11 逃亡

夏休みも残り少なくなってきている。今日もまた同じ時間に目が覚める。いつ寝てもこの時間なのだから、体が覚えているとしか思えない。上手く眠らなくとも少し走ればなんとかいつもと同じ体調に持っていける。

いつもと同じ時間に外に出ると、空模様が気になった。一面の雲、朝特有の明るさはなりを潜めて薄暗い。今にも雨が降り出しそうな気配がしていた。天気予報では晴れだったけれど、案外当てにならないものだ。

ストレッチを終えいざ走り出そうとしたときに、ふと視線を感じた。そちらを見ると校門の近くに橘がいる。制服を着ているように見える。一体こんな時間から何をしているのだろうか。

「橘、おはよう」

近づいて声をかけると、「うわ」という表情をされた。そこまで露骨に表情に出されると少しだけ傷つくが、その露骨さに違和感を覚えた。そもそもこの時間に橘が起きているのはおかしいのだ。学校があるわけでもない。夏休みが終わりかけとはいえ、それが橘の行動に影響するとは思えなかった。

「おはよう天野」

そうやって挨拶を返す橘は荷物を持っていた。結構多い。というより、部屋にあるものすべてではないだろうか? 旅行? ありえないと首を振る。もう休みは終わるのだ。旅行に行く暇など本来ないはずで。

「その荷物、何?」

イヤな予感がした。予感というより、半ば確信をもって橘に尋ねる。

「家に帰るのか?」

「……こういうときだけ無駄に察しがいい」

人の痛いところを見ると突きたくなってしまう癖。言い換えれば、それは人の見抜かれたくないところをすぐに見つけてしまうということでもある。その癖に感謝をしたのは初めてかもしれない。

「どうして、今更」

「弟が倒れたから」

簡潔で、ただそれだけの理由だった。それだけで納得できてしまう自分が心底イヤになる。納得なんてできるわけがない。橘だって絶対に納得していないだろう。それなのにどうしてそれに従うのか。

「違う、だろ。それはおかしい」

「後継ぎの弟が倒れたからあたしが呼び戻されるのは当たり前じゃない? 何がおかしいの? それともおかしいなら、天野がどうにかしてくれるの?」

「いや理屈としてはそうかもしれないけど、それは何というか、ダメだろ……」

自分たちからこの学校に追いやっておいて、息子が倒れたからはいやっぱり戻ってこいというのはいくら何でも都合がよすぎる。そんなものに従う必要はない。

だけど、これは橘の家の問題だ。僕が何か言えることではないとわかっている。わかっているが、それはどうにかなるのか? どうすればいい?

そもそも橘がここに帰ってこないというわけではないはずだ。寮を出るというのなら担任が何も伝えてこないというのもおかしい。だからまだ寮を出るのは正式な決定ではなく、これは一時的な帰宅なのではないか? 様々な可能性が頭に浮かんでは消えていく。

「天野、今までありがとうね。話聞いてくれたり、気使ってくれたり、他にもいろいろ」

橘は「本当に、感謝してるんだ」と続ける。

「あたし、今まで学生らしい学生生活送れなかったからさ。高校だと天野といれて、まあなんだかんだ楽しかったよ。ファミレスとか、映画館とか、ボウリングとか」

「今生の別れみたいなこと言い出すんだな」

「そうなるかも」

「冗談のつもりだったんだけど」

「そう、冗談。だからさ」

橘は僕の目を見た。僕も橘の目を見ることになる。

眼鏡越しに見える大きな瞳。ともすれば眼鏡に触れてしまいそうなほど長いまつ毛。奥に見えるのは彼女の目を見つめる僕自身の姿。

僕の勝手な思い込みかもしれないけれど、橘の瞳は助けを求めているように見えた。見えてしまった。それを見てしまったのだ。

僕はどうすればいい? その答えを僕は持っている。既に見つけている。それが例え時間稼ぎにしかならない上に、ただの自己満足で終わるものだとしても、答えは僕の中にある。

正解だとは思わない。けれど、僕に出せる選択肢はこれしかなかった。

「逃げよう、橘」


元々趣味もない人間だ。持っていくべきものは着替え、金、飲料くらいでいいだろう。何箔かできる金があればそれで十分だ。普段から金を使うことを控えていてよかったと思う。無趣味がこんなところで生きてくるとは、人生何が起こるかわからないものだ。もし仮に僕の趣味がギターだった場合、今こうやって用意できるお金は半分ほどに減っていただろう。

