6 幼なじみ

「あ。あいくん、おはよう」

「……おはよう、たくみ」

昨日昔のイヤな出来事について話したとは思えない口ぶりに面食らって、少し挨拶をするのが遅れてしまう。橘は今日もいない。清水は僕の知らないよくわからないことをしているのだろう。もしかしたら宇宙人との交信かもしれないな、と益体のないことを考えて思考を意図的に逸らす。気恥ずかしいということを自覚しているから、行動にはそれを表したくないという僕の精一杯の抵抗だった。

「眠れてないんじゃない? ちゃんと寝ないと肌に悪いよ」

「そっちこそ眠れてないんじゃないか? 昨日は遅くまで話して、今日はこんな朝早くから起きて。習慣化されてないとキツイと思うけど」

朝の日課。それを始める前にたくみは話しかけてきたのだ。七時前、夏休みの高校生が起きるにはまだ早い時間帯だろう。ここまで早起きなのは僕のような物好きか、部活動に精を出している人たちくらいのものだ。

「……実は結構きつい。あいくんはよくこんな朝早くから元気に動いてるね。ラジオ体操といい、おじいちゃんみたいだよ。ちょっと引いちゃう」

「どんなことをするにも基礎体力が大事だからだよ。やりやくてやってるわけじゃないんだ」

思わずちょっとした本音が漏れ出てしまう。実際、この朝の日課はやることがないからやっているだけなのだ。体を動かしていないと考え事ばかりしてしまって頭が疲れてしまうから、それくらいなら体を動かしてしまえ、という考えも含まれてはいる。

一応趣味と言い張ってはみているが、本当に怪しいところだ。

「でも、こんなこと続けてるなんて地味にストイックだね。私、知らなかったよ」

「始めたのは寮に入ってからだからなぁ」

中学時代は体力がない方だった。そこから人並みの体力を身に着けるまで、結構な時間がかかったのを覚えている。今では少しだけ人よりも体力が多くなっている感じがして、継続は力なりとはよく言ったものだと思う。

「それで、何か用事があるんじゃないの? わざわざこの時間に起きているってことはさ」

昨日の夜と同じように問いかけると、今度は指摘は飛んでこなかった。代わりに「んー」という反応なのか返事なのか、区別がつかない声が返ってくる。

「いや、ただ、なんとなく、だよ。あいくんが昨日の今日で何か変わってないかな、と思って」

「そんな簡単に変わらない、と言いたいところだけど……どうも僕は自分の芯っていうものが見えてないからさ。ちょっとしたきっかけでもあればすぐに変わってしまうと思う」

「昨日みたいな?」

「まあそうだけど、そのきっかけ本人に言われるとなんかもやもやするな」

さすがにたくみの言うように、昨日の今日で完全に変わったりはしない。心境の変化はあるが、それだけだ。生まれ変わったわけじゃないし、考え方も大きく変わったわけじゃない。

「あいくんは柔軟だね」

明後日の方向を見ながらたくみは言う。

「私は自分のやり方を変えること、できないから。そういうところはちょっとうらやましく思っていたり。なんてね」

「僕もたくみのやり方は尊敬しているよ」

あまりこの話を続けていたらどんどん恥ずかしくなってきそうなので、お互い自然を装って別の話題を探し始めた。僕は元から気恥ずかしいのにさらに恥ずかしくなりに行く羞恥心ホリックではないのだから。

「走るときってどこらへんまで走っているの?」

「どこらへんっていうと難しいな。そのときどきと言うか、十五分走って十五分で来た道を戻るって感じだから。本気の陸上の練習ってわけじゃないし、適当だよ」

「確かにここらへん、だいたい道がちゃんと舗装されていたね。見に来たときに綺麗な道だなって思った」

「去年くらいかな。ちょうどこっちに来たくらいにいろいろ工事やってたからそれかも」

中身のない、ただ間を埋めるだけの会話。橘は話す方ではないから、こういうただ話すだけというのは結構久しぶりだった。清水とも仲を深められていないし、本当に交友関係が苦手だなと痛感する。

いくつかの取り留めのない話が終わる頃にはストレッチも終わっていて、たくみは手持無沙汰そうにしていた。彼女が放っている眠気が見える。

「たくみも走る?」

冗談めかしてそう聞くと、首をぶんぶん振って答える。

「じゃあ行ってくるから」

「うん、どうぞ」

足を踏み出す。リズミカルに、淡々と。タッタっと音を立ててそのリズムに乗る。あとは身を任せて走り出す。

余計なことは考えないように、ただそのためだけに走った。


そんなランニングから帰ってくると寮の入口にたくみがいた。もしかして待っていてくれていたのだろうか。

「待たなくてもよかったのに」

「待ってないよ? 三十分って言ってたから」

「ああ、そういう……」

この勘違いは少し恥ずかしい。運動して火照っている体がさらに熱くなった気がした。朝から恥ずかしいことばかりで気が滅入ってくる。

汗を拭いて、ボディシートで体をもう一度拭く。制汗剤との使い分けは単純に気分の問題だった。どうでもいいことだが、こんなどうでもいいところに案外人の性質が見え隠れしていることがあるからバカにできない。

