12 逃避行
もうすぐ自宅の最寄り駅に着く。橘は寝息を立てて寝ていた。久々に眼鏡をかけていない顔を見る。寝ていることも相まって別人のように見えた。やはり昨日の夜も寝られなかったのだろうか。僕を信用してくれるのは嬉しいけれど。
ブレーキ音がやはり気味の悪い音で思わず耳を塞ぎたくなる。その音で橘も起きたのか、顔をしかめながら眼鏡をかけた。
「着いたよ」
「うん……もっと早く起こしてくれればいいのに」
「触れないからね」
切符を切符入れに入れて無人駅を出る。山と川、田んぼ。舗装も追い付いていない道路。ひたすらに何もないこの町こそ中学時代まで僕の住んでいた場所だった。
「何も変わらないな……」
田舎というのは変化を恐れる。いわゆる昔はよかった、というのがずっと続く形だ。いい形に収まっていると信じているからこそ、変化を受け入れない。それは田舎のいい点でも悪い点でもあると思う。
「本当に何もないんだね。見渡す限り店が見えないって初めてかも」
「イヤなことがあったって以上に、この閉鎖的な感じがイヤだったのかもしれない」
「たまに来るには解放的だと思うけど……ずっといたら閉塞感があるのかもね」
この景色の広さは寮で暮らしているときには感じられなかった。ずっといたから逆に見えないものもある。当たり前になっているものほど見落としてしまうものだ。
「今のところ町に違和感はないし、まだ追いかけては来ていないみたいだ」
「あたしも見てみたけど見覚えのあるものはない。たぶんギリギリ間に合ったのかも」
現在時刻は午後三時、ここから家まで歩いて一時間ほど。それまでに先回りをされていなければいいが。
「最短で来ていたら間に合わないと思う。けど電車の遅れがあったから」
「急いだ方がいい?」
「体力は?」
「正直、結構きついかな。座っていただけなんだけど」
「ただの移動も体力使うからね。少し休もうか」
朝からここまでぶっ続けで移動してきている。さすがに疲れもピークに達するだろう。駅には一応待合室があり、そこのベンチに座ることにした。外からの光が差し込むとはいえ、若干薄暗く感じる。
「ペットボトルくれ。飲み物買ってくる」
「ありがと」
「何でもいいか?」
「うん……あ、やっぱり甘いもので」
「了解」
誰も使っていないのか、ほとんどゴミが入っていない箱にペットボトルを入れる。ガコンガコンと大きめの音が響いた。
「甘いものね」
自販機を見るとお茶、コーヒー、コーラ、サイダー、スポーツ飲料くらいしかない。この中なら、とサイダーを買う。橘はコーラよりもサイダーの方を好んでいたように思う。自分の分は素直にお茶を買った。コーヒーは涼しいところで飲みたい。
夏特有の熱気があるが、待合室は比較的マシだった。それでも汗が垂れてくるくらいには暑い。冷たい飲み物があるというだけでまだマシになろうというものだった。
待合室に戻ると橘がバテていた。カーディガンを脱いでいる姿は初めて見た気がする。いつも隠れていて見えなかった左手首にはリストバンドが付けられていた。あまり見るものじゃないなと自嘲する。
「本当に大丈夫? なんか死にそうに見えるけど」
「全然大丈夫じゃない……飲み物、開けて欲しい」
夜寝られない体質で早起きした上にここまでの移動だ。我が儘もいくらか許せる。
「ほい」
プシュッと音を立てて泡が弾ける。そのまま渡すとゴクゴクと飲み始めた。いい飲みっぷりだなとそれを横目に見ながら僕もお茶を開ける。飲むたびにトクトクと動く滑らか喉を見ているとどこか落ち着かなくて、お茶が盛大に気管の中に入り込む。
「げほッ、ちょ待ってごめんゴホッゴホッ」
「……大丈夫?」
「いやうんまあげほッ……ごほッ、うん大丈夫だよ」
しらっとした目で見られる。体力的にはまだ大丈夫にしろ、思ったより気疲れがあるのかもしれない。誰かが周りにいないか確認しながら、大嫌いなこの町に戻ってきているのだ。緊張する要素しかないな、と改めて思う。
十分ほど経ったのち、どちらから言うまでもなく出る準備を始めていた。ゆっくりしてはいられないが、休息を取らなければ結局ペースが落ちて同じこと。ならいざというときのために体力を回復させておいた方がいい。
「行こうか」
「うん」
駅を出てひたすら歩く。太陽が出ていないのが幸いだった。もしも日がギンギンに照っていたら体力がもっと奪われていただろう。
歩いて三十分ほどだった頃、道が入り組み始めるところでふと違和感を覚えて歩いているふりをしながらあたりをさっと見回してみる。杞憂だったのか、どこにも何もおかしいところはなかった。
