13 叱咤

気を抜いた瞬間に寝てしまっていたようで、目を擦りながら体を起こす。そして無理なく体を動かせたことに違和感を覚えた。右手は──。

右手の先にいるはずの、橘がいなかった。

外か? と思い確認する。いない。ならばトイレか? さすがにそこまで追うわけにはいかないから他の可能性を考える。荷物はない。荷物を持ってトイレに行くとは考え難い。

靴もない。とにかくあらゆる橘がいるはずの痕跡が何もなくなっていた。

「橘……?」

忽然と姿を消した彼女の名前をぽつりと呟く。その声はどこにも届くことはなく、ただ湿った空気の中に溶け込んでいった。

一瞬放心したあと、すぐに荷物をひっつかんで外に出る。片づけなどしている暇はなかった。

「橘!」

名前を呼んでもそこにはいないというのに、叫ばずにはいられなかった。連れ戻されたのか自分の意志で出ていったのか、それすらもわからない。わからないが……。

「勝手に、僕の前からいなくならないでくれよ……!」

もう僕のせいで誰かの関係が壊れるのはイヤなんだ。殴って壊してしまった、あの関係みたいな最後を橘と迎えたくないのだ。

町が、元に戻っている感覚がある。それが示す事実からは目を背けたい。まだ確定したわけじゃないとあたり一帯を探す。当然、いるはずがない。駅に行く。いつも通り無人の駅がそこにあるだけだった。店に行って聞いてみてもそんな女の子は知らないと口をそろえて言う。

息を切らすほど町を駆けずり回って、それでも橘の手掛かりは一切つかめなかった。

どうして、なんて。言ってみてもいいのだろうか。こんな情けない話があるか。

戻ってきた秘密基地に倒れ込むようにして座った。心がざらついている感覚が気持ち悪い。荒いやすりで削られたみたいにゴロゴロとしている。焦燥から思わず頭を掻いてしまう。

同時にブブブブブ、と。

電源を入れていないはずの携帯から、電話を知らせる振動音が鳴り響いた。

イヤな予感は的中するためにあるのだろうか。僕のこういうイヤな予感が外れたことは残念ながらないのだ。

しばらく鳴り響いている携帯を見つめた後、覚悟を決めて電話を取る。

「……もしもし」

「もしもし。こちらは天野あいさんの連絡先でしょうか?」

聞いたことのない男の声。丁寧でとても物腰が柔らかい、老紳士のような声だった。まあ電話先の声などいくらでも偽れるから参考情報にしかならないが。

「そうですけど……あなたは?」

大方予想は付いていた。

「失礼いたしました。私、橘家に努めている者でございます。あさひお嬢様がいつも大変お世話になっております」

橘の家の人。つまり、そういうことなのだろう。

「お嬢様から言伝を頼まれております。何卒、聞き届けていただければと」

押し黙る。それを了承の沈黙と取ったのか、電話の向こうで老紳士は彼女の言葉を話し出す。


「『ありがとう。ごめんなさい。楽しかったよ』……以上です」


「それだけですか?」

「ええ、これだけです」

何も話さずにいると、それではと電話は一方的に切られた。ツー、ツー、と無機質な電子音が頭に響く。

「なんだよ、それ……」

ありがとうもごめんなさいも最後の一言も、全部自分で言って欲しかった。

橘に電話をかける。

『おかけになった電話番号は電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため、現在お繋ぎすることができません──』

逃避行はゲームセット。敗因は投降。文字にすればなんてあっけなくてバカげた結果だろう。その選択を選ばせてしまったのは僕だ。まともな逃走手段を用意できなかった。場所を確保できなかった。食事すらも満足にはいかなかった。そんな状態に置かれたら、誰だってそこから逃げたくなる。一緒に逃げているつもりで、その実彼女に逃げられてしまったというのは何とも皮肉だ。

「もう、僕はわからないよ……」

人の気持ちはわからない。ただそれだけの確信を得て、僕はうずくまった。

セミの鳴き声に包まれて、また誰もいなくなったこの場所で。



「あいくん!」

その声で意識が現実に引き戻された。まだ明るい。昼過ぎだろうか。

走ってくるのはたくみだった。どうしてここがわかったのか、何をしにきたのか等聞きたいことはあったが、それを聞くために必要な言葉が口をついて出てこなかった。

たくみの声を聞いたのは実に三日ぶりくらいだ。にこと笑うその表情は安堵だったが、次第に疑念へと変わっていく。

「ねぇ、あいくん。橘さんは?」

「……帰ったよ。ここにはいない」

「どういうこと……?」

「そのままの意味だよ」

ムッとしているたくみの顔を見て、どこか安心している自分に気が付いた。その自分はだんだんと心の中で自己主張をしてくる。

たくみは事情を何も知らない。もうどうにでもなれと思った。精一杯の笑顔を張り付け、殊更何も気にしていないことを装い、全力で言う。

「たくみには、関係ないだろ? 心配しなくても大丈夫だよ」

「っ、そうやって!」

「うぉ……」

胸倉をつかまれて立たされる。たくみの方が僕よりも身長が低いはずなのに、凄まじい迫力だった。そこまでおかしな演技をしたつもりはないのだけれど。何か癇に障っただろうか。

