7 一歩

「何をしたの? 今のうちならまだ警察には言わないから。言って、ちゃんと」

「だから、何もしてないって! 俺がお前に何かする理由ないだろ!」

「で、これはどういう状況なのかな……」

寮に帰るなり、明らかにキレている橘と困った様子でこちらに助けを求める清水。

触らぬ神に祟りなし、スルーするのが安牌だろうか。

「おい橘! 天野が帰ってきたぞ!」

「そんなの関係ない、何で? どうしてか説明してって言ってる」

「天野、マジで何とかしてくれよ……」

清水の目を見る。本気で助けを求めている目だった。ここで断ればきっと清水から僕への好感度は下がることだろう。しかし少しだけ冗談を混ぜることにした。

「でも僕と清水は仲良くないらしいからね、清水曰く」

「そのことは謝るから今は橘を抑えてくれよ!」

触らぬ神に祟りなし、しかし神を鎮めなければこちらに害が及ぶこともあるだろう。というより、この状況は明らかにおかしい。

一つだけため息を吐いた後、口を開く。

「たくみ、先に寮に行ってて……どういう話かだけ、聞かせてもらえないかな」

たくみはこくりと頷いて、女子寮の方へと歩いて行った。口パクで「がんばれ」と伝えてくる。何を頑張るのかはともかく、ほんの少しやる気は入った。


橘を何とか落ち着かせて、清水の話を聞く余裕がある状態までもっていくのに随分とかかった。勘違いされがちだが、僕と橘は決して仲がいいわけではない。お互いに対する壁が薄いだけで、騒音は普通に伝わってくるのだ。だから落ち着かせると簡単に言っても、言葉にするほど簡単な行為ではなかった、とだけ伝えておく。

橘を落ち着かせた後は当然、当事者である清水の話を聞く流れになる。

「俺は単純に食堂で寝るなって言ったんだよ。一応共通スペースだから、寝るなら個人の部屋で寝ろって」

また寝ていたのか……だから夜に寝られなくて、昼に寝る羽目になるのではないだろうか。

「だから普通に起こそうとしたら、いろいろとなんだかんだって騒がれて。声かけただけで勘違いだから誤解を解こうとしたんだけど聞く耳持たなかったんだよ」

そういうことか。

事情を説明するためには、とりあえず橘をここから離れさせる必要がある。さすがに当人がいる前で当人のことを話すのは憚られた。

「橘は何か言うことある?」

「うるさい、部屋に戻る」

苛立ったまま自室に女子寮の方へ戻っていく橘。ここまで響く音で扉が閉められた。煽るような形で退出させてしまって、本当に申し訳ないと思う。明日あたり何か買っておくべきか、と思いながら僕は口を開いた。

「橘はさ、人に触られるのが苦手なんだよ」

それこそ握手を求められて、それを断るレベルで。隣に座っていいかと言われて、それを拒むほどに。

「もしかしたら清水に触られたのかもしれないって過剰反応したんだと思う。だから悪く思わないで欲しい。後で落ち着いてから説明すれば清水が触っているわけがないってわかるはずだからさ」

「それは……何というか」

「僕からはそれだけ。というより、そんな性格なのに食堂で寝る方が悪いんだけどね。清水は何も悪くないよ」

人に触られるのはイヤな癖に、やけに無防備なことが多い。今回のことはそれが招いた結果だ。清水は本当に何も悪くない。

あとで橘にもフォローを入れておかないといけない。どうして僕が寮の人間関係のバランサーのようなことをやっているのだろうか。本来僕は中心の立ち位置にいるべき人じゃないのに。こういう役回りはたくみの方が向いているのだ。