「とっさに逃げるとき走りはキツイかもしれないな……それ以外に手段がないとはいえ」
「バスも一日二回しか通ってなくて驚いた。こんなところが日本に存在するんだね」
「それはさすがに言いすぎじゃないか?」
ドが付くほどの田舎なら割とどこに行ってもある。そういう場所は大抵バスが通っていないか、一日に一、二回ほど通っているだけの場合が多い。電車が通っているだけこの町はマシな方だとすら言えないだろうか。
「あらお嬢さん見ない顔だね。旅行か何かかい?」
たまに道行く人から声をかけられることもあった。緊張というより特性上橘はこういう応対が苦手なので必然僕が対応を変わることになる。
「はい。緑が多くて、素敵なところですよね」
「ここにはそれくらいしかないからねぇ……まあゆっくりしていきなさんな」
「ありがとうございます」
じゃあね、と言って手を振るおばあさんに手を軽く振り返してから歩き始める。
「覚えられてないの、天野」
「昔とは体格違うし、表情も意識して変えているから。印象だけじゃ気づかれない、と思いたいな。事実今は知り合いのおばあさんだったけど気づかれていなかったし」
あまりいい形でここを出て行っていないから、見つかって話題になることは極力避けたい。そういうわけで入り組んだ回り道をわざわざ選んでいるのである。人通りも先ほどのようにたまにしかない。そこは変わっていないことだった。
「気づかれないの、今はいいことだけど……悲しくならない?」
「寂しくないと言えば嘘になるかなぁ」
いくら自分が嫌っている町でも、住んでいる人みんなが嫌いなわけじゃない。特に知り合いだったあのおばあさんに忘れられているのは少しショックだった。認知症や他の原因があるとも考えられるけれど、それも考えたくはないことだった。
たった二年で、人の関係は容易く変わってしまうということを実感した。
「何か見られている気がするな……」
そう気づいたのはもう家も近くなろうというときだった。自分の足音と重なるように後ろから足音が響く。立ち止まるとその足音も同時に止まる。尾行にしては下手すぎやしないだろうか。僕程度の素人に感づかれるようなミスをずっと監視を続けてきた人たちが犯すだろうか。
「天野も気づいている?」
「これ気づかなかったらさすがに逃げる資格がないと思う」
わざと隙を晒して油断を誘っているのか、尾行は囮で本命は別なのか。何にせよ家に入る前にワンクッション置いた方がいいかもしれない……そう考えた矢先に動きがあった。
道の先に見える人物。一見すると普通の住民のように見えるが、少なくとも二年前まであんな人はいなかった。それだけなら引っ越してきた人で説明は付く。
その人物は中肉中背でこれといって特徴がない。しかし歩き方は速く、スマホに目を落としながら周りをキョロキョロと、道に迷っているような素振りを見せている。
その姿に違和感を覚えなかった自分に違和感を覚えた。
「あれが本命……なのか?」
警戒してまじまじと思わず見てしまう。目が合った。
しまった、と思ったときにはもう相手側はこちらに向かって走っていた。後ろからも駆け足の音が聞こえてくる。逃げ場がない。
「橘ッ!」
「うんっ」
走り出す。相手は荷物も何も持っていない。当然こちらよりも動きやすい。後ろに逃げたところで家が遠のくだけだ。なら正面突破した方が幾分か可能性は高い。
どうする? 横をすり抜けられるか? でも狙いは僕じゃなく橘だ。橘が捕まった時点でこの逃避行はすべて無意味になる。最悪僕が捕まってもいい。まずはこの状況を何とかしなければならない。
前に一人、後ろに一人。家も割れている可能性が高い。僕がここに来るとどうしてわかった? 誰にも言っていないし、調べただけなら僕が来るはずがないという予想が立てられるはずだ。橘も僕も携帯の電源は切っている。なんでこんなに早く先回りできる?
疑問が次から次へと湧き出てくる。その前にとりあえず目の前の眼鏡の男。
「邪魔だ!」
「ぐっ」
有無を言わさず肩から突進されて思わず怯む。直接当たりはしなかったものの倒れるくらいの衝撃はあった。その間に男は橘に接近している。橘に近づいている。
そして橘は突然人に近づかれると。
「……あ、いや」
逃げろなんて言っても動けるはずがない。僕が動くしかない。動け、起き上がれさっさとしろ。『逃げよう』なんて大口を叩いたのは誰だ。言ったならそれくらいやれ!