涙すら浮かべそうで、でもすごく怒った顔で彼女は言う。

「一人で抱え込まないでよ!」

ガツンと頭を殴られたような気がした。

「私、言ったよね。大変なときは頼ってねって」

それは橘の話を聞いたあとに、確かにたくみが言っていたことだった。大変なことがあったら頼ってくれと。昔みたいにはさせないとも言っていた。

それを忘れて、一人で勝手に動いてまた失敗しようとしている。もう失敗しているのだ。何てどうしようもないのだ、僕は。

「関係なくないでしょ!? 話せないなら話せないでいいからさ、一言くらい何か言ってよ!」

「……あまり巻き込みたくなかったんだよ」

「それ、橘さんも言ってなかった?」

「……」

確信を持ってそう聞かれる。咄嗟に答えに詰まってしまう。言っていた。『あたしの事情に天野を巻き込みたくない』と。それを聞いて僕は結局どうしただろうか?

「巻き込みたくないって言ってても、あいくんは橘さんに手を差し伸べたでしょ?」

それといっしょだよと続ける。

「ちゃんと話して! とりあえずこの三日間のことでいいから話しなさい!」

そこまで言われれば、もう僕に拒否権なんてあろうはずもなかった。

いや、この期に及んでまだたくみを言い訳に使おうとしている。そこまで落ちぶれてはいられない。

「……わかった。話すよ」

僕は確かに自分の意志を持った上でそう告げる。

それを聞いたたくみは怒りながらもいつものようににこと笑った。


「橘さんは家に戻りたくなくて、それで一緒に逃げていたの?」

「端的にまとめればそうなると思う」

橘の事情を話すことはやはり抵抗があった。しかしそうも言っていられない。家がとても裕福であり、それ故に後継ぎとしてのプレッシャーがあったとやや偽ってたくみには話した。

「他にも事情はあるけど、これ以上は本当に話せない……橘に悪い」

「うん、わかった。それで今日の朝に橘さんはいなくなっていたってことだね……」

そう言ってはぁ~、ととても大きなため息を吐いた。

「二人ともバカなのかな?」

「バカって、そんな言い方ある? 確かに考えが浅かったとは思っているよ」

「そういうことじゃなくてさ……もう、本当にバカじゃん」

二人とも本当に……と繰り返す。そんなにおかしな選択を取った覚えはないのだけれど、どうもたくみの目から見た場合は違うようだった。人の目から見た自分のことはまだわからない。

「わかったよ。わかりました。あいくんはどうしたい?」

「どうしたいんだろうね。僕もよくわかってないまま橘と逃げたから」

「そこをわかっていないことがダメだよ。そこをちゃんと考えて。わかったら言葉にして」

わかったと答えてから思案する。僕はこれからどうするべきなのだろうと。

そのためにはそもそも橘と一緒に逃げたのが何故かを考える必要がある。どうして僕は橘のことを放っておけなかったのだろうか。

それはおそらく、橘にも言った通り橘のことが好きだからだろう。この際好きという言葉の意味は置いておく。とりあえず僕は橘に好意があり、だから橘が傷つくような選択肢を取って欲しくなかったのだ。だから彼女と逃げるということを提案した。

結果的にそれが吉と出たのか凶と出たのかはわからない。今この場に橘がいないことを鑑みるに、どちらかと言えば凶寄りの選択だったのだと思う。

そして今、僕は橘がここからいなくなって、それでどうしたいと思っているのか。その答えは既に僕の心の中にあったけれど、中々認めがたいものだ。どうしても口に出すのは恥ずかしいし、たくみに聞かれているとなれば猶更そうだ。けれどたくみにここまでさせてしまっている以上、そんな羞恥心は捨て去るべきである。

「もう一度、橘と話がしたい」

ただそれだけだった。別に今生の別れというわけでもないのに、とにかく今会わないとすべてが手遅れになってしまいそうで、怖くて仕方がない。

ありがとう、ごめんなさい、楽しかったよ。

この言葉の意味をきちんと橘に確かめなければいけないと思っている。どういう意味でこんなことを言ったのか。どうしていなくなったのか。

「そうでしょ?」

僕の話を聞いて腰に手を当てて胸を張るたくみ。その顔にはとても頼りがいのある笑みを浮かべていた。


「それでどうするつもりなの? まさか手当たり次第に探すってわけにもいかないし」

「十中八九家に戻っているはずだから、まずは橘の家だ。一応聞くけど、知らないよね?」

「一年一緒だったあいくんが知らないなら私が知ってるはずないよ」

「だよな」

前途多難もいいところである。電話をかけてきた老紳士にも地域特有のなまりのようなものは感じられなかったし、精々手掛かりと言えば橘の話に出てきたお嬢様学校くらいのものだ。それすらも具体的な学校名はわからないと来ている。