食堂に行くと例のごとくたくみと清水が既にいた。それともう一人。

「橘? 珍しいね」

橘が本当に珍しく朝から食堂にいた。しかしその顔はかなりの不機嫌度合いを示している。なんとなく何があったのかを察して、ちらとたくみの方を見た。すっと明後日の方向に目を逸らす。そんな露骨に目を動かしたら自分から白状しているようなものだ。

「天野、あんたの幼なじみでしょ。何とかして」

寝起きという事実を踏まえても、あまりに迫力のある目つきに思わず返答を躊躇してしまう。久々に見る橘の本気でキレている姿だった。

「何したの?」

さっさと原因を突き止めようとたくみに話を振る。冷汗のようなものをたくみの顔が伝っていた。さすがにまずいと思っているらしい。僕は強引なやり口を受け入れられるけれど、橘がどうかは知らない。結果は目の前に広がっている通りと言うことなのだろう。

「起きるまでドアを叩き続けました」

たくみはてへと笑うがてへではない。そんなことをされたら誰でもキレる。

「……僕は関わらないから自分で収拾をつけてね。いや本当に」

仮に僕が何を言おうと今の橘にはおそらく何を言っても無駄なので、たくみを説教してもらう他に選択肢は残っていないのだった。

「朝から女子は元気だなぁ」

清水だけが呑気に朝食を進めていた。

しかし、たくみの動きは少し不自然な気がする。何が彼女をそこまで駆り立てるのだろうか。橘は確かに見ていて不安になるようなこともあるが、出会って一週間と少し。そんなお節介を焼く義理もないはずだ。

たくみは優しい。その優しさが裏目に出ている可能性もあるが、それにしてはそのことに自覚的な様子もある。本当に、いくら考えても他人のことはわからない。少なくともあとで多少のフォローを入れておこうと思った。火の粉がこちらに飛び火するのはごめんだ。


「あれは何?」

誰も食堂にいない時間を見計らって僕は橘に呼び出された。開口一番に詰め寄られる。結局飛び火したのでフォローなんて関係なかった。

「天野、あんたがあの子に何か言ったりした? そうでもないとあんな強引に距離を詰めてこないと思うんだけど」

「それはない。もし僕がたくみにアドバイスをするとしたら、橘は距離を詰められるのが苦手だから気を付けて、くらいのことしか言わないよ」

自分から距離を詰められる癖に、人に近づかれると拒否反応を示してしまうのだ。気持ちはわからなくもない。ただ僕の場合は逆というだけだ。

「なら、どうして」

迷っているのかもしれない。たくみは悪意を持って橘に近づいているわけではないから、当然そこには別の意図が存在していると橘は考えている、と類推した。間違っていたらダメだ。だから慎重に、話を重ねて彼女の真意を測る。

「そういう人っていうことじゃダメなの?」

「あたしはそれじゃ納得できない。知ってるでしょ?」

「でもたくみの真意はたくみにしかわからないよ。僕を叩いても何も出てこない」

「芹沢さんは苦手なの。そもそもあたしは近づいてくる人が苦手」

「そこじゃないかな、そこ。そこをたくみはつついているように見えるけど。いや、これはあくまで僕の考えだけどね」

「話した限り、腹に一物ありそうな人だった。そういうこと、ってわけ」

橘の中で何かしらの納得がいったみたいだけど、何かそれに対してイヤな予感がしたため一応確認してみる。

「そういうこと?」

「あたしのことをからかって遊んでいる性悪女」

「……あながち間違ってないんじゃないかな。もうそれでいい気がしてきた」

昔馴染みが若干の誤解を受けているところを見過ごしてはおけない、と橘と真面目に話そうとしたが、ダメだ。たくみのことが絡むとどうも僕は思考が鈍る。それは昨日のことが関係しているのかもしれないし、昔のことが尾を引いているのかもしれない。

