9 待ち針

「それで、あとは厄介払いみたいにここの学校に押し込められているって感じ」

「…………」

言葉が出なかった。僕が聞いていたのは最後の自殺未遂をしたことがある、というところだけだった。そこから何となくいじめに近い何かがあり、人から近づかれること自体が苦手になったと想像していた。

全く持ってそんな想像では足りていなかった。いじめよりも質の悪い、どうしようもない現実に彼女は打ちのめされていた。

「何か言ってよ、あたしばかり話して寂しいじゃない」

「と言ってもね……何も言えないよ。何も、言えない」

簡単に同情していい話ではない。特に男である僕が下手に彼女の事情に突っ込んでいいわけがない。知りたいという感情だけで動いたことを後悔するつもりはない。けど、これは。

僕の昔のことなんて比べ物にならないほどの過去。彼女がこうして普通に僕と話していることがどれだけの奇跡なのか。

「一応言っておくけど嘘じゃない。証拠、あるし」

そう言って左手首をすっと掴む。いつもカーディガンを着ている理由を察する。

「嘘だと思っているわけじゃないからいいよ、見せなくて」

「ありがと」

思い返してみればいろいろと納得のいくことが多い。でもそんなことを考えている余裕はなかった。必死に言葉を探しながら何とか話をしようと試みる。

「朝、起きてこないのってそれが関係しているのか?」

「夜になるといろいろ思い出して寝られないから。学校があるときは無理矢理に寝られるんだけど、休みになるとどうしても、ね。でもどうしようもないときは薬を飲んでるから大丈夫」

いやそれは大丈夫じゃないだろう、という言葉はぐっと飲み込んだ。休みが続く夏は相当つらいのではないだろうか。食堂、図書室で寝てしまうのは無理もないことだろう。

話せない。沈黙が流れる。言葉に詰まっていると橘が先に口を開く。

「どう? 知って、何か変わった? 同情した? それとも引いた?」

普段よりも冷めた様子で話す。そうやって話さないと落ち着けないのかもしれない。誰だって自分のイヤな過去を話すときに普段通り話すことはない。

「僕の橘に対する印象は変わってない。同情は、したらダメだと思っている」

「優しいんだね、天野。大げさに泣いて、あたしよりも悲しんでくれたらいいのに」

「それをしたって助かるのは僕だけだ。橘から目を背けているだけだろ、それ」

「そう。やっぱり優しいんだね」

橘はふいとそっぽを向く。僕の考えが正確に伝わっているとは思わないけれど、少しは通じているみたいだった。

「こんなに話したの久しぶりかも。喉、乾いた」

「何か買うよ。僕の我が儘でこうして外に出てるわけだし」

近くの自販機で飲み物を選ぶ。こういうときは温かい飲み物を渡した方がいいのだろうが、今の季節は夏、それは望むべくもなかった。下手に味付きのものよりは、と水を二つ買おうとする。一応橘に確認を取った方がいいかと振り返る。

「橘、って……」

そこでようやく気付く。自分の察しの悪さに嫌気がさした。

平然と話しているように見えて、橘の指の先は細かく震えていたのだ。ぎゅっと左手首を抑え込むようにして握りしめている。

そしてそんな自分に気づいている様子はない。いつもと同じフラットな声で「ありがと」とお礼を言ってくる。表情もいつも通りな中で、指先だけがいつもと違っていた。

「橘、手」

「手? ……ああ、こうなってるのね、あたしの手」

どこか変な受け答えをする。自分を外から見つめているような答え方だ。どんなに橘の様子がおかしくなっても、僕はそれを解決する術を持たない。橘の過去にでも飛ぶのか? フィクションじゃあるまいし、そう都合よくことは運ばない。橘自身が自分と向き合い、折り合いを付けていくしかない問題だ。

橘の問題だ。だけど、それを手伝うことくらいは、してもいいんじゃないか?

誰かが震える彼女の手を握ることが出来たならどれだけよかっただろう。

少なくとも僕はそれをできる立場にない。それができる立場にあったとしても橘の話を聞いた上で、それでもと踏み込めるような無謀さを僕は持ち合わせていない。

だけど、許されたとは思わないけど、こんな僕が誰かに近づいていいなんてまだ思えないけど。震えている橘を前にして何もしないほど馬鹿になれない。

同情でも憐憫でもなく、ただ僕がそうするべきだと思っただけ。そんな言葉を口にする。

「その手、握ってもいいか」

「え?」

何を言われたのかわからないという顔をされた。そんなに意外だっただろうか。いや、意外でしかない。自分だって自分がこんなことをしているなんて信じられていないのだから。

