14 温度
天野が寝ている間、あたしは音を立てないようにして小屋から出る。夜は深く、こんな時間に外を出歩いたことなんて今までなかった。
夜は決まって昔のことを思い出してひどい状態になっていたから、こうして歩いていることが不思議に思えてくる。夜に落ち着いていられるのは天野が手を握ってくれたおかげだった。
冷たくない、大丈夫と自分に言い聞かせるようにして左手をぎゅっと握る。とっくに彼のくれた熱は冷めていたけれど、それでも感覚だけは残っている。暖かいその感覚に集中すると、何故か胸がどきどきと跳ねだす。
街灯はぽつぽつとあるけれどそのどれもが明滅していて不安を煽られている気分になる。駅までの道のりは覚えているが、そこまできちんとたどり着けるだろうか。
勝手にいなくなってごめん、そう書き残しておくべきかと悩んだ。けれどそれは結局自己満足の範疇でしかなく、そんなことをするくらいなら初めから何も言わずにいなくなった方が潔い。そう思う。
道に迷いながらどうにか駅までたどり着くと、やはりそこには人がいた。あたしを探している人だろう。恐る恐る「すみません」と声をかけた。
その人は驚きに目を見開くと、慌てた様子でどこかに電話を掛け始める。それから数分後、車がやってきた。この田舎町には不似合いの光沢を放つ高級車。扉が開けられ、中からは昔お世話になっていた執事がすっと音も立てずに歩み出る。
「お嬢様、お探しいたしましたよ……例の少年は?」
「何のことかしら。あたしは一人でここまで逃げてきただけ。誰かと一緒に行動した覚えは、残念ながらないわね」
口調の変貌と言っている内容、どちらに驚いたのか。そこまではわからないが、とにかく執事は驚きの様子を隠せずにいた。
「……変わられましたな、お嬢様」
「二年近く家を離れていたんだもの。誰だって少しくらい変わるに決まっているでしょう?」
真面目で引っ込み思案だったあたしは意識して自分を変えてきた。人に近づかれないように棘を演じて、そしていつしかそれが本当のあたしのようになっていた。人に嫌いだと言ってみたり、つまらないと言ったり。そうやって意図的に人を近づけさせないようにしてきた。
「当主がお待ちです。家に、来ていただけますかな」
「ええ、そのためにここに来たのよ」
車に乗り込む。電車のシートとは違って、とても柔らかいものだった。このシートの感覚も実に二年ぶりかと思うと思うところがある。
「お嬢様、不躾になると思われますが……本当に、何も言わなくていいのですか?」
運転をする執事から再びそう尋ねられ、もう一度だけ考えてみる。
「……そうね。一言だけ」
「何と?」
「ありがとう、ごめんなさい、楽しかったよ。これだけ伝えてくれればいいわ」
「承知いたしました」
本心だった。
あたしの手を握ってくれて、ありがとう。
勝手にいなくなって、ごめんなさい。
天野といた時間は意外と、楽しかったよ。
そういう意味の言葉だ。わかってくれるだろうか。でもわかって欲しくないからそういう言い方をしたのかもしれないなと思う。わかってくれたら、そのときは天野に思わず頼ってしまいそうだから。突き放すつもりではないけれど、天野をあたしに巻き込み過ぎてしまった。これ以上はさすがに彼を巻き込みたくない。
「不思議。電車から見る景色とここから見る景色、同じはずなのに」
全く違って見える。時間帯の違いというわけでもない。確かに暗くてよく見えない。それだけじゃなくて、何かが足りない気がする。
「隣に人がいるかどうか、ではないでしょうか」
「いなかったけれど、そうかもしれないわ」
人と見る景色と一人で見る景色。今、あたしの隣に人はいない。一人で見るこの広大な山や川は自分の寂しさを強調されている気がしてどこかもの悲しい気分になる。
寂しさなんて久しく感じたことがなかったから、余計に。
「弟が倒れたって、どういうこと?」
執事に今の家の事情を聞くことにした。もしかしたら黙っていることが心苦しいのかもしれない。それを抜きにしても聞いておきたいことだった。
「そのままの意味です。段階を経て治療すれば完治するとのことですが、随分長い年月がかかるらしく……」
正直、血のつながりはないし、あたしを夜ああさせている原因の一つでもある弟に対して思うことは少ない。ただ一応嫌ってはいても家族なのだ。知らないところで死なれるというのは目覚めが悪い。
「すぐにどうこうというわけではないのね。それならよかったわ」
それでもそう素直に口に出せたのは自分でも驚きだった。
「それでも当主様はやはり心配だそうですよ」
「養子を取ったのにその養子も病気じゃあね。無理もない話でしょ。元々後を継ぐ予定だったあたしはこの有様なわけだし」
そう肩をすくめて見せると何とも言えない表情になった。確かに何も言えないのはわかるけれど、そこまで露骨に顔に出さなくてもいいでしょと思う。
気まずくてあたしから話を切り出せないでいると、とんでもない話を振ってきた。
「当主様曰く、お嬢様には転校していただくそうで」
「え……?」
「今の環境は家を継ぐのにはふさわしいとは到底言えない、とおっしゃっていました。少なくとも二学期中には転校手続きを済ませてS女学院に通わせる、と」
「……あんなところ、行きたくないわ」
思わず嫌悪がにじみ出てしまう。それくらいあの学校にはいい思い出がない。ずっとあたしを何かの要素のおまけとしか見てくれなかった人しかいない場所だ。それにこの時期の転校、再び何か勘繰られることは目に見えている。