「天野の知り合いだもの。碌な人じゃないとは思っていたから」

「まあ確かにそこまで碌な知り合いはいないけどさ。そう言わなくていいんじゃない? たくみはあれでマシな方だよ」

「だから碌なのがいないんじゃない。あれでマシな方って相当アレよ」

言うほどか? と思う。たくみは少し行動的すぎるきらいはあるが僕たちの中では最も常識がある人だ。その認識自体が橘からすればズレていると感じるのだろう。

「まあ、たくみにそこまで悪気はないと僕は思うから。そこまで邪険にしないでやって欲しい」

「それだけ? 他に言うことは?」

「他に? 何か僕やらかしたっけ?」

心当たりがないのでオウム返しのような形になってしまった。そんな僕に橘は呆れた目線を向けている。左手首をそっとなぞりながら、ついでにため息を付け足して橘は言葉少なに言う。

「昨日、夜、外」

「え、あれ見てたの」

「ええ。あのとき、あたしのことについて話していたんじゃないか、とあたしは勘繰っていたわけだけど。何か申し開きはある?」

「申し開きも何も……あれは本当に個人的なことについて話していただけというか、人様にお聞かせできる内容ではとてもないと言いますか」

頬が熱くなっているのがわかる。話が聞かれるような距離に人の気配はなかった。寮の窓からもおそらくあの場所は見えない。ならばどこから見ていたというのか。どちらにせよ見られていたのなら、言い訳といろいろと話す必要が出てきた。

「あれは本当に、橘のことについては話してない。第一、昨日の昼の時点でたくみは橘に何か言ってなかったか? もしそうなら時系列が合わないし、人が話しているのが全部自分の話題だと思うのは自意識過剰というかなんというか。あれはただ何て言うのかな? あれで、ただ久しぶりに会ったのにちゃんと話してなかったね、みたいな感じの話をしていたんだよ。だから橘は何も関係ないっていうか、むしろ関係ある方が困るって感じだった。中学から一年近く会ってなかったわけで、積もる話もあったんだよ。違うんだこういう話をしたいわけじゃなくてね、橘。とにかく違うんだよ」

我ながら言い訳が言い訳の体を成していなくて悲しくなる。しかしそんな情けない言い訳を晒した結果、橘からは予想外の反応が得られた。

「天野が取り乱すのって珍しいね。そういうところは初めて見たかも」

くつくつと笑う橘。

「別に疑ってないわ。ただ鎌をかけただけ。そしたら、想像以上に慌てるんだもの。おかしい。だいたい天野、あたしに中学時代のこと軽く話してるじゃない」

ツボに入ったのか彼女は本格的に笑いだす。薄々思っていたことだけれど、橘はどうも性格に難があるようだった。お互いに素を晒しているとはいえ、本当にそれが素なのかは当人だけが図りえる。橘は僕の知らない一面を知り笑い、僕は橘の一面を再確認した。

「ほんっと、おかしい」

「そこまで笑わなくてよくない? さすがに傷つくかもしれないな」

「傷つくわけがないでしょ? 天野。そういうタイプじゃない」

「そういうタイプってなに……?」

とりあえず橘とたくみの関係性は僕が笑われることにより、一応の安定化を見せそうであった。よく考えれば笑われる必要は一切なかったし、笑われ損だけど別にいいかと気を取り直した。そうやって僕は少しずつ自分に自覚的になりながら日々を過ごしていく。

変わらないと信じていたものは、案外簡単に変わってしまうものだということを、僕は中学で学んだはずなのに、何もわかっていなかったのだ。



橘から解放され、再びやることがなくなる。いや、やるべきことはあるのだ。課題は進めておかなければいけないし、寮の掃除もある。しかしそれは義務であり、僕自身が進んでやりたいと思ったことではないのだ。

かといってうだるような暑さの中、別の何かをする気力が起きるわけもなく、こうして懇々と暑い日差しが降り注ぐ中、時間が過ぎ去るのを待っている。

「清水、まだなの?」

「もう少しだけ待ってくれ、もう少しだけ」

僕から絡むことはあってもあちらから絡まれることは少ない。そんな清水が僕に声をかけてきて、何をやらされるかと思えば「ここで立っていてくれ」という謎の頼み事だった。嫌がらせ目的じゃないし、熱中症対策はしてくれというその言葉を信じてひたすら立っているものの、これは言わば清水から課せられた義務である。率先してやりたいことではない以上、清水に文句の一つや二つ言いたくなるのは当然の心情と言うものだった。

それからしばらく経った後、窓から「もういいぞ、ありがとう」という声が聞こえてきた。食堂に避難してさっさと扇風機の前に行く。タオルで拭いていたとはいえ、汗が気持ち悪い。制汗剤も吹き付けてスースーする肌に全力で風を当てる。