「もし橘さえよければ、だけど」

「……聞き間違いじゃない、みたい。どういう風の吹き回し?」

「ただの気まぐれだよ、明日になれば忘れているような、気の迷いみたいなものだ」

皮肉に対しては口から出まかせで返した。

その言葉を信じたわけじゃないだろうが、橘は少しの間考え込む。それを僕は待っていた。少しずつ辺りは暗くなってきていて、もうすぐ本格的に夜になりそうである。ちらほらと街灯が点灯し始めている。

ぽつりと橘が口を開いた。

「あたしが、どうして天野には近づけたか、わかる?」

「いや、全く」

「天野が人に近づく気がなかったから。だからあたしは安心して天野とは話せたの。ああ、この人は相手が誰でも関係なく、人に近づかないんだなってわかったから」

つまらない人だと思った。でもそれはあたしの中では誉め言葉みたいなものと語る。

「でもやっぱりというか、天野はあたしと違って人に近づけるようになれた」

おめでとうと言う橘の顔は、いつも通りフラットで感情が読み取れなかった。ありがとうという言葉は出てこない。そういう意味のおめでとうではないだろうから。

「あたしの問題に天野を付き合わせたくない。だから、この手はあたしだけのもの……意味はわかるでしょう?」

「……ああ」

「わかったなら帰りましょう。そろそろ寮監も気づく頃だし。清水くんにはちゃんと謝っておくから大丈夫よ」

あたしが全面的に悪いんだから、そう言って橘は来た道を戻り始める。

自分の手を見てみる。そこには何もなく、ただ生命線が長いなというくだらない感想が出てくるばかりだった。

一歩遅れて、僕も彼女の背を後ろから追いかけた。


予想通りというべきか、担任に外出を咎められることはなかった。気づかなかったという体で行くつもりなのだろう。寮監室で仕事をしていて見逃したという設定らしい。担任に余計な手間をかけさせてしまって申し訳ないと思う。

帰り道の間に橘の手の震えは止まっていた。いつも通りと言えばいつも通りと言えるような、そんな橘の様子を見て安心する。多分、いつも通りに振舞ってくれているのだろうけど。

「天野、今日した話……」

お互いの部屋に戻る前に橘は口を開く。言いにくそうにしているので何となく言いたいであろうことを予想して話す。

「言わないよ。第一、言う相手もいないしね」

「そうじゃなくて、芹沢さん、なんだけど」

「たくみ?」

「芹沢さんに、夜いろいろあって寝られないっていうことだけ伝えておいて」

「……了解」

いろいろあって、っていうのは完全に僕のさじ加減になるのだけど、そこは信用されていると見ていいのだろうか。いまいち橘との距離感を掴み切れていない。それなのにあんな話を聞いたものだから余計にそうなっていた。

女子寮の方へと歩いていく橘の背中を見送った後、僕も寮の自分の部屋へと歩みを進めた。


少し遅れて食堂に四人が集まる。僕と橘を交互に見てうーんと首を傾げているのが一人。橘の顔を窺っているような様子を見せているのが一人。気まずい空気を作ってしまったと俯き加減になっているのが一人。あと一人が僕である。当然たくみが来たばかりの時のようにわいわいと、というわけにはいかず、食堂には重い空気が漂っていた。

「というわけで、今からここ最近の反省会をかねながら夕食を食べるわけだけど」

「ちょっと待ってあいくん、まだみんな整理できてないと思うよ」

「無理やりにでもこうやって始めないと始まらない気がして。それにこれくらいしないと話を切り出せないでしょ。重い空気の中重い話なんてやってられないんだぜ!」

「天野わかったから。一番落ち着かなきゃいけないのは天野だってことが」

「俺もそう思う。とりあえずいっぺん顔洗って冷静になってこい」

バレバレの道化を演じて三人に無理矢理突っ込んでもらうことで何とか重い空気の払拭を図ったわけだけど、どうも僕が恥をさらさなくても話をする気があったようで自然に話が始まる。完全に骨折り損だった。

「清水くん、さっきはごめんなさい。気が動転してた。いろいろ言っちゃったけど、清水くんは何も悪くないから。気にしないで欲しいっていうのと、あと、なんだろ。えっと、もし変なところであたしが寝ていたら、普通に声かけて起こしてもらえばもう大丈夫だから。信用はないと思うけど、一応」

「いやこっちこそ……何も知らないのに文句言って悪かった」

いくつかの話のすり合わせを二人がやっているのを見ていると、たくみが横からちょんちょんと肩を叩いてくる。顔を寄せると耳元であちらの二人には聞こえないように囁いてきた。