清水は不安そうな顔をしてこちらに確認を求めてくる。まだ夏休みは長い上に、これからも寮で過ごす仲なのだ。関係性に亀裂が入る事態は避けたいのだろう。僕だってそうだ。

「橘には不用意に話しかけない方がいいってことか?」

「そうじゃないよ。ただ寝起きとか、そういうときは誰でも不安定だからね。やめておいた方がいいってこと、かな?」

そう言って話を強引に締めた。今日は夕食を摂る時間をずらした方がいいか。そんなことを考えながら食堂から出ると、ちょうど話をしたい相手はいてくれた。

「先生」

「すまんな、盗み聞きをするつもりじゃなかったんだが」

「別に話していいことしか話していませんから。大丈夫ですよ」

橘から聞いているのは話の触りとその結果だけ。結果を話しただけだ。

「人に触れることが、か。どの程度のレベルなのかわかるか?」

「自分が身構えていないときはどんな接触もたぶんダメだと思います。体育のときはそういう心構えをしていくから大丈夫だ、と言っていた覚えがあります」

「他には?」

「自分から近づきにいく分には大丈夫だそうです。当たり前ですけど、人は信用している人にしか近づきませんからね」

「なるほど……」

担任は得心がいったようにうなずく。

「いや、話自体は聞いていたんだ。保健室から教師全体に伝えられていた。けれどどの程度のレベルなのか、っていうところまではわからなくてね」

「僕もわかっていませんよ、そんなの」

「うん、そうだな」

少し言い方がきつかっただろうか。担任は気にしていないような感じがするが、わからなかった。大人は隠すことが上手だから。

担任は僕の方を向いた、と思う。そちらを見ていない。

「わからなくてもいいんだ。神様じゃないんだから、人の気持ちを全部知ることはできない」

どうして橘がそうなったのかなんて、見当も付かないと言う。話の触りだけを聞いた僕も詳しい事情は推測するしかない。でもその推測を元に彼女のことを考えるのも、失礼ではないかなと脳裏に心配がよぎる。

「わかろうとして人を詮索するのは、失礼にあたるんでしょうか」

思わず漏れた僕の疑問に担任は顎に手を当てて考え出す。本当に真摯だと思う。普通の先生は生徒の呟きにここまで反応を示してはくれない。

「わかろうとするのは悪いことじゃない。でも、それを押し付けるのは違うような気もするな。人間関係の正解は当人同士でしか測りえないよ」

「そう、ですか」

沈黙が走る。未だに彼や彼女や彼女とどういった接し方をすればいいのかわかっていない。もう自分のせいでおかしくなるのはたくさんだ。一番の正解はコミュニケーションの一切を絶ってしまうことなのだろう。けれどそのやり方は同時にたくさんのものを失ってしまう。きっとそれは正しくない。

頬をパチッと叩いて気合を入れ直した。

「頑張ります」

「ああ、頑張れ」


担任はひらと手を振りながら寮監室に戻っていく。確かに寮監室に入るのをしっかりと確認して、考える。言葉の意味、これからやるべきこと、これから起こるであろうこと。

まず現状起きているのが清水と橘の間にある問題。清水は一応納得してみせてはいたけれど、謂れのない文句を言われて腹の立たない人は少ない。だから、橘本人からの謝罪、もしくは説明が必要である。

それが解決しなかった場合、橘と清水の関係は悪くなることが目に見えている。そうなれば量全体の空気が重くなる。それはイヤだ。

要するに、僕はこの寮の関係を気に入っているのだろう。だから近づきたくないのだ。近づいて、前みたいに壊してしまうのが怖いから。だから皆に対して遠い距離を設定するようにしていた。無意識にやっているかと思ったが、すんなりこの事実を受け入れられるあたり多少は意識的にやってきた部分もあるようである。我ながらくだらない。

でも、それだけでは何も生まれなかった。

リスクを恐れて何も踏み出してこなかった。

だから、今からはせめて一歩だけ。

解決策は何も思いついていない。ただ勢いのままに電話をかける。数少ない登録してある電話番号。電話帳の上から二番目のそれを選ぶ。

コール音が響く。一回、二回、三回と続き、しばらくしてから留守番電話に切り替わる。

当然彼女は電話に出ることはなかった。

「じゃあもう仕方ないよな……」

担任とのやり取りは『そういうこと』だと認識している。もしかしたら僕の勘違いかもしれないが、勘違いだったとして、後で死ぬほど絞られればいい話だ。

距離感がおかしい? 知ったこっちゃない。遠かろうが近かろうが、何とかするだけだ。壊れることばかり見て、もっと大事なことを見落としてしまっては元も子もない。

「あいくん?」

「おお、たくみ」

「おおじゃないよ、怒られるよ?」

「怒られるくらい、仕方ないことだよ。それより目の前の問題を解決しないとね」

「昨日の今日で、変われる?」

「変われないから、変われないけど、それでも僕は僕なりに頑張るよ」

「私は先生には言わないでおいてあげるよ。何を話すのか知らないけどね」

頑張ってね、と言い残して寮の出口へと向かっていくたくみ。人に聞かれたくない話をするのだ。これで今は僕と橘の二人しか寮にいない。本当に、たくみは全部わかっているのかもしれない。お礼をしなければと思う。色々な人に、色々とやらなければならないことが積み重なっていく。

