10 与太話

「橘、デートしようデート」

そう僕が適当なことを言い出したのはそれから三日後、よく晴れた日の朝だった。空はまさに青天、雲一つない様子で僕たちの未来を祝福している……まあ晴れより曇りの方が好みではあるのだけど。それに未来とか割とどうでもいいことだった。

「……は?」

明らかに不機嫌そうな様子での「は?」だ。僕も好きでこんな冗談を言っているわけではない。今回の冗談には少しだけ理由があるのだった。

もちろんそんなことを橘に言うわけにもいかず、その冗談を冗談のまま押し通さなくてはならないのが非常に心苦しい。というか苦手だ。普段全く本音を話していないと指摘されればまさにおっしゃる通りでとへりくだるしかない。だがそんな僕はこういう嘘を嘘と見抜かれないやり方は得意じゃない。

「あたしたち、そういう関係じゃないって思ってたけど……天野、何か勘違いしちゃった?」

「そんな痛々しいものを見る目はやめてくれ、冗談だから」

あまりの視線の冷たさに耐えかねて冗談と白状してしまった。あまりにも意思が弱く、後ろの方からはがっかりと言わんばかりにため息が聞こえる。だったら最初から自分たちでやって欲しい。得意じゃないと言っても聞かなかったのは二人なのだから。

「どういうこと? きちんと説明してもらわないと困る」

「まあ気晴らしというか、外に出た方がいいんじゃないかと思って。一応言っておくと気を使ってってわけじゃないから。何かこう、何と言うのかな……整理したいというか」

「うん」

「別に何か特別なことをしようってわけじゃない。ただいつも通りに外に出るだけ。要するに何も変わらないってことを示そうと思ったってわけなんだけど」

「もうその提案をしている時点で変化が起きたってことの証左じゃない? とあたしは思う」

橘は額に手を当て呆れたように吐息を漏らす。

「……あとあたしは後ろの二人の方が気になってる」

バレていたか、とばかりにひょいっと顔を出したのはたくみ。その後ろから恐る恐るという様子で顔を覗かせているのは清水だった。

「たぶん二人が天野に何か言ったんじゃないの? 違う?」

キツイ目つきの橘がそうやって詰めていくと迫力も伴ってかなり怖い。清水は少し前に橘に一対一で責められていたからそのときのトラウマでも刺激されたのだろう。逆にこの状況でもニコニコとしていられるたくみの精神力はかなりのものだと思う。

「確かにデートだのなんだの言いだしたのはたくみだけど、出かけるというか気晴らしに何かするっていうこと自体は僕の提案だよ」

一応二人に被害が拡大することを防ぐべくフォローを入れた。冷静に考えるとどうしてけしかけた側に被害が及ばないように僕が動かなければならないのだろう。どうせなら巻き込んでやった方がよかったかもしれない。

「そう? 一番解せなかったのはそのデートの部分だったから」

犯人がわかったなら後でいいわねとたくみは放っておいて話は進めるようだった。じっくりと言ってやって欲しいものである。からかいも大概にしておかなければこうなるのだとはっきりわからせて欲しい。

それはさておき、と話は本題に戻る。

「とりあえず、出かけるっていうことでいいの?」

「僕はそう思っているけど、橘はどう? ここに行きたいとか指定があればなと思って」

「あたしは……いつも通りって言うなら、図書室じゃないのって思った」

「じゃあそれで行こう」

さっさと歩いて図書室に行こうとすると「ちょっと待ってよ」と橘に引っ張られた。首がぐいとなって苦しい。慌てて振り返ると若干橘の表情に陰りが見えた。

「あたしに合わせなくて、いいから」

強引すぎただろうか。まあ強引だろう。橘の顔は困惑が強い。少し言葉を選んでからその言葉に答える。

「合わせているわけじゃない、いわばこれは僕の我が儘だよ」

「天野の我が儘」

「そう。だから橘に何かをしてあげているわけじゃなくて、僕がこうしないと納得できないからこうしているっていうこと……ごめん、わかりにくいよな」

「そう。別に、わかりにくいってことはないけど」

勘違いはされるかもね、とよくわからないことを付け足し、橘はこくりと頷く。

「わかったわ。どこかに出かけるってことでいいのね? ならあたしは本屋に行きたい」

橘と出かけるときに比較的候補に上りやすいのが本屋という場所だった。僕は積極的に本を読む方ではないというだけで本が嫌いなわけではないし、むしろ本屋の雰囲気は好きですらある。それに本屋は冷房の効き具合がちょうどいいのだ。夏に出かけるには最適とも言える選択だろう。図書室よりはほんの少し非日常的な場所だ。