「あとは……担任」

担任であり寮監である先生。彼女を納得させるだけの材料をこの数分で考えなければならない。さすがに黙っていなくなれば捜索願など出される可能性がある。それはできれば避けたい。警察沙汰は避けなければまた親から嫌味を言われてしまう。

「先生、今大丈夫ですか」

考えている時間はない。やることを決めたらさっさと行動する。

「天野か。今日も朝が早いな。とはいえ、今は普段なら走っている時間のはずだが?」

寮監室に入るのは久しぶりだ。寮の決まりを意識せず破ってしまったときに一回呼び出されたきりである。そのときの記憶は苦々しすぎて思い出したくもない。ここはそういう部屋だ。

「少し事情があって。あとお願いがあります」

「なんだ、言ってみなさい」

「外泊の許可をもらいにきました。橘もです」

橘は今自分の準備をしている。女子の準備は時間がかかるだろう。薬も用意しておかなければならないだろうから、その間に僕は手続きを済ませてしまおうというわけだ。

「……自分が何を言っているのか、わかっているのか?」

「女子と外泊させろと言っています」

「お互いに外泊と外泊ならそういう疑いもなかっただろうに……君は正直だな。私が橘の家から何か知らされている、という可能性は考えないのか?」

「考えましたけど、先生って生徒思いなので。橘とか僕の不利になるようなことはしないんじゃないかなと、信用してみたわけなんですけど」

おそらく担任はすでに橘が家に帰るということを知っていたのだろう。知った上で黙っておかなければならなかった。その理由まではわからないけれどそこまでなら誰だってわかる。

担任は険しい表情を見せる。生徒を淡々と叱るときに見せる恐ろしい表情だ。顔立ちが整っているだけに、その顔は迫力があって正直体が震えそうになる。

担任は淡々と告げた。

「そんなものは却下だ」

「……まあ、そうですよね」

教師という立場から不純異性交遊を推奨するようなことはできない上に、親から家に戻って来いという指示が出ている。その双方を無視してしまうことは規律に厳しい担任にはできない。

「……と言いたいところだが」

「え?」

「私は芹沢に君の連絡先を勝手に教えてしまった。その失敗、それを持ち出されると私も君に強くは出られない、というわけだ」

「それは、そういうことでいいんですよね?」

「私からはこれ以上言えないよ」

険しい表情はいつの間にか柔らかい、いつもの担任の表情に戻っていた。教師という立場からそれをしていいという許可は出せない。しかし、それを咎めもしない。黙認、ということだろう。それさえ貰えれば十分だった。

「ありがとうございます、先生」

「まあ、あれだな。大人になったらビールの一本くらい奢ってくれればそれでいい。……頼んだぞ」

「精一杯、頑張りますよ」

寮監室を出る。「失礼しました」と言う。そのときに見えた担任の顔は、やはりかっこいいものだった。本人はかわいく思われたいみたいだけど。

「無理だよな、だってかっこよすぎる」

かっこよくて生徒思いで頼りになる、最高の先生だ。


「準備はできたけど、どこに逃げるの? 当てはなにかあるわけ?」

現在時刻は七時。準備を済ませた橘と僕は学校の裏門の方に来ていた。部活帰りの生徒が利用する出口で、この時間帯に使われることはない。ということは逆に言えば目立つということなのだが……正門から出てすぐにお縄になるよりはこっちの方が延命できると踏んだわけだ。

橘からの質問にはこう返すしかない。

「あると言えばある」

「曖昧だ」

「そりゃ金持ちの親から逃げた経験なんてないんだから曖昧にもなるよ」

フィクションなんかで見たことはある逃避行。金を持って荷物一つで逃げ出して、なりゆきで何とか問題が解決したり、主人公が裏で手を回していたりする。専門の知識があるわけじゃない、多少体力があることくらいしか取り柄のない僕がこの逃避行の主役となっていいのだろうかという不安はある。

しかしやるしかない。橘の事情を知って、知った上で見て見ぬふりをするような真似はできない。あのとき衝動的に殴ってしまったように、今も衝動的にこうして逃げることを提案している。殴ったのは彼女のため、じゃあ逃げるのは?