「結局どうなったの? 何かあった?」

言っている意味が少しよくわからないが、要するに橘の問題はどうなったのかということが聞きたいのだろうか。そう解釈して話を先に進めることにした。

「……一言で言えば難しいってところじゃないかな」

「ふーん。根掘り葉掘り聞こうとは思わないけど、ちゃんと支えてあげないとね」

「僕なんかがそんなことできるわけ……」

「こら、僕なんかじゃない。あいくんは昔は失敗したかもしれない。でもこれからもずっと失敗するとは限らないでしょ」

チョップを食らった。普通に痛い。この勢いでチョップしたらチョップした側の手も結構痛いと思う。叩いた方の手をプラプラとさせているあたり、それは予想通りのようだった。

「僕は僕なりに向き合うつもりだけど。だからこそ最初に難しいって言ったんだよ」

ちゃんと考えているからこそ難しいという結論になったのだ。橘と上手く付き合っていくことはおそらく並大抵のことじゃない。精神がどれだけ安定して見えようとも、それは脆い柱の上で成り立っているだけのことなのだ。少し押してやるだけでそれはきっと簡単に壊れてしまう。

「ゆっくり丁寧にでいいし、僕がいなくたって代わりはいるからね」

「そんなに信用されても私困る……」

「強引だけどそういうやり方でもいいんじゃない? 僕にはできないやり方だからさ」

そこまで話したところであちらの二人の話は片付いたようである。片付くどころか、少し仲良くなっているような気がしなくもない。清水の表情が普段よりも明るいので、何か落ち着かない気持ちになった。

「ならあいくんはあいくんのやり方で助けて見せてよね」

「僕にできることは全部やるよ。ダメだったら頼るから」

「そのときは清水くんもね」

そんな話をした後に食べる夕食は当然味何てわかるはずもなく。適当に胃に流し込んで終了となった。もっと心に余裕があればいいのになと思う。



一応清水とは和解できた……と思う。表面上は、そう。芹沢さんもあたしに「ごめんね」と謝ってきた。悪いのは自分の事情を相手に押し付けているこちらだというのに。

天野は、よくわからなかった。

話をした。結果、やっぱりよくわからない。昔のことを教えたのは天野が初めてで、どうしていいのかわからない。それ以上に天野がどう思っているのかが気になる。

あたしの話を聞いて、彼はどう思ったのだろうか。

彼は『同情はしない』と言った。したらダメだと。下手な同情はなじられるよりも神経が苛立ってしまうことを知っているのだ。人のことばかり考えて、と思ってしまう。天野は人に気を使っていることが常だ。あたし相手ですらこうなのだから、他の人相手ならどれだけ本音を隠して話しているのだろうと思う。

そして今日も、彼はあたしの話を聞いて顔を歪めていた。まるで自分のことのように苦しんでいた。天野に背負わせてしまったな、と後悔する。

何が自分の事情に巻き込みたくない、だ。十分に巻き込んで、もう引き返せないところまで行っているのに何を今更。

女であるあたしが、彼に何を言えるというのか。

ずくん、と。

不快感のある心臓の鼓動。その心臓がきゅっと締め付けられるような胸の痛みが合図だった。それを皮切りにいつものことが始まる。

「ハッ、ア……」

喉奥からじりじりと何かがせり上がってくる。それは胃の中身ではなく、精神的な息苦しさ。同時に鋭い頭痛。目を開けることすら億劫で、布団を握りしめて頭から被る。

あの夜に言われたこと。

『姉さんが男なら』『そうだなぁ』

言葉が延々と頭の中でループする。その度に頭痛と胸の痛みは激しさを増していって、じわじわと体温が抜け落ちてゆく。冷汗だった。寒くて歯の根が合わない。夏場に布団の中でカチカチと歯を震わせている女の姿はさぞ滑稽なことだろう。

左の手首だけが暖かかった。そこだけが暖かかった。だから左手に必死に縋る。暖かい。あたしに血が通っているということをちゃんと教えてくれる。治らない跡を見て、あたしが生きているということを認識する。

「んっ……」

続くのは耐えがたいほどの焦燥感。

何かをしなければならない、何かをしなければ生きている価値がない。認められない。あたしを見てもらえない。何か、何かをしないと。そんな考えで頭が埋め尽くされていく。何かをしても見てもらえない、何かをしても生きている価値はない。何をしても認めてもらえない。焦燥感が諦観で上書きされていく。

「ハァッ、は、ああっ! ダメ、やめて。お願いだから……」

何度も何度も痛みと焦りに耐え、最後にやってくるのは狂おしいほどの衝動。

冷たい足音が肺寄ってくる。その手はすっと首を掴む。ひんやりと冷たいその手から首の感覚が奪われていく。ごっそりと何かを削いでいく。錯覚だ。錯覚であるのに、思わず首を触ってそこに首が本当にあることを確認してしまう。

みるみるうちに視界が狭くなっていく。激しく震える体を抑えるために、目をぎゅっと瞑った。ひたすら別のことを考えて思考をずらしていく。課題、学校、寮、関係のない思考で頭を埋め尽くせば、これが速く終わることを知っていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

