加わろうとしているのかね?」

言われて言葉に詰まる。高校での転校は正直人生の流れにも関わると思う。それに干渉するということがどういうことなのか、わかっていないわけではない。だがどういう立場でと問い詰められるといささか言葉に詰まる。

「友人というわけではないだろう。ただの友人ならこんなところまでわざわざ来るわけがない。君がよほど友人思いの人なら話は別だがね。それにあさひからは男女交際をしているような雰囲気を全く感じない。となると、君はどういう立場なのかな?」

「僕は……」

僕は橘の、なんだ?

改めて考えてもやはりわからない。クラスメイトで寮生でという表面的な事実を挙げていけば正解にたどり着けるだろうか。おそらく答えは出ないままだろう。

答えられずにいると、バンと勢いよく扉が開かれた。

「天野、いらない。余計なお世話」

そんなことを言いながら部屋から出てきたのは誰であろう、橘あさひその人だった。

「橘、その」

彼女からしたら意味がわからないだろう。何故かここに僕がいて、父親と話しているのだ。改めて考えると異常な状況だ。これが想定内の事態ということもまた異常だろう。

部屋から出てきた橘は若干だがやつれているように見えた。顔は青白く、左手をぎゅうっと見てるこちらが痛そうなほどに握りしめている。

そんな見てわかるほどにつらそうな橘を前にして、彼女の父は動揺していた。「大丈夫か、あさひ」と声を掛けるも当の彼女からは「大丈夫なわけがないでしょう?」と冷ややかに返されている。そして彼女は僕を見た。目が合う。

「黙って見てて。これはあたしが何とかしないと意味がない問題、でしょ?」

「……わかった」

大人しく引き下がった。理由は、彼女の目を見れば火を見るよりも明らかだった。

「お父様……いえ、お父さん。どうしてあたしが転校したくないのか、わかりますか?」

「わからない。どうしてなんだ、あさひ」

「まず一つ目、昔の出来事を思い出すからです。誰も彼もあたしを橘家の娘というフィルターを通してしか見てくれなかった。それはお父さんも同じです。だからあたし、お父さんのこと嫌いなんですよ」

「……耳が痛いな。確かに私はお前を橘にふさわしい娘になるように、としか考えて育てていなかった」

「今ではそこは、そこだけは理解できます。橘にふさわしい娘、そうあらなければならないという理由。外に弱みを見せたくないですものね」

完全に橘のペースで話が進む。くつくつと笑う橘は一見余裕に見えるが、その実極度の緊張状態にあると思う。だって嫌いな親に面と向かって自分の意見を通すだなんて、そんなことがつらくないはずがない。

「二つ目の理由は、そこの人……天野が関係しています」

「ほお……」

すっと目が細められてこちらを一瞥する。橘の鋭い眼光は親譲りなのだなとこのとき知った。あまりこちらに燃料を注がないで欲しい。僕は鎮火する術を持っていないのだから。

「厄介払いされた先での出会いが、少しだけあたしを変えてくれました」

口を挟みたかったが空気を読んで慎んだ。変わったのは僕なんかの影響じゃなく、橘自身の力だと思っている。僕はあくまで彼女の話を聞いていただけに過ぎない。

「確かに勉強の質はS女学院の方が上だと思います。しかし、環境という点においては今通っている学校の方が、あたしにとってはずっと過ごしやすい」

そう言う橘。他意がないのはわかっているとはいえ、基本的に橘の交流のある人というのは少なく、過ごしやすいと彼女が言った理由の一つに僕も含まれているわけで……。

ようするに、照れくさいのだ。

「だからせめて、時間をください。S女学院に戻るのか、このまま今の高校に通い続けるのか。考える時間をください」

そう言って橘はぺこりと頭を下げた。

しばらくの間、彼女の父親は黙って橘と僕を見ていた。僕は見られたときに肩をすくめてみせる。僕はわからないという意思表示だ。彼女の行動はあくまで彼女のもの、僕が何かを言ったわけでもなく、僕が代わりに対峙するでもなく、彼女は彼女自身で自分のイヤなことに向き合って、一つの答えを出したのだ。

なら、それに答えるのは親の役目だろう。

「……私は、ダメだな」

そう言って踵を返す。

「三月」

背中を向けたまま彼は言う。

「来年の三月まで。それまでに結論を出しなさい」

「じゃあ」

「今すぐの転校、というのはひとまず保留にしておく。お前がそちらの方が本当にいいというのなら、それで構わない。気が変われば教えてくれればそれでいい」

それと、と今度は僕の方に声をかけられた。一体何を言われるのか戦々恐々としていると思っていたよりも優しい声音で彼は僕にとんでもないことを言ってきた。

「……娘をよろしく頼む」

「え、あ、はい」

反射的に返事をすると、彼女の父親は一つ大きくうなずいてから去っていった。後にはじっとこちらをジト目で見る橘と足に重りを抱えたような動きをする情けない男が残っている。

「やあ橘、お邪魔しているよ」

何と言えばいいのかわからないから適当な言葉が口をついて出る。はぁとため息を吐くと橘は

「呆れた……お邪魔しているよ、じゃない。ちゃんと説明して」

「端的に言えば橘に会いに来たんだよ」

きょとんとする橘。

「どうやってここまで来たの? 家、教えてないし寮からここまですごく遠いし」

「自転車と走りで来た」

「……バカなの?」

「うるさいな、そうしたかったんだよ」

実際自分でもバカな行動だとは思っている。

「なんだよ『ありがとう、ごめんなさい、楽しかった』って! 何もわからねぇよ! 何がありがとうだよ、何のごめんなさいだよ、何が楽しかったんだよ! 何となくわかるけどはっきり言われないとわかんないんだよ!」

「それは……めちゃくちゃ短くまとめるなら天野に迷惑をかけたくなかった」

天野だってそうでしょう? と尋ね返されて思わず返答に困った。僕にもそういうところがある。自分のせいで誰かの関係が壊れてしまうことが怖い。それに誰かを巻き込んでもいいのかといつも躊躇して一人で行動して失敗してしまう。

「でも何も言わずにいなくなることはないだろ」

「言ったら止めるでしょ。諦めようと思っていたんだし……まあでも」

いつものくつくつとした伏せた笑いではなく、どこか明るいふわりとした笑顔で彼女は言う。

「天野が来てくれたから、諦めないでいられたんだよ?」

「……あ、ああそう」

言おうと思っていた言葉は全て引っ込んで、心の中に消えていってしまう。

なんだかんだと色々言い訳をつけてその事実から目を背けてきたけれど、ここまで来たからにはもう認めるしかないみたいだ。

僕がここに来た理由は橘のこの笑顔を見るためだったのかもしれないと、そう思うほどに僕は彼女に見惚れてしまったのだ。

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