誰のためでもないかもしれないな、と思う。

曖昧な返事に対しての橘の言葉は辛辣だった。

「じゃあ言っておくことがあるんだけど……あたしが出かける度に監視が付いてたの、知ってる? 知っていてそれなら随分な自信だとほめてあげるけど」

「……視線をたまに感じるのはそういうことだったのかぁ」

僕の自意識過剰が生み出した勘違いだとばかり思っていたけど、本当に見られていたとは。っていうことは昨日の、橘と出かけている様子も見られていたのだろうか。

いやとりあえず羞恥心は置いておいて、今考えるべきは監視が付いているということである。監視下でそれを振り切りながら逃げて、目的の場所までたどり着けるのか。全く持って、というか話を聞いているだけでそんな自信はなくなってきた。

「聞けば聞くほどすごいな……わざわざ監視までつけておくなんて」

「今回みたいな万が一が起きたとき、あたしというスペアすらいなかったら困るから」

「そういうこと……」

橘から聞く限り、そこまでひどい親だとは思えなかった。少なくとも途中まで、父親も母親も彼女のことを見ていたような気がする。けれど途中で何かが狂って、今はこうして橘を自分たちの事情で拘束している。聞いた話と現実でイメージが乖離している。そこに何か鍵があるのかもしれない。

「とりあえず公共交通機関を使うつもりだったけど……少し変えた方がいいかな」

「まだ使えると思う。逃げたってわかるのは待ち合わせに遅れたその瞬間からだから。そこからはたぶん近くの駅、バス停とかは抑えられていると思った方がいい」

「なるほど。じゃあ監視は?」

「監視は外出届が出て、担任から親に連絡されて付くもの。今はついていない」

「さっきの脅しじみた監視が付いてるっていう報告はなんだったの?」

「その方が緊張感、出してくれるでしょう?」

くつくつと笑う橘。振り回される僕の身にもなって欲しい。まあ今こうして逃げようとしているのは、僕の提案なのだけれど。

「それで、目的地は?」

真剣な目をして橘は聞いてくる。おふざけはおしまい、ということだろう。ならばきちんと答えなければならない。逃げるための当て。

逃げ込む場所はイヤな場所。僕が絶対に行かない場所。正直、というか高校卒業しても帰るつもりのなかった場所。

「僕の家」



真っ先に思い浮かんだのはホテルだった。僕が真っ先に思い浮かぶということは相手側も想定しているに決まっている。よってこの案は却下だった。よしんば未成年では入れない、いわゆるそういうホテルに泊まったとしても同じことだろう。それに緊急とはいえ、女子とそういうところに入る度胸は僕にない。

次に思い浮かんだのは野宿だった。これも難しい。僕も橘もおそらく高校生にしては大人びた見た目をしていると思う。だが高校生にしては、だ。例えば公園で寝ていたら、そうでなくても夜に出歩いているだけで深夜徘徊、警察職質、そのまま家へという予想図が見える。

ならば見つからない山に籠るか? それもできない。スマホで調べ物ができるとはいえ、素人の感覚が山に通用するはずがない。それにスマホは通信を行う。その発信源を特定されないとも限らない。スマホに頼る作戦は使えない。

あれもないこれもないとひたすら選択肢を潰して、僕という人間が考えた上で最も行きたくない場所が最後に残った。僕について調べが進んだとしても、その調べが進めば進むほど僕が地元に帰りたいと思っていないことがわかるはずだ。

だから断腸の思いで地元に戻る。家に戻る。別に親が嫌いなわけではない。地元が嫌いなわけではない。ひたすらにイヤな思い出しかないから戻りたくないという、しょうもない理由だ。