「橘に、近付くんじゃねぇ!」
こちらもタックルで相手の体勢を崩した。男は倒れ込むと派手にせき込んだ。人が少ない田舎、助けなんて呼んでも届かない。筋肉量もそう多くは見えない。上手くことが運べばこの場は逃げ切れる。その前に後ろからの追手を振り切る必要がある。
「橘!」
座り込んだ橘に思わず手を伸ばす。橘は近付かれることがダメだと知っているのに。
僕の手を見た橘は目を泳がせた。これじゃダメだと諦めて、ならばと別の言葉を探そうとする。言葉を尽くしている余裕はないけれど、それよりも立ち上がらせなければ。そう思って。
だから冷たいその手が僕の手の中にあると気づいて、はっとした。
腕を引っ張って起こす。橘が落とした荷物も拾う。そのまま前に走り出した。男が起き上がるのを確認する。思いっきり胸に肩をぶつけてやった。おそらくすぐに全力疾走するというわけにはいかないはず。
手を繋いだまま走る。走りにくい。けれど、離すわけがない。この手を離さない。
逃げている間だけは、僕が橘を守らなければならないのだから。
どれだけ走っただろう。とにかく気配がする度に別の方向に向けて走って、走って走って、とにかく走り切ったとき、後ろに追いかけてくる人の姿は見えなかった。
お互いに息を切らして地べたに座り込む。ぜぇぜぇと呼吸が追い付かない。橘には限界以上に走らせてしまった。普段から走っている僕がここまでキツイのだから、橘の負担はそれ以上のものだろう。息切れが凄まじい。座って、そのまま倒れ込むのを慌てて抱きかかえる。そのまま二人で息が落ち着くまでそうしていた。
呼吸が整ってきてから橘と手を繋いだままであることに気づき、慌てて離す。
「ごめん……」
「大丈夫。大丈夫だから……手、握ってて」
弱った様子で左手を差し出してくる。握らないわけにはいかなかった。
運動したばかりだというのに、やはり冷たく感じる。細くて長い指が僕の指とぶつかり、何だかくすぐったさがある。
「ここは……ああ、ここか」
周りの様子を確認して現在位置を把握する。山道を途中で横に入り、少し入り組んだところにある場所。そこだけは木がなく開いていて、そこに僕たちは作ったのだ。
「秘密基地、ね……」
〇
どれくらいそうしていただろうか。橘も呼吸や精神状態が落ち着いてきたのか、突然パッと僕から離れた。
「も、もうだ、大丈夫だから。ありがとう、手」
「手くらいで落ち着くならいくらでも貸すよ」
橘の頬が赤い。運動で上気した顔、というわけでもなさそうだった。今更照れるということもないだろうに。こうやって一緒に逃げている時点で一蓮托生みたいなものだ。そっちの方がよほど恥ずかしい事実だ。
自分で考えて、こっちも頬が熱くなっているのを感じた。ダメだ、冷静にならないと。
「一応、掃除したらここでも最低限寝泊りくらいはできるかな」
「見つかることは、ないの?」
「誰かが入った痕跡もないし、知っているのは僕たちだけだったから。よっぽど虱潰しにここら一体を探されたら見つかるだろうけど」
「じゃあとりあえずしばらくは安心ってことね」
先の話をすれば冷静にならざるを得ない。冷たい事実がそこにあるからだ。
「飲み物とご飯は……」
「500ml水のペットボトル四本、栄養ゼリー飲料四つ、カロリーメイト二つ……かな。持ってきた分は」
最悪の事態を想定して準備をしておいてよかった。どうせ家に着くからと慢心して持ってきていなかったら空腹との戦いが始まるところだった。食べられる野草なんて知るわけがないし、動物を捌けるような技術もない。そこまで切羽詰まった事態にはさすがにならないと信じたいが。
「いつまで逃げるかって問題でもあるけど」
少し考えてから橘は言う。
「お父さんが諦めるまで」
「それは随分と根気がいりそうだ」
明確な期限がないとなるとここでずっと過ごすわけにもいかない。ボディシートは持ってきたとはいえ、所詮はその場しのぎだ。女子である橘にずっと風呂に入らないことを強要するのは酷だろう。となるとやはりどうにかして家に戻る必要があるわけだが。
「そう。だから……頑張ってね?」
上目遣いで猫撫で声、カーディガンを萌え袖にしてしっとりとした瞳で見られると少しグラっと来るからやめて欲しかった。それが例え僕をからかうためのものだとしても。
「そんなぶりっ子しなくても頑張るよ」
「照れるから言わないでよぶりっ子とか。……あたしも頑張るから」
橘は自分の左手を握りこむようにしてぎゅっと掴む。我が儘で皮肉を言うことが多い橘だけれど、こうやって弱いところを見せられると敵わない。それに橘は顔が整っている。意識して意識しないようにしなければ。と、思う時点で意識しているということの証左だった。
僕は冷静に、冷静にと自分に言い聞かせた。