ずぅっとそんな言葉が口から出続ける。何に対して謝っているのかもわからないままあたしは何かに向かって謝り続ける。

温もりが欲しかった。その温もりは身体の中にある。だから衝動が止まらない。

「ない、ないないない、どうしてっ」

刃物や凶器になりうるものはこの部屋には存在していなかった。

あのときの温かさが忘れられないあたしは、ずっと夜をこうやって過ごしている。

衝動や焦りが落ち着き、それでもズキズキと痛み続ける頭。眠れない夜に眠るために、机の上の薬を飲む。即時性はない。だが衝動も焦燥もほんの少しずつ虚空に消えていく。

思考をずらすことで痛みは緩和されるけれど、それでもつらいことに変わりはなかった。いくらずらしてもそこに恐ろしい焦燥感と衝動があることに変わりはない。だから学校に行くときはいつも薬に頼るしかなかった。休みはどうせいつまで寝てもいいからと薬を横着してしまうことが多い。

薬を飲むと、つらさと一緒にいろいろなものまで抜け落ちていくから苦手だった。

午前五時。あたしはベッドに沈み込み泥のように眠る。



たくみに軽く説明をした。夜に問題があるから朝に起きられないこと。まさか橘から聞いた話をそのままするわけにもいかない。だから最低限必要な情報だけ絞って伝えた。

「とにかく、朝に無理矢理起こすのはやめた方がいいってことだよね」

「それは橘に限らずやめた方がいいことだけどさ。まあそういうことだよ」

たくみはうーんと顎に指を当てて考え込む。

「私には話せないこと?」

言葉を端折りすぎじゃないだろうか。言わんとしていることはわかるから別にいいのだけど。

「橘からたくみに話すまでは、僕が言ったらダメなんじゃないかな」

「橘さん、どう? 本当に大丈夫なの?」

「心配する気持ちはわかるけど、どうしようもないよ。僕たちにできることと言えば、今まで通りに接することくらいじゃないかな」

「本当に? あいくん、変わらなさすぎじゃない? 本当に話を聞いたの?」

「聞いたよ。聞いた上でこの態度だ」

「それならいい、いやよくないけど! ちゃんと大変なときは頼ってよね、昔みたいにはさせないから」

激励のつもりなのか、背中を思いっきりバチンと叩かれた。

「いったぁ……」

怒っているのだろうか。女子の考えることというのはよくわからない。そのまま「ふんっ」と言い残して女子寮に帰っていくたくみを見て、そんなことを思った。

「ちゃんとして、か」

何かしらアクションを起こすべきなのだろうか、と自問する。しかしそれは橘本人から拒否された。自分の事情に他人を巻き込みたくないというのはよくわかる。僕だって人に近づきたくないという事情に橘を巻き込むつもりはない……ないか? 都合よく橘のことを解釈している気がする。もう少し冷静に、客観的に自分を見つめ直すべきかもしれない。

まず僕は橘のことを知りたいと思っている。これは変わらない。そして知った。知って、それで終わりか? 僕は知りたいと思って、そこから何がしたかったんだ?

「知って、その先は」

僕は、傲慢にも。

橘のことを助けたかったのかもしれない。

知れば助けられると思っていたのかもしれない。現実はそう甘くなかった。知って、乗り越えるべき壁があって、それを乗り越えればトラウマ克服とはならない。過去の出来事に折り合いを付けた後でもずっと心の傷は残ったままだ。

小さな穴の開いた砂袋のようなものだと思う。

引きずって前に進むたびにほんの少しずつ軽くなっていくけれど、振り返ればそこにはうず高く積もった砂の山があるのだ。それが僕たちに忘れることを許さない。許してくれない。

「まあ、僕と橘の問題は比べ物にならないけど」

僕の問題は僕自身の心構えの問題だ。だからどうとでもなるし、そんなにひどい症状が出ているわけでもない。だから大した問題じゃない。

橘の問題は根が深い。家庭環境、学校の環境、橘自身の真面目な性格。それらが合わさって、最悪な方向へと進んでしまった結果だ。解決法なんて思い浮かばない。聞いた限り幼い頃真面目が過ぎた橘は現在、ガス抜きなのかはわからないが適度に気を抜いているように思える。解決法はその程度のものだ。ゆっくりと時間をかけるしかない、と思う。

その解決に自分が関わることが出来ない。ただそれだけのことに歯がゆい思いをしている。

砂の山を乗り越えられないなら迂回すればいい。登ることを諦めてしまえばいい。でも結局はそこに残り続ける。根本的な解決にはならないのだ。

「僕が橘にできること、か」

何も思いつかないまま、時間だけが過ぎていった。

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