「それじゃあ……」

僕がその言葉の続きを言うよりも後ろから声がする方が早かった。

「じゃあ四人で行こうか!」

「だな、橘のお墨付きを得たことだし大手を振って四人で遊べるわけだ」

突然水を得た魚のように顔を出すたくみと清水。清水の言葉にはまだ若干の緊張が残っているが、おおよそはいつも通りの様子だ。たくみは意識してか少しテンションを挙げているようである。突如として表舞台に現れた二人のバカを前に、橘はしらっとした目を僕に向ける。

「……騙したの?」

「いいや? 別に僕は二人で出かけるとは言ってないし、四人で出かけないとも言っていないよ。もしかしたら橘がそう受け取れるような発言をしたかもしれないけどね」

「なんでまたこんな面倒くさいことを……バカじゃないの?」

「これでも割と比較的それなりにはまともに生きてきたつもりだからその評価は心外だ」

まともに答える気はありませんよと態度で示すと押し黙る。本当に、心から申し訳ないと思っている。橘にも。この狂言回しに付き合わされている二人にも。たくみは元よりこういうことをしたいという願望があったようで乗り気だったが、清水はそうではない。単に橘との少し歪んでしまった距離感を元に戻したいだけのようだ。それでこんなことをさせられるのだからかわいそうだと思っている。

「さっき言った通り、発案者は全部僕だよ。責めるなら僕を責めてくれ」

「いやそんな気はないけど……行く、普通に」

「ああ、そう……」

何だか締まらない形にはなったが、とりあえず外に出ることは出来そうだった。


「で、本屋に四人で来て何するわけ? 各々勝手に好きな本を見繕うだけ?」

「そのつもりだけど」

「本当に、何のための時間何だか……」

呆れつつもなんだかんだと付き合ってくれる橘は優しいのかもしれないと思う。快適な場所にいられれば文句はないのか、清水も途中までは苦言を呈していたが今では画集のようなものを見ているようだ。たくみは橘と文庫本のコーナーで何やら話している。ベクトルが違うとはいえ本が好きな者同士、話が弾むのだろう。

僕は特に読みたい本もないので本屋大賞やら芥川賞やら、何やら有名どころの本を見てみる。特に惹かれるものはなかった、と言うと失礼になるが、少なくとも僕の琴線に触れるような本はパッと見てみた限りでは見つからなかった。読んでみるまでわからないのが本の中身だから、外を見て中を判断しろというのが難しい話である。

「何か見つかった?」

橘にそう話しかけられ、どう答えたものかと思案する。ここに誘ったのはある意味僕なわけで、気のない返事はよく思われないだろう。かといってここで嘘を吐くのもまた違う気がして、結局「まだこれっていうのは見つかっていないかな」という曖昧な答えを言うにとどまった。

「天野、あまり本読みそうじゃないし。仕方ないんじゃない?」

皮肉なのか呆れなのか、平坦なトーンで話す彼女の表情には確かに安堵が見て取れた。僕が本を見つけられないと何かいいことでもあるのだろうか。よくわからない。というより、本を読みそうにないってなんだ。おそらく橘が思っているよりも僕は本を読んでいる。

「読んだことあるのはどんな本?」

「あー、なんだっけ……カフカの変身、とか。あとは城をとる話とか。ライトノベルも話題になっていれば読むかな」

「そう。濫読派なのね」

いつものようにくつくつと笑う橘は、とてもじゃないが昨日聞いた話を体験したような人には見えない。そう見えないというだけでどれだけ彼女が努力を重ねて来たかがうかがい知れる。人に対する棘は多分にあるし、それは僕に対しても変わらないけどそんな彼女がどれだけすごいかはわかる……つもりだ。理解者を気取るのはよくない。