〇
午後五時現在。寮監室には今、一人の来客がある。私は彼女と向き合っていた。
「先生、橘さんとあいくんがいないんですけど……何か知りませんか?」
芹沢たくみ。とある事情でうちに転校してきた女子生徒だ。
大方の予想通り、連絡もなしにいなくなっていた二人が心配なのだ。昨日の夜までいた二人がいなくなれば誰だって心配だ。だがそれにしても芹沢は二人を、特に天野を強く心配しているように思える。彼には彼の、彼女には彼女の理由があるということにしておこう。
さて、どう答えたものかと思案する。誠意のない対応を見せては生徒の手本となる教師ではいられない。悩む素振りを見せた後、口を開く。
「知っているが、教えられない」
これが正解だ。
「どうしてですか?」
案の定芹沢は食いついてきた。言える範囲のことを芹沢には伝える必要がある。清水にも同様だ。逃げている二人の手助けくらいはしても文句は言われまい。
「これはある男の話なんだが……」
〇
昔作った秘密基地は空き小屋を改造したものだった。子供ながらにいろいろ調べながら作ったもので、意外と今でも朽ちることなく残っている部分もある。
埃が貯まっているからそれを適当に掃いてブルーシートを敷く。これで一応座れる、寝られる形にはなった。体は痛くなるがまあ仕方ないだろう。寝袋まで持ってきていたらバッグがいくつあっても足りない。
「今は七時か。結構長いこと逃げ回っていたのかな」
移動したり追われたり走ったり、時間の感覚が狂うことばかりした上に時計をこまめに確認していたわけでもない。時間が飛んだように感じる。体の感覚的には午後の五時といったところか。
「とりあえず飲もう」
「飲む」
栄養ゼリーを流し込む。栄養を取らないよりはマシだが、やはり胃に物を詰めたいという欲求がある。こんなことなら小学生のときにキャンプセットでも放置しておくべきだった。
「……意外とおいしい」
ちゅーちゅーと喉に流し込みながら橘は言う。普段こういうものを飲んでいる様子はないし、もしかしたら初めてなのかもしれない。
「疲れているからじゃないかな」
汗をダラダラと流して熱中症一歩手前くらいになったときには経口補水液がとてもおいしく感じるらしい。それと似たような現象だろう。一仕事した後のビールはうまいと担任もたまに言っている。それでいいのかと思わなくもない。
「高校に来てから初めてのことばかり。特に今日はそう。ド田舎の電車に乗ったり、鹿がぶつかったり、追いかけられたり、手握ったり、栄養ゼリー食べたり」
ぽつぽつと話す。普段はここまで話さないから、今はとにかく話していないと落ち着かないのだと思う。僕も同じようなものだった。
もし、非日常が彼女の本音を少しだけ引き出しているのなら。
もう少し落ち着いてきたら聞いてみてもいい、のかな? そう思う。
「僕も追いかけられるのは初めてだよ。自分の人生でこんな経験をすることになるとは思わなかった」
そんな考え事はおくびにも出さずに僕は答える。
「天野と近づいたからかもしれない。天野は普通じゃないから」
「……まあ僕の考えは少しズレている自覚は多少あるにはあるけど」
「言い方に不服がにじみ出すぎ。天野は普通じゃないしつまらないけど、つまらないところが面白いと思う」
「橘も普通ではないよね」
「天野と一応上手くやれてるから、そうなんじゃない?」
「あくまでも僕を基準にするか。寮の四人の中じゃたくみが一番まとも寄りだから、そこを基準にするのはどうだろう」
「どっちにしろあたしも天野も変って結論になるからやめよ」
「変でもいいと思うけどね。別に僕も橘も変になろうとして変になったわけじゃない」
「そう。普通に生きられればそれに越したことはない」
「普通は普通で、それこそ橘の言う『つまらない』っていうことにならない?」
「あたしの言うつまらないっていうのは、なんだろ。変わらないというか、何もないというか。あたしも適当に言っているから」
「口癖みたいなもの?」
「それに近いかも。昔からつまらないことばかりしてきたから、刺激的なことが欲しいだけ」
「そう、っていうのも口癖じゃない?」
「嘘、そんなに言ってる?」
「ついさっきも言っていたよ」
益体のない話が続く。ただ安心したいだけの言葉の羅列なはずだ。それなのに、この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。この逃避行ではそう簡単に安心できる時間は作られない。だからなのか、それとも別の理由があるのか。どちらにせよ、橘と過ごす時間は悪くないものだった。