「担任も、たくみも、清水も本当に……」

こんなくだらない僕によく接してくれている。清水も僕を信頼して秘密を話してくれている。なら僕は、あと一人としっかりと向き合うだけだ。

橘あさひ。人に近づかなかった僕に、近づいてきた人。

一歩踏み出して、ドアをコンコンとノックする。返事はなかった。

「僕だけど、橘、いる?」

「……天野ッ?」

バタバタと音がする。僕がここにいるはずがないし、来るようなタイプでもない。驚かれるだろうなとは思ったが、そこまで大きな反応をもらえるとは思わなかった。

「出てきたくないならそれでもいい。少し話すことって出来ないかな」

「……前に話したでしょ。そのときこれ以上話すつもりはないって言ったはず」

言われたし、それは覚えている。印象的な話だったから忘れるはずもない。僕も中学時代の話を少しだけした。秘密の共有、それ以来僕たちは話すようになったと思う。

「覚えてる」

「なら、戻って。ここにいたら叱られるのは天野だよ」

「イヤだね」

「……はぁ?」

本気でキレている声で、尋常ではなく怖かった。扉越しにここまでの迫力が出るなんてと怖気づいてしまう。さっき清水に向けていたような鋭い目になっていることだろう。

「今から寮監に連絡しようか? それで全部解決だから」

「橘はそういうことはしない。それくらいはわかる。仮にも一年、付き合ってきたんだから」

「そう? それじゃあ天野はあたしのこと全然わかってないよ。やるときはやるから、あたし」

「全然わかってないっていうなら、教えてくれよ。僕は橘のことを何となく察してるだけだ。だから教えて欲しい、って思っている」

お互いに必要以上に踏み込まないようにしていた。無理に聞かなかったし、多少の我が儘もお互いに容認していた。簡単なお願いは突っぱねるのに、面倒くさいことだけはお互いに認めていた。それは多分、これ以上の距離を近づけることを恐れていたからだと思う。近づけばお互いに自分の傷に向き合わないと行けない。それは当たり前だけどつらいことで、だから逃げていた。相手の傷を見ることで、自分の傷から目を逸らしていた。

だけど、過去から目を背けて得られるものは確かにあったけれど、失ったものもまた多かったように思う。例えば僕と橘は二人ともただの友人と呼べる相手がいない。例えば僕は人との距離の詰め方がよくわかっていない。

例えば橘は、人に近づかれることができない。

「話して、それで何か変わるの? 天野は変わった? 芹沢さんと話して」

さっきのキツイ声は、今は不安そうな声に変わっていた。これでいいのかはわからない。ただひたすらに僕の心の中の言葉を吐き出しているだけだ。

「変わってないよ」

だから嘘だけは言えない。嘘を言って、それでどうにかなる問題なら橘ほど強い人が追い詰められるはずもない。

「なら話さない。結果が出てないものに、どうして賭けられるの?」

至極当然の反論だ。

「それは話してから考えればいい」

「ふざけないでよ。天野と芹沢とは違う。あたしたち、ただの知り合いじゃない。あたしは天野を信用してるけど、信頼はしてない。二人と一緒にしないで」

「それはわかってる。わかった上で、話して欲しい」

「……だいたい、天野ってそういうキャラじゃないでしょ。何であたしに構うの」

「……それは」

寮内の関係が乱れるのがイヤだから? それはそうだ。

清水と橘が気まずい状態になるのを防ぎたいから? それもそうだろう。

橘のことが心配だから。それもある。

どれも言葉が上滑りしていて、ちゃんとした形なってくれなかった。どれも本音に違いはない。ただ本質とズレているのだ。自分のことすらわかっていないと嘯くが、本当にわかっていない。だって、こんな単純なことでいいのかって思ってしまうから。