「海外作家、時代小説、ライトノベル……まるで暇を潰せればなんでもいいみたい」

「実際そういう基準で選んでいるところはあるかもしれない。文字が多い方が嬉しくなるし」

文字が多いということはそれだけ読むのに時間がかかるということだ。暇を潰すために読むのなら出来るだけ一冊で多くの時間をかけて読めた方が都合がいい。

「本好きの人からすれば失礼な話かもしれないけど」

「まさか。あたしも同じようなものだから」

何でも読むし、その本が面白いかどうかなんて関係ないのだという。

「面白ければそれに越したことはないけれど」

「まあそれはそうだろうね」

どの本がいいかなと他愛もない話を続けていると、別の商品棚からひょいっと顔を覗かせてくる人がいた。当然、それが誰かはよくわかっている。

「あいくん……って橘さんもいたんだ。二人で何話してるの? 私には言えない話?」

「いや、何かピンとくるものがないから橘に聞いていただけだよ」

「まるであたしたちの間に言えない話があるかのような口ぶりはやめてもらえる?」

実際にあるのはあるのだけど、あまり明け透けに言われるのはイヤなのだろう。僕もイヤだ。なのでやんわりとたくみに視線を送る。それで何かを察したのか橘に気づかれないようにウインクをしてきた。……わかったのか怪しいけど、いいか。

「あいくん割と何でも読むからこれっていうのはおすすめしづらいんだよね」

「ご飯のとき何でもいいよって言われると決めるのに困るのと同じかな」

「それそれ。っていうかそれ、あいくんも結構言うよね」

「そうかな。橘の方が多いイメージがあるけど」

「……あたしを二人の会話に巻き込まないで」

さっさと別の本棚のところへと移動してしまう。それをまあまあと言って引き留めようとは思うけれど、言うだけで実際に触ることができないのが難儀だ。たくみも強引に引き留めはせず、そのまま二人になってしまう。

「そういえば清水はどこにいるの?」

「何か私のこともそっちのけで画集見てたよ。話しかけても生返事でさ」

よくわからないよね、とたくみは言うが僕はそれが何故かを知っているので「ああ」とか「うん」とか、そんな曖昧な言葉で誤魔化した。四人で来ているはずなのだけれど、それぞれが勝手に行動しているからかいまいちそんな感覚はない。

「自分で提案しといてなんだけど、これでよかったのかなって思っているよ」

思わずそう零すと、たくみは「何言ってるの」と少し怒った顔で言う。

「橘さん、楽しそうだったよ」

そうかな、と思う。橘は感情が表情に出にくい。たくみくらいわかりやすければいいのだけど、そうもいかないだろう。話している限りじゃ困惑を感じこそすれどこの外出自体をイヤだと思っているわけではない、と信じたい。

「いざとなれば僕が平謝りすればすむ話だ。土下座までならギリギリ大丈夫だし」

「あいくんにはプライドとか、そういうのないのかな」

「プライドで守れるものがあるなら、それは自分の心だけだよ」

「そうかもねぇ」

そんなくだらない話を終えた後、「じゃ、私は本買ってくるから」と離れていく。僕たちの様子を見るにしても、もう少しわかりにくいやり方を取って欲しいものだ。周りからの視線が痛い。会話の内容が聞こえていなければ、僕はまるで二人の女子に粉をかけているように見えているのではないだろうか、そんな過剰な自意識がバカみたいに羞恥心を刺激する。

仮に僕が二人のことをそういう意味で好きだったとしても、二人からはすげなく拒否されることは火を見るよりも明らかだ。橘に関してははっきりと「付き合うのはイヤだ」と言われている。好きなわけでもなければ告白すらしていないのに、そんなことを言われる僕の身にもなって欲しいものだ。噂というのは実に無責任である。

「行った?」

「おお、何、戻ってきたのか」

「芹沢さん、苦手だから。何となく裏表がない人なんだろうなとは思うけど、それと信用できるかは別問題だし」

そう言って表情を曇らせる。自分に近づいてくる人を信用できない、体に触られたくもないというその感覚は当然僕にはわかるはずもなく。

「何て言うのかな、たくみは強引だから。あまり回りくどいことは出来ないタイプだし、橘と仲良くしたいと思っているのは本当だと思うから、そこだけは信用してもいい……と言っても、だよな」