昔みんなと過ごした場所で、今は橘と隠れている。皮肉なのかなんなのかよくわからない現実は静かにそこに横たわっていた。かつての僕らのようにならないために、僕はより一層頑張らなければならない。たくみにも出来るだけやってみせると宣言したのだ。男に二言はない……言うほど男というのを取り分け意識して言ったわけじゃないけど、一応。
会話が途切れたタイミングでそっと外を見る。虫の声が響いていて足音はわからない。だがそれはこちらが立てる音にも気づかれにくいということの裏返しだ。近づいてくる光のようなものも今のところはなし、と。
山の中だから木々の葉に隠れてはっきりとは見えない。しかしいつの間にか空は晴れていて、澄んだ星々が静かにこの町を照らしていた。星座の知識なんてデネブ、ベガ、アルタイルくらいのものだけど、綺麗だと感じるのに知識は関係ない。
そんな弛緩した空気が流れる中、それは唐突に訪れた。
「あ……はッ! う……」
漏れ聞こえる呻き声とばたりと横たわる音、慌てて小屋の中に戻る。
目をぎゅっと瞑って頭を抱えて、呼吸は荒い。明らかに普通ではなかった。
「橘、どうした」
「ごめんなさい、ごめんなさい、あたしが女だから……ごめんなさい」
その声は僕に向けられているわけでもなく、ただうわ言のように繰り返される。頭を抱えていた左手はガタガタと震えていて、それを右手で必死に押さえていた。
どうすればいい、と考える。病人の介護をしたことはあっても、こんな状態になった人の介護をしたことはない。そんな経験はしたことがない。
「橘」
名前を呼ぶ。聞こえている様子はなかった。肩を叩きながら呼んでみるとその手を思い切り払われる。薬、を用意したところで意味はないだろう。こんな状態で飲めるとは思えない。
落ち着くまで見ていることしかできないのか?
それは違うだろう。何かできることがあるはずだ。けれどそれがわからない。もどかしい思いで胸が張り裂けそうになる。目の前で苦しんでいる人がいるのに、手を差し伸べることすらできない自分が情けない。こういうとき他の人ならどうするのだ。
わからない。わからないから──。
ただ橘の左手を、ぎゅっと握った。
熱が消えたみたいに冷たくて、思わず離してしまいそうになる。震えは止まる様子がなく、ガタガタと僕の腕にまで振動が伝わってくるほどだ。
振り払おうとしてくるけど、痛くならない程度に強く握りこんだ。
そんな手を見て、離すなんて薄情な選択肢を選べるはずがない。
少しずつ、少しずつ。僕の体温が移っているのか、橘の手は温かくなってきた。
「女でも男でも関係ないよ」
思わず口をついて言葉が出る。
「僕は橘あさひっていう人が、好きだから」
ぴたりと震えが止まった。同時に顔を上げる。苦しさで顔を歪めていて、顔色は悪くて、冷汗をかいている。とても綺麗な表情だとは言えない。
でもそんな橘が、どんな橘だろうと僕は嫌いにならない。
「僕は橘のこと嫌いにならないから……ってことで」
しばらく俯いて、そのあと、橘はもう一度顔を上げて僕の目を見た。
「……なに、それ……ばっかみたい」
笑顔にはほど遠い、頬を釣り上げただけの顔だった。
でも僕にはそれが明るく強い、いつもの橘の笑顔に見えた。
「夜になるとだいたいこう。昔のことばかり思い出して、どうしようもなくなって」
ごめんと謝る橘に僕は「謝らなくていい」と返す。
「でも」
「とにかく今は休んで。体力を戻さないと、移動しないといけないかもしれないから」
「……わかった。ただ、あの、一つ、お願いしてもいい?」
「僕にできることなら聞くよ」
「手、もう一回握って欲しい」
それくらいなら、ともう一度握った。
「ありがとう」
そう言ってそのまま橘は目を瞑った。彼女が眠るまで僕は手を握ったままでいた。
穏やかな表情で寝息を立てる橘を見て、心からよかったと思える。この一瞬だけでも橘の助けになれたのなら、僕が今まで生きてきた意味もあろうというものだ。誰かのために生きるわけじゃないけれど、それでもやはり昔みたいに誰かを傷つけてしまうことはしたくないし、出来れば人を助けた方がいい。きっとそうだ。
手を放してそっと置く。ん、と橘が吐息を出したが起きる様子はなかった。
「本当に、無防備だ」
前から思っていたが、橘は自分のことをもっと意識した方がいい。図書室で寝るときだってそうだ。僕がわざわざ先生に「彼女、疲れているらしくて……本当にすみませんけど、起こさないでおいてくれませんか?」と言い含めている。近づかれるのは苦手だと知っていたから。
その気はないとはいえ、僕が変な気を起こしたらどうするつもりなのだろうか。しないと確信しているからそうしているのだと思うけど。
「しないと確信されているのもそれはそれで複雑だな」
いやまあする度胸はないから合っている。
「っていうか勢いで好きとか言っちゃったしなぁ……明日からどんな顔して話せばいいんだよ」
