8 記憶

あたしは比較的有名な資産家の家に生まれた一人娘だった。そう、一人娘。

男女平等が叫ばれる今のご時世でも身内の中では関係ない。男尊女卑が当たり前である家系において、後継ぎ候補が女しかいないというのは間違いなく致命的であった。

当然次の子供を、ということになるが母は身体がそこまで強くなく、晩婚ということもありついぞ子供を授かることはなかった。仕方なく父はあたしを後継ぎとして育てることを決めた。もちろんこれらの事実をあたしが知ったのは随分と後の話で、当時はそんなことを知る由もない。

あたしは父親や家庭に招かれる様々な教師の指導の下で、様々なことを覚えさせられた。言葉遣いから身だしなみ、立ち方、立ち振る舞い方、勉強、ピアノ、食事の摂り方……挙げれば枚挙にいとまがない。今のあたしを見ればわかる通り、それらの教育は一切の効果を残していない。あたしは要領が悪かった。おそらく人の二倍努力してようやく人並みになれるくらいの能力しか備わっていなかったし、それを継続しておけるほど記憶力があるわけでもなかった。

叱られることは多かったけれど、それでも結果を残せば父も母も褒めてくれていた。裕福な暮らしは出来ていたわけだし、決してイヤな親というわけではなかったと思う。

問題は親ではなく、招かれる教師の方にあった。

誰もあたしのことを見ていない、と気づいたのはいつの頃だっただろう。家庭教師は確かにあたしにいろいろなことを教えてくれていた。でも見ているものは違った。あたしを通して親の顔色を窺っていたのだ。あたしが失敗すれば叱責を受けるのは家庭教師たちも同じだったのだろう。彼ら彼女らが親の顔しか見ていないと気づいたとき、あたしは悲しくなった。

叱られるのも褒められるのも会話するのも、全てあたしに向かって話してはいないのだ。あたしの後ろに見える、親という存在に対して話しかけていた。そこにいない親のあまりの存在感に、子供ながらに空恐ろしく思ったのを覚えている。

小学生になるとき、いわゆるお受験というものをさせられた。小学校から中学校、高校までエスカレーター方式で上がるお嬢様学校。当然難易度はそれ相応で家庭教師たちの指導により一層熱が入るのと同時に、あたしはその熱を感じられなくなっていた。

『みんなあたしじゃなくてお父さまばかりみてる。先生たち、みてくれない』

その熱はあたしのためではなく、父のため。父の娘であるあたしがそこに通ることで得られる父の名声のため。それを理解できるほど、言葉にして説明できるほど聡くはなかったけど、それでも言いようのない違和感を覚えていた。

そんな違和感の中にあってもやはり褒められたいという欲求があったのか、あたしは凄く頑張っていた。人生で一番頑張った時期を挙げるならこの時期を選択肢に入れるほどには頑張っていたと思う。そのかいあってお受験は成功した。

普段いろいろなことが出来ても言葉で褒めるだけだった父が、なんと頭を撫でて褒めてくれたのだ。すごく嬉しくて、目からは涙が出てきてしまった。嬉しいのに泣いてしまったあたしを母が優しく抱きしめてくれた。母の腕の中で、どうして流れてくるのかもわからないままあたしは涙を流し続けた。

思えばこのときが一番幸せだったと思う。家族の形が何も壊れていない。あたしは違和感を覚えこそすれ、家庭教師たちに不満を持つわけでもなく、受験は成功して父の肩書きに箔が付いた。これ以上ない成功体験だ。

今あたしが別の高校に通っているということは、物事はそう上手いこと運ばなかったということの証左である。

小学校に入学してすぐ、あたしは人だかりに囲まれた。あれやこれやと質問してくる同級生たちに混乱を覚えながら対応していた。好きな食べ物、趣味といった一般的な質問に混じる、父親や母親に関する質問。

あの橘の娘、ということが好奇の視線を集めたのだ。橘が男系の家であることはその筋では有名らしい。その橘家が後継ぎに選ぶほどの女とはどれほどのものなのかと。たくさんのクラスメイトが話しかけてきた。その誰もが、あたしを見ていなかった。あたしではなく、橘家の娘と話して来いという親の指示の下で動いて、あたし自身ではなくあたしの背景を探ろうとしていた。同じような気配をずっと家庭教師から感じていたあたしは、だから正直に話すことはせず基本的にはぐらかしていたように思う。話すことなんてなかった、というのも理由の一つだけれど。勉強と習い事、それ以外の話題なんて持っていないのだ。