「転校はイヤ。あたし、今の学校を結構気に入っているから」
「それは当主様にお話しください。私に話しても無駄ですよ」
「結構言うわね。その気はないとはいえ、後継ぎ候補ではあるんだけど」
「ご自分で言われた通りです。自分から辞めると言った人にまで払う敬意はあまり持ち合わせておりませんので。もちろん、当主様の娘という点において最大限の敬意を払ってはおりますが」
「そう。敬意なんていらないけれど、それはそれで少し傷つくものね」
窓の外を流れる景色は代り映えしない。こんな中で彼はずっと、十五年間ほど生きてきたのだなと思って、何で天野の昔のことに思いを馳せなければならないのだと首を振った。
しばらく口を閉じたままでいると、急速に眠気が襲ってくる。この二日ほど眠れはしたけれど疲れは溜まっていたようだ。目を閉じるとやはり手がすっと冷えるような感覚がある。今ここに手を握ってくれる人はいない。だから自分で強くぎゅっと握った。
車の窓から差し込む光で目が覚める。窓から見える景色は以前に見ていた景色に移り変わっていた。大きな住宅が並んでいて、どこか落ち着かない。今まで自分が暮らしていた町なのに落ち着かないのは、それだけイヤな記憶がよみがえるからだろう。
「起きましたか、お嬢様。もうすぐ家ですよ」
「家、ね」
家や家族は世間一般的な感覚によると温かいものらしい。あたしのイメージとそれは激しく乖離しているように思える。確かに温かい記憶はあるけれど、それが本当に熱を持っていたのか、あたしには判別がつかなくなっている。
「シャワーを浴びてくるわ」
「承知しました。では正午に、お嬢様の部屋の前にお待ちしております」
執事は別の場所へと向かう。おそらくあたしが見つかったことの正式な報告でもしにいったのだろう。あたしは大きく息を吐くと自分の部屋だったこの場所を見回した。
机と勉強道具、ベッド、クローゼット。今暮らしている寮と大差ない質素具合で、唯一部屋の豪華さだけが異なっていた。
「昔から変わってない、あたし」
引っ込み思案で弱虫な私は常に心の内側にいて、そこに踏み込ませないように他人を遠ざける。表面上は変わって見えただろう。しかし根本は変わっていないのだ。
浴室も随分と遠く感じる。さっと浴びて体を洗うだけに留めた。ドライヤーで髪を乾かして、人前に出られる状態にまで身だしなみを整える。
条件反射のようにやってしまう一連の行為は父という存在に縛られている自分を表しているようで、苛立ちと共に扉を開けた。宣言通り、そこには執事が待っている。
「お待ちしておりましたよ」
「別に迎えなんて来なくても行くわよ」
「前科がありますからね」
「……そうね」
父の部屋に入るのはいついらいだろう。幼い頃はそれこそ何度も何度も入っていた覚えがあるけれど、中学生になってからは入った覚えがない。もっと言うなら弟が出来てからだろうか。
執事が重々しい扉をガチャリと開くと父は椅子に座ってこちらを見ている。その目は二年前と比べても衰えずに鋭い目つきであった。
「失礼します」
扉を閉めると部屋にはあたしと父の二人だけになる。目線が交差する。何となく何を考えているかわからないではなかった。しばしの沈黙の後、重そうに父が口を開く。
「あさひ、呼び戻した理由はわかっているな?」
「挨拶もなしにいきなり本題ですか、お父様。久々の娘との再会なんですし、少しくらい感動を演出してくださってもいいんじゃないかしら?」
「そんなことをしてもお前は喜ばんだろう」
フンと鼻で笑う。確かに面白くない冗談だったかもしれない。
「明はもうダメかもしれない。だからお前に橘の家を継いで欲しいんだ」
「ダメって……治るって聞きましたけど」
「治ることは治るだろうさ。しかし再発のリスクを抱えた人間にこの家を継がせるわけにはいかない。お前は、精神はともかく身体の健康状態は非常にいいからな」
精神は、あの自殺未遂や夜の不安定さのことを指して言っているのだろう。
「だから、あの学校に転校しろって言うことですか」
「そうだ。S女学院は資産家や政界の子供ばかりだ。学力も通っている生徒の民度も今とは比べ物にならないだろう。お前にとってもいい学びの場になると思うんだが」
頭に冷や水をかけられたように、急速に心が冷めていく。父は本気でこの提案があたしのためになると思って言っているのだ。本当にいい生徒ばかりで、あたしにとっていい環境であると信じてやまないのだ。もしくはそう信じたいのか。
「……あたし、転校しない、から」
それだけ言って、あたしは父の部屋を逃げるようにして飛び出し、執事を押しのけて走る。自室に籠って鍵をかけた。呆気に取られたような目をしていた父の顔を思い出して、思わず笑みが湧き出てくる。
「あ、あははっ」
結局のところ、父はあたしのことなんて何もわかってはいなかったのだ。褒めてくれていたのも頑張れと励ましてくれていたのも、全て自分の後継ぎを育てるためのおべんちゃらにすぎない。数年越しに改めて現実を突きつけられればもう笑いしか浮かばなかった。
「折角手、握ってくれたのに」
もう手に熱は残っていなかった。手は自分でも驚くほど冷たくて、いくらぎゅっと強く握っても熱は戻らなかった。
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