自分でもどういう形の好きなのか、よくわかっていない。でも橘に好意を覚えていることは事実だった。お互い勝手に話して勝手に黙って、というよくわからない距離感が心地よかった。踏み込まない、踏み込ませないというのはもう違うが。
踏み込み過ぎている。後戻りのできないところまで、お互いに。
それでも橘は変わらなかったし、僕もそう変わることはなかった。だから別に踏み込んだっていいのだと思う。ダメだったらその足跡を消してしまえばいいだけだ。一歩を踏み出したということを心に抱えていればそれでいい。
結局はなるようにしかならないのだから。
ジジジジと鳴くセミの声に、うっすらと鈴虫の声が混じっている。
夏の終わりは近い。
朝、薄汚れた窓から差し込む光で目が覚める。時計を確認すると朝の六時であった。いつの間にか僕も眠ってしまっていたようだった。固い床で凝り固まってしまった体をほぐすようにしてストレッチをする。さすがに走るという日課はお預けだった。
しばらくそうしていると腹の虫が鳴き始める。ゼリーと水だけしか胃に入れていないからさもありなんという感じだった。さっと動いて何かしら固形物を買ってくるということをしてもいいのだけれど僕が見つかるリスク、橘を一人にするリスクを考えれば自然とそれはないという考えに至る。
今のところは我慢だ。あと今日一日を乗り切る。そしたら動こうと決めている。さすがに三日連続ここにいるのは食べ物も精神状態も持たない。橘が寝ている間に着替えを済ませてゼリー、飲み物も用意しておく。
手持無沙汰な時間が続くと体を動かしたくなる。いつもやっているラジオ体操をやって気を紛らわせていた。もし橘が起きなかったらどうしようか、という不安を忘れるためでもある。あれだけ顔色が悪かったのだから、少しくらい長く寝ても何も思わないどころか、むしろ安心するくらいだ。だけど、それでもやはり起きて声を聴かせてくれないと不安になる。このまま死んでしまうのではないかという謎の不安が鎌首をもたげる。
外は完全に日が昇り時折車が通る音が聞こえるようになった頃、時刻にすれば午前九時に橘は目覚めた。んにゃんにゃとよくわからないことを言っていて、正直かわいいと思ってしまう自分がいることを否定しきれない。
「橘、おはよう」
そんな自分を誤魔化すように努めて冷静に朝の挨拶をした。
「おはよう……? 天野?」
「何で疑問形なのかはさておき。とりあえず水飲んで顔洗ってご飯食べて」
「ん? うん……」
朝が弱いというのは本当のようだった。僕が寝ている間に起きていたのでなければ睡眠時間は足りているはずだし、単に寝起きがあまりよくないのだろう。手も冷たいので低血圧なのかもしれない。
「ああ、あたしちゃんと寝られたのか……」
栄養ゼリーを流し込みながら少しずつ意識がはっきりとしてきたようである。
「割と穏やかに寝ていたと思うよ」
「……寝顔見たの? 最悪」
顔をしかめさせたので慌てて弁明をする。弁明というか理由を話すだけだが。
「あれだけ様子がおかしかったから心配だったんだよ」
「冗談だから。さすがに落ち着かせてもらった人にそんなこと言わない」
改めてありがと、と言われると「いや、僕はそんな何もできなかったけど」と変な答えを返してしまう。意識するなと言い聞かせて、落ち着いて話をするように心がけるようにした。
とりあえず着替えるとのことだったので小屋の外に出る。山の中にあるおかげかそこまで暑さを強く感じない。思いきり息を吸ってみると気持ちよかった。都会もこれくらいの緑があればもっと気持ちいいのだろうけど、そう簡単にはいかないか。だいたい土地はどこにあるという話だ。
「戻ってきて」
しばらく待っていると橘から声をかけられたので小屋に戻る。橘はジーンズにTシャツ、その上から薄手のパーカーを羽織っていた。動きやすい服というコンセプトだろう。いつでも逃げられるようにしているというわけである。
お互いに朝の行動が終わったところで、話は本題に入ることになった。
これからどうする? という話である。
「ずっとここにはいられないし、たぶん今日が限界だと思っているけど」
「そうね。水はあるけど食べ物はない」
わかりきっていることだ。今日の夜までここにいて、明日から。一拍だけ考えて言葉に出す。
「選択肢は三つくらいかな……」
「聞かせて」
「一つは僕の家。確実に場所がわかっていて、なおかつ両親がいるから安全ではある」
面倒ごとは起こすなという言いつけを守れていないから多少のお叱りは受けると思うが、別にそれくらいで橘を匿えるのなら何も問題はない。
「問題は家に既に張り込まれているだろうことと、親もこの騒動に巻き込むことになること、かな」