「芹沢さんはあたしの家を知っているわけでもないのにね。こういうことを考える自分がイヤになるわ、本当に」

気分転換に出かけているはずなのに、いつの間にか話題が暗い方暗い方へと進んでいる。これはよろしくない流れだなと感じた僕はそれを無理矢理断ち切りにかかる。

「それはそうと、何かおすすめの本ってないか?」

「え? 芹沢さんに教えて貰わなかったの?」

唐突だったのとその内容と、両方に対して首を傾げる橘に僕は重ねて言う。

「たくみはほら、あんな感じだからさ、教えてくれなかった」

「天野に本をおすすめしづらいっていうのはすごくわかるけど。あたしも天野に何を薦めるかって聞かれたら一時間は悩む自信がある」

「一時間は悩んでくれるのか」

「うるさい、揚げ足を取らないで。どうせ何を読んでも変わらないなら、あたしの好きな本何冊か教えるかそれでも買っておけば?」

軽く冗談を言ってみたが辛辣に返される。上手くいかなかったかと諦めかけていたが、どうも違うようで橘は「まあ、少し考えさせて」と言ってきた。

時間がかかるからと追いやられたので、さっきから話題に上りはするけれど直接話していない清水の元へと向かう。

たくみから聞いていた通り、そして最初に僕が見た通り、画集のところで真剣な目をして何かを探している様子である。話しかけるのもはばかられるような雰囲気だが、そう言っても僕たちは四人で本屋に来ているのだ。一人だけ何も話さないというのも寂しいものだと思う。

「清水、何見ているの?」

「…………」

「清水、おいおいおいおい」

「……ああ、天野か。本屋に来たのは久しぶりだからな。つい見入ってたわ」

どれだけ集中しているのだ。本気で絵が好きなのだなと思う。

「それ、そんなにすごいのかな」

「そりゃあ画集になるくらいの作家の絵だからな。すごいのは間違いない」

「買わないの? お値段は、うわ結構するね」

文庫本一冊の値段とは比べ物にならないほど高い。画集に興味がなかったから全く知らなかった。なんとなく高そう、くらいのイメージは合ったけれど。

「金が貯まったら一つくらいは買ってもいいかな」

「そう? 今買っちゃってもいい気がする。こういうのは勢いだからね」

「勢いで無駄に散財したくないからな、お前と違って」

「や、僕もそんな勢いで買うタイプじゃないけど、こういう高いものならもう勢いで買ってあとから帳尻合わせた方がいいんじゃないかなと」

「何にせよ、今日は買わないわ。ちょっと見ているだけ。天野が買うっていうなら止めはしないけどな」

あまり話しかけすぎても邪魔になるような気がしたので、さっさと会話を区切って別のところに向かう。向かう先は漫画コーナーだった。週刊連載で最近勢いのある漫画がずらっと平積みされていて圧を感じる。

漫画本を読んだことはあまりない。それこそ小学校や中学校のときは僕以外の四人の誰かが買って、それを読ませてもらったりしたものだけれど今となってはそんな友人がいるわけでもなければ積極的に読みたい漫画があるわけでもない。必然的に漫画を読む機会はゼロに近いものになっていた。

「今は原作と作画がいたりするのか……」

昔からあったのかもしれない。興味がないことに関する情報は能動的に記憶に留めない限り抜け落ちてしまうものだ。興味があることの方が少ない僕は、もしかしたら大半の情報が頭から抜け落ちてしまっているのだろうか、などとあり得もしないことを夢想する。

そんな夢想のあれやこれやを繋ぎ合わせてこういった物語は作られているのだと思うと、想像するだけで大変そうな仕事だと思う。小説家、漫画家、画家、それに限らずクリエイティブな仕事はどれも等しく興味というものが必要そうで、僕には到底なれそうになかった。なるつもりはないのだけど、可能性がないなと感じるとどことなく悲しい気分になる。