けれど小、中、高とエスカレーター方式である私立の学校なんて日本にどれほどあるかという話だ。ここで粗方絞り込めるだろう。

「地域を絞り込んで、あとは大きい家を見つければ……」

「そこが橘さんの家である可能性が高いってことだね」

「そうなる。確実性は低いけどこれが一番じゃないかな」

総当たりよりはマシ程度の案が出たところで、再び携帯が着信を知らせる。着信先を見て、たくみに断ってから電話に出た。

「天野か。繋がらないから心配したぞ」

「はい、すみません……電源は切った方がいいかと思っていて」

「その判断は正しいな。あちらさんも見つけるのにはてこずったと言っていたぞ? それがなかったらもっと早く見つかっていたかもしれない」

「それで、電話を掛けて来た理由はなんですか?」

まさか本当に安否確認のためだけではあるまいと僕は踏んでいる。よい知らせか悪い知らせか。それとも情報提供か。橘が既に捕まっていることは知っているみたいだし、それ以上に何かあるというのだろうか。

「まずは一つ、君には知らせた方がいいと思ってな」

担任の声のトーンは変わらないというのに、どこかその声音に僕は妙な違和感を感じ取った。その違和感は現実として牙を剥く。

「橘は夏休み明けに転校するそうだ。元々通っていたS女学院にな」

それは。と思わず目を見開く。最悪の情報と求めていた情報が同時に入ってきて頭が混乱する。深く息をして落ち着こうと努力する。結果としてむせてしまった。ごほごほと言っていたらたくみが心配そうにこちらを見てくる。大丈夫だとジェスチャーで伝えて、次の先生の言葉を待った。

「大丈夫か? このまま話しても?」

「は、はい大丈夫です」

「君から橘に伝えたいことはあるか?」

「ありますよ。聞きたいことも伝えたいことも言ってやりたいことも、たくさんあります」

少し食い気味だっただろうか。しかしそんなことを気にしている様子はなく、担任はくくっと押し殺したような笑い声を出すと続きを話し出す。

「それを踏まえて二つ目だ。橘は転校を拒否している、とのことだ。どうしてかまではまだ聞いていないが何か理由を知らないかと私に連絡が来た」

「それ、言って大丈夫なんですか」

「よくはないだろうが、事情を知っていそうな人物に相談するのは当たり前のことだと思っているからなぁ。そこを指摘されても私が困るわけだが」

「……規律に厳しいだけあって、抜け道にも詳しいんですね」

「言ってくれるな、天野。ここまで私にさせた生徒は君が初めてだぞ? 手がかからないと思っていたがまさかここまで面倒ごとを運んでくるとはな。私の人の見る目も落ちぶれたか」

「本当に、いい先生を持ったなって僕は思っていますよ」

「それは嬉しいがね」

つまり、担任が口利きしてくれれば僕が橘に会える可能性があるということだろう。そのことをわざわざ伝えてくれたのだ。

「それでどうする? 事情を知っている参考人として、橘家にお呼ばれするか?」

そんな担任の好意を。僕は。

「そんなお呼ばれはまっぴらごめんです」

容易く踏みにじった。それこそが担任の好意に対する答えなのだから。

「それって隠ぺいというか、事情を知っている人を呼び出して口留めするってことじゃないんですか? 僕にはそう聞こえましたけど」

「……察しがいいな。いいのか? お金くらいなら貰えるかもしれないぞ」

「それよりも大事なことがありますから」

「よく言ったな。まあ歓迎はされないだろうが、気楽に行くといい。後の処理は任せておけ」

「……自分で言っておいてですけど、本当にいいんですか? すごく迷惑をかけることになるかもしれませんけど」

「生徒の尻ぬぐいをするのもまた、教師の役目だよ」

全部終わったら連絡をくれ、と残して担任は電話を切った。申し訳ないという思いと感謝で胸がいっぱいになりそうになる。それはたくみに対しても同じだった。ここまで来るのにだっていろいろなところを探して回ったと思う。

「終わった?」

おそらく漏れ聞こえていたであろう声から察したのか、たくみは真面目な顔をしていた。少し抜けた表情の多い彼女にしては珍しい顔だと場違いなことを思う。

「ああ。ありがとう、たくみ」

「橘さんの家、行くの?」

「行くよ」

「会えないかも」

「そのとき考えるさ」

「うん。あいくん、少しだけ変われたんじゃない?」

「そうかな。これでもまだ抵抗があるんだよ。橘に対しても清水に対しても、もちろんたくみに対しても。僕なんかが近づいていいのかなって」

「それでも近づきたいと思ったなら、もうそれは立派に変わっているってことだよ」

そう言って笑うたくみの笑顔は魅力的で、思わずこちらも笑ってしまいそうになるほどだ。そんな彼女が幼なじみで本当によかったと思う。

たくみには背中を押してもらってばかりだ。いつかと言わず、これが終わったらすぐにでも恩を返さないといけないなと決意を新たにする。

「ま、とりあえず一度寮に帰った方がいいかもね」

「そうするよ」

何をするにもまずは一度休む必要がありそうだった。

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