ここに追手がいるということ自体、僕が家に戻ってくることを予想されていたことの証左である。だから家には張り込みがいるとみて間違いない。いつまでいるかはわからないが、少なくとも数日はいるだろう。
橘の家が金持ちといっても、どのくらいの規模なのかはわからない。こうして追手を動かせるレベルであるということだけ。ただそんな金持ちの家を敵に回すということが、両親の仕事にどれだけ悪影響を与えるかはわからない。そこまでの迷惑はかけられない。
「そうなると天野の家に行くっていうのは難しいね」
「考えていた通りにはやっぱり行かないなって痛感しているよ」
大人がかなり本気で動いている。子供の浅知恵では完全に欺ききることはできない。とりあえずここに身を隠せているのは偶然の産物とみていいだろう。担任が何かしら誤魔化しをいれてくれていると信じたいが、そこまで期待するのもよくない。僕たちが出ていくのを見逃している時点で担任はかなり心証が悪くなっているはずだ。
「二つ目は安いホテル。とりあえず風呂に入ることができて、精神的には安定すると思う」
「問題は、家と同じ?」
「そう。多分ここら辺りのホテルは既に確認されていると思う」
あとホテルに行ったら正気を保てる自信がない、という非常に情けない理由はさすがに教えられなかった。別部屋にすればいいのだが、そうなると橘の部屋にだけ突入されて僕は放置という事態にもなりかねない。
「じゃあ、三つ目って何?」
期待の籠った目で見られると困る。全くもって現実的で仕方がない案なのだから。
「諦めて投降する」
「……そう。その程度なんだ」
「冗談だから、ごめんって。でも、それが一番どこにも迷惑をかけないと思う」
一応これは本音の一つだ。橘が諦めてしまえばこれ以上逃げることもないし、担任も責められることはないし、誰にも迷惑をかけることはなくなる。それを橘が望むのなら、今すぐにでもできることだ。そういう意味では最も現実に即した選択肢である。
逃げることは僕が提案したとはいえ、それを即承諾したのは橘だ。橘も逃げたいという気持ちがあったのだと思う。僕がそう思いたいだけかもしれない。
「そう……ね」
「そうならないように、二人で四つ目の選択肢を考えようっていうのがこの話の議題」
僕だけじゃ限界があるから、と言うと橘は首を傾げる。
「天野なら、大丈夫なんじゃないの?」
「本気で考えてさっきの三つくらいしか思い浮かばなかった人間のどこが大丈夫なんだよ」
天然ボケは大概にして欲しい。ただでさえ突っ込むような余裕は持ち合わせていない。
「とにかく、ひたすら考えては潰してっていうのを繰り返すしかない。最後に残ったものをそのまま今後の行動として採用する……っていう感じでいいかな?」
「いいと思う」
橘はこくりと頷きながら言う。含むところはなさそうなので、このまま話を進める。
話している間に時間が過ぎていくのがとにかく怖かった。だから僕たちは間を埋めるようにして考えを話し合い続けていた。
〇
私、芹沢たくみは実家のあったこの町に帰ってきています。
理由は至極単純で、幼なじみと友達がこの町に来ているかもしれないからです。
先生からあいくんの話を聞いたときは驚いたけれど──。
『その男はどうもある女の事情を知ってしまったみたいだ。それを聞いて、居ても立っても居られないと重い腰をようやく上げたらしい』
『何の話ですか?』
『で、その男はお姫様が連れ戻されると聞いて、黙っていられなくてな。一緒に逃げようと、そう言ったわけだ』
『……ふーん。そうなんだ』
そんな感じで先生の口から語られる胡乱な話を繋ぎ合わせて、おそらくあいくんが橘さんと何かしらの事情で行動を共にしていると推測しました。先生にいくら聞いても『答えられない』の一点張りだから、自分で二人の場所を探すしかなかったのです。
あいくんならどこに行くだろうとひたすら考えてみたけれど、たった二年であいくんは随分と変わっていたからかそう簡単には見つかりませんでした。昔のあいくんを基準にして考えていたら見つかるはずもありません。
橘さんの行きそうなところも考えましたが、まだまだ付き合い始めてから日の浅い彼女のことはわかりませんでした。
そして考えたり探したりして過ぎた三日後、一つのことに気づいたのです。
もしかしたらあいくんと橘さんは、誰かに追われているのではないか? と。
どこかに出かけるだけなら先生があそこまで曖昧な言葉、言い方をする理由がありません。あいくんや橘さんがわざわざ先生を口止めしてまで動こうとする理由がありません。何かしらの理由で必然的に、そういう行動を取っているのではないか、と。
そこに気づいてからはトントン拍子でした。