そんな面白味のない女にエリート校のお嬢様たちが興味を持つはずもなく、話しかけられる流れは終わり。あたしは自然と一人になっていた。みんなが腹の探り合いをしているようで気持ち悪くて、友達は一人もできなかった。家に帰る度に嘘の友達の話を父と母に語るのがイヤだった。父のあたしのことを疑っていない笑顔と、母の薄々気づいているであろう苦笑が対照的だった。

友達が一人もいなくても、話す相手くらいはいた。根からの金持ちではなく、その代限りのいわゆる成金気質の親にここを受けさせられた人と過ごすことが多かった。彼女たちはあたしの家について訊ねてくることはなかったし、あたしも彼女たちと深い話をするわけではない。ただ一人でいないための話し相手というのが正しいだろう。

低学年の頃からそんな調子のクラスメイトたちは高学年になり思春期に入りだすと、さらに面倒なことになっていった。

要領が悪く上手く物事を進められないあたしでも、勉強は反復すれば何とか上位に食い込むことが出来た。それ以外のことに身が入らなくなったけれど、父はそれでよしとしてくれたし、父が言えば母も家庭教師も口を出すはずがなかった。

あたしが成績上位にいるのが気に食わない人がいる、と明確に気づいたのは小学校四年の秋。ようやく友人らしい友人ができて浮かれている矢先の出来事であった。あたしの成績を疎んでいる人、それはクラスメイトでも友人でもなく、あたしが点数のいいテストを持って帰ると一番の笑顔を見せてくれていた父親だった。

母から父が養子を取ることにしたらしいと聞いたとき、聞いたことを認識できずにオウム返しのように「養子?」と言った。

「そう。やっぱりお父さん、子供がもう一人欲しかったみたいでねぇ……弟ができたと思ってかわいがってあげてね、あさひ」

「うん……わかった」

それ以外の返す言葉を持たなかった。あたしが何を言ったところで父がそう言ったのならそれはもう決定事項なのだから。

弟、と聞いた時点でイヤな予感がしていた。あたしはいらない子になるんじゃないか、本当は男が欲しかったんじゃないか、あたしはできない子だと思われているんじゃないか。そんなイヤな想像が頭の中を駆け巡って、駆け回って、イヤな未来で頭がいっぱいになる。右手がふるふると震えるのを左手で無理矢理押さえつけた。

一か月後、家にやってきた弟は名前をあきらと名乗った。年齢はあたしの一つ下で小学三年生。名前は明という文字を書くらしい。その名に恥じない明るい子で、自分が考えているイヤな考えが照らされて明るみに出されてしまう気がして、正直苦手だった。それに加えて人に対する気遣い、頭の回転の速さ、所作の丁寧さなどは小学三年生にしてあたしを上回っていたと思う。

唯一、座学の成績だけは普通だった。そんなくだらないところで優越感を抱き、そしてあたしにはこれしかないと余計に勉強に縋りついた。勉強もできなくなれば捨てられてしまうと思った。他に何も持たないあたしはそうする以外の方法を知らなかった。

男が強い橘家において、あたしが家庭教師や家政婦さんたちから顔色を窺われていた理由はただ一つ、後継ぎだからだ。約束された後継ぎから後継ぎ候補へと落ちたあたしは徐々に、だが確実に何かしらの嫌がらせを受けるようになった。

学校では六年生になり、あたしは勉強ができる人として少しだけ頼られることがあった。唯一できた友人とはクラスが別になってしまったけれど、仕方のないことだと割り切った。クラスの割り振りに金が関与しているなどとは知らなかった。

勉強を教えるという行為はとても楽しかった。いざ教えようとすると自分でもわかっていなかった理解の甘いところが出てくる上に、教えた子は喜んでくれる。あたしもその子もいいことしかない。もしかしたらあたしは人に教えるのが上手いのかもしれない、と勘違いをしたこともあった。それは当然勘違いで、あたしは人に教えるようなものなど何一つ持っていないのだと思い知らされた。

帰り道の途中で教室に忘れ物をしたことに気づき取りに帰ると教室には昼休みに勉強を教えてあげた子たちがたむろして話していた。話している内容が気になり、扉を開けることを一瞬躊躇する。その間に会話は先へと進んだ。

「橘さ、あれ教えられてるつもりなのかな? 全然わからないんだけど」

「そんなこと言うものじゃありませんよ。口調、ちゃんと整えて」

「話を濁さない。結局あなたはどう思っていらしたの? なんて聞き方してられないじゃない」

「橘さん、お世辞にも説明が上手とは思えませんでしたね。何というか、わからない分を数でこなしているような、そんな印象でした」

「でしょ? 結局男が強いところに生まれた女なんてそんなものよ。頑張ってるんでしょうけど、全部無駄なのがなんでわからないのかしらね」

あたしはあたしが見られていない、という事実を再認識した。どこまで言っても男家系に生まれた邪魔な娘としてしか見られないのだ。それは確かにあたしを構成する一部分ではあるけれどそれがすべてではないのに。