そんなセンチメンタルな気分に浸った気になっていると、本棚から近づいてくる人がいる。橘だった。

「ごめん、お待たせ」

「いやいや、選んでもらっているんだから謝らないで」

「……別に謝っているわけじゃなくて、反射的に出る社交辞令だから」

そんな憎まれ口を叩かれながら「はい、これ」と渡されたのは一冊の文庫本。値段も手ごろ、あらすじを読んで見るとなるほど、確かに惹かれるものがある。ページ数も結構厚く、読みごたえがありそうな本だった。

「よくこんな僕にピッタリみたいな本を見つけてこられるな」

そう褒めるとそっぽを向いて左の手首をぎゅっと握る。その癖の意味合いをわかった今だと複雑な気持ちになるが、別に今回は僕が何か変なことを言ったわけでもない。ただの癖なんだから別に理由なんてないと言われればそうなのだろうけど、どこかそれが引っかかった。

「まあ、別に。おすすめするなら自分が面白いって思えたものを薦める方がいいから」

「ありがとう、買ってくる」

レジまで本を持っていくと若い店員さんに対応が委ねられた。ポイントカードの処理中に「彼女さんの選んだ本ですか、いいっすね」と言われたので「あー、全然違うんですけど、そうなんですよね」と適当な返しをしてしまった。あまりにも適当過ぎたのか店員さんからは怪訝な目で見られたが、そもそもあまりそういうことを言わない方がいいと思う。そう思うのは僕だけなのだろうか。世間話のつもりなのだろうが、踏み込んでほしくない人だっている。その見極めがまだ甘いのだろう。僕がそれを出来ているとは思わないけど。

出口の方に向かうと既に橘はそこで待っていた。考え方が同じことに親近感を覚えないではない。元のところで待っているとは思えなかっただけだから、親近感を抱くのが間違っている気がした。

「たくみも外で待っているだろうし、出ようか」

「清水くんは?」

「……まあそのうち帰ってくるでしょ」

「四人で出かけてるんだから、連れ戻してきた方がいいんじゃない」

どちらかというと乗り気ではなかった清水が結局一番夢中になっているという、どこかで聞いたような話だ。話しかけても生返事をするばかりだったので、軽く頭を叩いてから出口まで引っ張ってくる。

「ごめん、これもうダメだと思う」

買わないと断言した上で本をまじまじと見続けるのは軽い営業妨害ではなかろうか、と思う。どの画集かはわからないがとにかく清水はそれに魅了されていた。

「そんなになるなら買ってくればいいのに」

僕と似たようなことを言うたくみにかろうじて清水は首をふるふると横に振った。

「違うんだよ、こう、何かがあるんだけどそれを買ってしまったら俺はもう終わりな気がするんだよ……わからないか、この感覚が」

「中二病ってことでしょ。さっさと帰りましょう」

ざっくり一言で括ると寮に向けて本当にさっさと歩き始めてしまう橘。「頑張ってね」と言いつつ手伝う気はゼロのたくみ。あとに残るのは本屋の前でぶつぶつと言葉を発する何かとそれを支える僕だけだ。

「えっと、何でこうなっているんだっけ」

思わずそう呟かずにはいられなかった。


寮にたどり着く頃には正気に戻っていた清水にしきりに謝られながらその日は終わった。自分の部屋に戻ると、そのあまりの質素さ加減に思わず苦笑が漏れ出る。無趣味と言われるし、実際にそうだと僕自身思っているから普段なら苦笑なんて出てこようはずもない。

机に座って、橘に選んでもらった本を開く。文字を追う。

文字の奔流とも言うべきか、見開きいっぱいに文字がびっしりと並ぶタイプの書き方をする作家さんのようだ。段落変えのわずかな空白しか隙間がない。行間なんてない。とにかく作者の書きたいことをひたすらに詰め込んで、そのまま展開させたような。そんな小説だ。

一時間半ほどで読み終わる。読み終わったとき、まだこれくらいしか時間が経っていないのかと意外に思った。結構夢中になって読んでしまったようだ。それだけ面白かったということだと思う。この本を教えてくれたことに感謝しなければ、と思ってとりあえずメッセージアプリを開いて橘に連絡を入れようとする。

そこには先に一言だけ連絡が入っていた。

『今日、よかった』

ただそれだけの文章で、ああ、今日は彼女を誘ってよかったなと思えた。

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