行きそうなところを探しても絶対に見つからないでしょう。裏を掻いてくるはずです。絶対に彼が行かないはずの場所に行けば、きっとそこにいるでしょう。
そう考えたとき思いつく場所は一つしかありませんでした。
「私たちの町……」
ド田舎と呼ぶのがふさわしい、とんでもない田舎町。私たちが暮らして成長した町。イヤなことがあった町。あいくんはそこに帰ることを極端に避けていました。おそらくそこに行けば彼と橘さんがいることでしょう。
何か協力がしたい、と私は思っています。
善は急げ、私は早速帰省することにしました。
〇
いい案に恵まれないまま時間だけが経っていた。実際ここに来たことがバレている時点で詰みに近い状況なのだ。この町から出るルートは限られている。そこを封鎖して、あとは駅に見張りを立てるだけで僕たちはこの町から出られない。
この秘密基地に着いてここなら見つからないと下手に安心してしまったのが失敗だったと反省している。懸命な判断が出来たのなら、どれだけ無理してでもこの町を出るべきだったのだ。
しかし現実問題としてここに僕たちは留まってしまっているわけで、この状況を招いてしまった僕には打開しなければならない義務がある。
「考えれば考えるほど気が滅入ってくるな……」
栄養ゼリーを胃に流し込む。贅沢は言っていられないけれど、せめて別の味くらいは用意すべきだったと思う。さすがに毎食これは飽きる上に腹の調子もあまりよくない。固形物は固形物で口の中の水分が奪われるから困る。それでもと思わざるを得ない。
「本当にいろいろ思いつくんだね、天野。それを全部自分で否定してるところが何とも言えないけど」
橘も案は出すが、大抵は僕が出してそれじゃダメだと僕が否定する形で進んでいた。これだけ聞くと独りよがりの極みみたいな人間だが、話し合いの形式で進めているのでそうではないと言っておく。
「何も進まない。どうすればいいのかもわからない。正直お手上げに近いな……こっちから能動的に動こうとするともうダメな状態だ」
大げさに肩をすくめてみせると、橘は顔を伏せてしまう。
「……ごめん、なんか」
「だから、謝らなくていいって。僕がしたくて勝手にやってることだからさ。最悪僕を売ってくれても構わないし」
つい不安を煽ってしまった。僕は橘に自身のある姿を見せておかなければならないというのに。橘の精神が乱れるのはよくない。慌ててことさらに明るい声を出してみたが、橘にはバレバレだったのかくつくつと笑われてしまった。
「そこまで身勝手だと思われているのは心外」
「そんなことしないってわかっているから言っているんだよ」
軽口を言い合える程度の心の余裕はお互いにあるようだった。
ガサガサと時折周囲が騒がしくなる。狸や鹿のような動物が近くを通り、その度に人じゃなかったと安堵する。車の通りはそうないが、たまに人の足音が近づいてくるような音が聞こえることがあり、とてもじゃないが落ち着いてはいられない状態だった。
既に夜の帳は降りているというのにこれでは寝られそうにない。寝られないという方が正しいか。
『左手を握られると安心するから』
そう言って僕の右手は橘の左手へと繋がっているから上手く身動きも取れない。昨日みたいに二人とも完全に寝てしまったら見つかった際に抵抗すらできない。見張りの意味もかねて僕だけでも起きておこうということだった。
橘には相談せずにおいた。言えば橘はおそらくなんだかんだと言いながら無理に起きておこうとするだろうから。
「何も出来ていないな、僕は」
そう独りごちる。僕しか起きていないから一人なのは当たり前だが。
どうしようもないほどの無力感が胸を突き抜けていく。ただの学生である僕にできることなどたかが知れていて、こうして手を握っていることくらいしかできない。逃げようと提案した場所は先回りされ、こうして袋小路に追い詰められている。
「橘のはともかく、僕の携帯は使っていいものなのかな」
そろそろというか、最初からわかっていて目を背けていた。これは僕一人で背負いきれる問題じゃない。誰かに協力をしてもらわないと解決できないことだ。けれど僕は今まで人に近づかないようにしてきた。
「自業自得じゃねぇか……」
頼るべき人がいない。思わず頭を抱えそうになるが、そうしてもいられない。
頼ることができないのなら自分で何とかする他にない。無理を通すということだ。
無理を通して無茶をやって、それでもダメなら土下座でも何でもする。そこまでして彼女を何とかしてやりたいと思う自分がいて、それに驚く。
「何にせよ……やるしかないからやるんだよ」
そう決意して見張りを続けていた。
橘がいなくなったのは翌朝のことだった。
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