「橘のことを知りたいって思うからだよ」

「…………え?」

知りたいから、話して欲しい。ひどく単純な論理で、だけど僕の本音に何よりも近いのはたぶんそれだった。

「え、知りたいって。それだけ、なの?」

「いやまあ他にも理由はいろいろあるけど、一番はそれかなって。僕は橘のこと、知りたいって思った。ちゃんと話して、向き合いたいって」

「なんで?」

「何でって、理由がいるなら頑張って考えるけど」

まともな理由は思いつかない。強いて言うなら橘のことが気になるからだが、それでは知りたいというのと本質的に何も変わらないだろう。

「バカみたいだよ、天野。そんなんじゃないじゃん。それじゃ今日の朝のことと何も変わらない」

「たくみのこと?」

「そう、芹沢さん。でも天野は知ってるでしょ。それだけじゃ、ダメなの?」

「それでいいかもしれないけど、それじゃ今までと変わらないから」

「変わらないことって悪いこと?」

「悪いこととは言えないと思う。でも橘は今のままでいいと思ってない、と僕は推測してる」

「……イヤなヤツ。わかってないふりして、わかってるじゃない」

「ただの推測だよ。橘から話を聞くまではね」

「……少し考えさせて」

「わかった」

時間はある。することがない夏休み、ひたすらに考え事ばかりしている僕は、今もまた考える。言いたいことを伝えられただろうか、と。

言葉にすると恥ずかしいものだ。知りたい、というのは偽りのない本心だ。清水に対して抱いていたのもおそらく同じ気持ちなのだろう。何をやっているのか知りたい、とどういう人なのかを知りたい、というのは意味合いが違う気もするが。

橘は話してくれるだろうか。僕は説得したわけでも情に訴えたわけでも脅したわけでもない。ただ僕自身がどう思っているのかを伝えただけだ。たったそれだけのことで、橘が動いてくれるだろうかと思う。今までずっと話してこなかった秘密を知りたいとただ詮索してくるような僕に教えてくれるだろうか。

僕ならどうだろう。橘から知りたいと言われて、昔のことを話すだろうか。僕と橘では過去に起きたことも今考えていることも何もかもが違う。無駄な仮定だった。

一つその違いだらけの中で特筆して言うべきことがあるとすれば、それはさらけ出せる相手の有無だろう。ある程度の事情を知っているたくみという人が来たからこそ、僕は多少過去のことを振り返ることが出来るようになった。もちろん最初は動揺の方が大きかったし、出来れば向き合いたくもない過去だったけれど。

今は向き合っている。向き合って、今どうすべきか考えている。だから、橘を待つ。

十分ほど経っただろうか。もしかしたらもっと長かったかもしれない。

カチャとドアが開く。

「場所、変える。もちろん付き合ってくれるでしょう? 天野」

淡々と言うそのセリフだけはいつも通りだった。

「ここまで来て行かないっていう選択肢はないよ」

「その言い回し、イラつくわ」

ふいとそっぽを向いて歩きだす橘。

その顔は不安げで、無理をしていて、だけどその目は僕のことをしっかり見ていた。



「外出届、出さなくてもいいの?」

「出して女子寮に入ったことを注意されたければそうすれば? どうせバレるんだし今更でしょう」

「それを言われると何も言えないな……」

太陽が沈んだばかり、薄暗いというよりは薄明るい道を二人で歩く。カナカナと鳴いている声はひぐらしだろうか。他のセミとは違いうるささよりも儚さが勝っているような印象を受ける。都会でも田舎の県の都会だ。セミくらいはいくらでもいるのだろう。

隣で歩くたくみは眼鏡をクイと押し上げる。こちらは見ないで、前を見てから口を開く。

「どこから話したらいいか、わからないけど……話してみる。天野になら、ギリギリ話せると思う。ダメだったらそこまでだから、そのときはごめん」

「大丈夫だよ」

「うん。本当に、どこからだろ。あたしがこうなった理由か……」

彼女は考える素振りを見せる。急かすでもなくただ話し始めるのを待つ。急かしても意味がないことはわかりきっていることだった。

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