たくみから言われたように今と向き合うために、僕は過去と向き合う必要がある。ただそれだけのことだ。それだけのことで橘の安全を確保できるなら、僕はそうする他にない。

「遠いね、天野の家」

「遠い場所を選んだからさ。ほら、自立したくてね」

田舎の電車。自動改札などなく、切符売り場があるだけの無人駅から乗った。ガタゴトと揺れながらゆっくりと海岸沿いを走る電車から見えるのは当然海。

普段なら綺麗な青色に染まっている水面は、今は空模様を映して灰色になっていた。

「嘘でしょ、それ……あたしは話したのに、天野は話してくれないんだ」

そんな窓越しの景色を見ながらぽつりと橘がつぶやく。僕はそんな橘を横目に見ながら答える。

「話して欲しいって言えば話すよ」

「話したくないんでしょ?」

「でも話さないのはフェアじゃないって思っているから。自己満足だけど話させてもらおうかな。本当に、自分勝手な話なんだけど」

仲が良かった五人組、いじめ、転校、暴力沙汰……という話を少しだけ端折ってから説明した。全部話していたら目的地をすぎてしまうかもしれないと思ったからだ。

そんな僕のくだらない身の上話を聞いた橘は、きょとんとしていた。その少し間抜けな顔からこんなことを言い放つ。

「天野、悪くないじゃない」

「たくみと同じことを言うんだね」

「悪いといえばまあそのいじめをしていた人だろうけど……天野はただその人を殴っただけでしょう? なら別に関係が壊れた原因は天野じゃないし、どうせそんな人と仲直りしたってまた諍いが起きるだけだとあたしは思う」

「そう言ってもらえると助かるよ」

第三者から許しをもらえたところで、自分が自分を許せていないのだ。たくみと話もした。けれど、それでも、どうしたって気持ちは中々割り切れない。

「もしかして天野、意外と繊細なの?」

「違うと思うけどなぁ……」

その後は他愛のない話をしていたように思う。そんな他愛のない話の中から間違い探しのように、僕は橘の姿を見つけようとしていた。ただの会話、そんな中に人の本質が現れるはずもないのに。

直接聞けばいいのだろうか。わからない。

数駅ほど揺られたところで、電車が突然大きな音を立てた後急停止した。ブレーキ音が甲高い悲鳴を上げている。そういえばこんな音だったなと懐かしく感じた。

「な、なに? どうしたの?」

おそらくこういう事態に遭遇したことがないであろう橘はひどく動揺していた。珍しいと思ったが、もしかするとこちらが地なのかもしれない。普段は気だるげで無気力、しかし言葉が強いのは防衛状態なのだろう。威嚇することで自分を守っているのだ。

とりあえずこの状況から予想されることを口にしてみる。

「あー、多分鹿じゃないかな」

「し、鹿?」

「田舎の駅だと割とあるみたいで。僕も昔何度かあったし」

話していると電車内にアナウンスが響く。ガガっとノイズの入ったスピーカーから車掌さんの声が聞こえてきた。

『ただいま、本電車は鹿と接触いたしました。現在作業を進めておりますが、到着時刻に大幅な遅れが発生すると思われます。ご迷惑をおかけしますが、しばらくお待ちください』

ブツっとスピーカーが切られる音がする。同時に様々な音が運転席の方から聞こえてきていた。僕にとっては昔通りだと懐かしむところだが、現在の事情を鑑みるとこれはあまりよくない状態だ。

時間が惜しい。監視だとか追手のような人が近くにいる気配はないが、いつ来たっておかしくないのだ。

「どれくらいかかるの? 普通なら」

橘の心配も無理のないことだろう。ただでさえ僕という頼りない男と行動を共にしているのだ。その不安は推して測るまでもない。

「三十分から一時間、結構ブレがあるんだよね」

「そう……」

線路の途中だから降りるわけにもいかない。駅が近ければ歩いていくという選択肢ももしかしたら取れたかもしれない。ここは駅と駅の中間点で、戻るにも進むにも微妙な距離だ。

だからひたすらに待つしかなかった。連れ戻されるのは至極当たり前ではあるけれど、橘がそれを望んでいないのだ。しかしこの状況を僕にはどうすることもできない。

「ごめん、不安だよな」

「そう、不安……だけど気休めを言われるよりはいいから。それに天野のせいじゃないし」

「鹿ばかりは予想できないからなぁ」

刻一刻と時間が過ぎ、四十分ほど経った頃にようやく復旧のアナウンスがされた。

「こういうこと、割と起きるの?」

「年に一回くらいしか僕は経験しなかったから。それよりもっと起きているって思うべきだった……見通しが甘すぎるな、僕」

女子一人を守るくらいなら僕にもできるのではないかと思っていたけど、こんな状態じゃ先が思いやられる。提案したのは僕なのだから、少なくとも一日は逃げ切る責任がある。

「正直、あたしはお父さんから逃げられるとは思ってないよ」

表情なくそう言われると自分の頼れなさに絶望してしまう。

「出来るだけ頑張るから見捨てないでくれ」

「それは天野次第じゃないかな?」

確かにそうだ。これから失敗は許されない。アクシデントで時間が余計になくなったのだからなおさらだ。気を一層引き締めてみた。

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