ならば、何だと言うのだろうか。父が見せてくれた笑顔も、頭を撫でてくれたことも、褒めてくれたことも、全ては嘘なのだろうか。そんなはずはない、と否定しようとしても養子の弟である明の存在がその否定を肯定に変えてしまう材料になった。


あたしが今のあたしになる決定的な事件は中学のときに起こる。

中学一年生、友人だと思っていた人と縁を切った。

小学校四年生以来ずっと仲良くしてきたと思っていた。それはあたしだけの一方的な思いでしかなく、彼女にとってあたしは代替えの利くものだったのだろう。「もう会いたくない」と直接言われた。面と向かって言われたことにショックを受けつつ、なぜなのかと聞くと彼女は露骨に顔をしかめさせてこう言った。

「あなたと一緒にいてもメリットがないってわかったもの。橘の娘だから利用価値があると思って付き合ってきたのに……弟さんができたんですってね?」

弟、明。彼のことをあたしが言った覚えはなかった。では誰がと尋ねる前にそういうことだからと言い残して彼女は去っていった。

弟のことは内密にされているはずであった。後継者争いが起きているように見えるのはよろしくないという父の意向に逆らった誰かがいる、ということをこのとき知った。父の体制も盤石ではないということ。しかし当時のあたしにとってそんなことは心底どうでもよく、唯一の友人を失ったことがひたすらにつらかった。心にぽっかりと穴が開いたようで、穴からはいろいろな感情が染み出してくるのに、涙だけは一向に出なかった。乾いた目のまま、嗚咽だけが出続けた。

何もかも嘘だったのだろうか。嘘だけでこんなにも長い時間を過ごしてくれるのだろうか。あたしは彼女がそんな人だとは到底思えず、別の事情があるに違いないと信じていた。本当は、自分がそうやって切り捨てられるような人間じゃないと信じていたかったのかもしれない。

あれはどうも後継ぎから外されたらしい、と噂が立ったのはその数日後。あたしは彼女が本当にあたしと付き合っていたわけではなく、『橘家の後継ぎ』と友達付き合いをしていたのだとはっきり突き付けられた。

このときからあたしは自分に近づく人間に不信感を持つようになった。唯一の友人ですら何かしら思惑があってあたしに近づいていた。ならば、もしかしたら、これからもずっとそうなのかもしれない。そう思うと人が怖くて、近づかれると体に緊張感が走るようになった。

それでもあたしは本当に二人だけは信じていた。

父、母。両親はあたしのことを見てくれていると。何の思惑も介さずただのあたしを見ていると。そう思い込もうとしていた。母はともかく、父に関してはそんなはずもないのに。幼い頃の父の思い出に縋ることでしかあたしはあたしを保つことができなかった。

そして中学二年生の冬。

その日は珍しく雪が降っていて、多くの家政婦さんやお手伝いさんは雪かきに出払っていた。夜になってもその作業は続いていて、家の中に人はほとんどいなかったと言っていい。あたし、弟、父、母。それと一部の家庭教師くらいのものだっただろう。だから弟と父親はあんな会話ができたのだ。誰にも聞かれないと思っていたから。誰もあたしのことなんて見えていなかったから。

勉強の休憩に自分の部屋を出ると、弟の部屋から声が漏れ聞こえてきた。

「姉さんが男だったらよかったのにね」

そんな声が聞こえた。

「そうだなぁ」

意味のない父の相槌。

「姉さんが男なら、父さんも母さんもこんな苦労せずに済んだのに」

そのおかげで僕がここにいるんだけどね、という後に続く言葉はもう聞こえていなかった。

弟のその言葉は「男だったらよかったのに」あたしが絶対に考えないようにしていた「男だったら」ことで、だってそれを認識したらあたしは「息子だったら」あたしで「女に生まれたから」あたしである必要がなくなって。

「どうして生まれてきたの?」

頭が割れるように痛かった。今までの生きてきた記憶がいきなりチカチカと頭の中で点滅信号のように映し出されていく。そのどれも、どの記憶にも、父があたしの部屋を訪れたという思い出は存在していなかった。

部屋に戻って、戻ってそれで。ベッドをはさみで切って切り裂いて、羽毛がたくさん飛び散って、父に買ってもらったぬいぐるみも、いろいろな人から貰ったプレゼントも何もかもを壊して、切って裂いて。写真も破って、何もかもが壊れた部屋の真ん中で。

最後にあたしははさみを思い切り振り下ろした。

それはとても赤くて、暖かかった。

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