「あっついな……」

「悪い悪い、どうしてもやってもらわなくちゃいけなかったからな。これ、お礼」

寮からやってきた清水から手渡されたのは棒アイス。ソーダ味でシャリシャリとした食感が特徴だった。

「ありがとう」

「お礼にお礼を言われるのって何か変な感じだな」

言われてみればそうかもしれない。反射的にありがとうと言ったが、お礼にお礼を言っていたら堂々巡りになってしまうのではないだろうか。

「まあアイス美味しいし、別にいいんじゃないかな」

「俺の貴重な小遣いで買ったんだからぜひ味わって食べてくれよ」

「あ~、うん。味わうほど心に余裕がない」

今はただ体を冷ますことしか考えられない。アイスも美味しいとは感じるけれど、それは味というよりは冷たさで美味しさを感じている気がする。冷たいから気持ちいい→美味しいと変換されているのかもしれない。人体にそんな仕組みがあるのかは不明だが。

「それで、僕は何をさせられていたのかな? さすがに教えて貰わないと納得できない」

「それはまあ……そうか」

炎天下の中立たされたのだ。人によっては嫌がらせだと取られていてもおかしくはない。橘あたりはそんな解釈をする可能性が高い。僕がそうしない人だと狙って清水も話を持ち掛けてきたのはわかっているが、それを加味しても何かしら、せめて目的くらいは教えて欲しいところだ。

「無理に、とは言わないけどね。どうしても言いたくないならこれ以上は聞かないよ」

朝のことといい、何かと秘密が多い男だ。そう呆れそうになったとき、清水から返答がある。

「ここまでしてもらったからな。教えてやるよ、俺の秘密」

それは、と。予想外の反応で面食らう。半ば諦め気味に言ったからこそそれに対してリターンがあると驚いてしまう。

「本当にいいのかな? 今まで散々拒否された覚えがあるんだけど」

「それはお前が本気で俺のこと知ろうとしてるわけじゃなかったからだ。今は何か違う感じがするし、あとしてもらったことに対して何もしないのはこっちとしても気持ち悪いしな」

言うだけ言ってみるかくらいの感覚で話していたのが見透かされているとは。たくみにも言われたことがあるが、どうも僕の嘘は下手くそらしい。

俺の部屋に来てくれと言われたので言われるがままに付いていく。僕の部屋と同じ扉のはずなのに、醸す雰囲気が全く異なるのはやはり住んでいる人の違いだろうか。

清水が部屋を開けると同時に、何かの独特な匂いが鼻を付く。

「……もしかして、絵? 絵を描いているのか?」

ある程度の整理はされているとはいえ、そこらに散乱している画材や絵の具を見れば容易に察しがついた。

「ああ。絵を描くために、俺はこの寮に残ってる」

言葉通りの意味じゃないだろう。言葉の裏に隠れた意味を類推しなければならない。いや、絵を描くためというところはおそらく本当なのだろうけど。

「絵を描くだけなら、実家でもできるんじゃないの?」

「許してもらえなかったんだよ。だから寮があるこの学校に来た。結局寮に入るのも親の反対で一年遅れたけどな。何とかこうして自由に絵を描けるようになってるってわけだ」

朝からやってることも絵だよ、と付け足して言う。

「あそこに立ってもらったのは、単純に絵のモデルだよ。もちろん天野自身をモデルにしてるわけじゃない。そこに立っている男、っていうことで適任なのがお前しかいなかったんだ」

「モデルにするなら、って言おうと思っていたよ」

そこの良識はわきまえているようだった。芸術家気取りで変な行動を取る人、では少なくともないらしい。まあ清水はそういうタイプには見えないけど。

「随分と厳しい家庭なんだね」

絵を描くことすら許してもらえないとは。僕のところとは大違いだ。両親は僕に対して基本的に放任主義というか、無関心だ。迷惑だけはかけるなよ、と念押しはされている。中学時代に起こしたことが起こしたことなのでそこに対して強く反論はできないのだけれど。

「厳しいというか、なんだろうな……俺のことを考えてくれているのはわかるんだけど、押し付けがましいっていうか。だから反発したくなるんだよ」

「もしかしてその髪もそういう意味があったり?」

「これは単純に俺がこういう髪が好きなだけだよ。さすがにそこまで安直じゃないわ」

ヤンキー的な意味ではなく、本当にオシャレでブリーチをしていたらしい。まあ金髪っぽいってだけでヤンキーとギャルになるわけではない。オシャレ目的だとは何となく察していたわけだし、その予想が当たっていたことを喜ぼう。特にお金が発生するわけでもない賭けで勝っても得られるものは少ないが、一応。

「まあそれはいいとして、別に隠す必要はなかったんじゃない? 絵を描くことって僕はすごいことだと思うけど」

「そうやってすごいって言われるのがイヤだったんだよ。俺は何もすごくないからな」

絵を描けるってひけらかしてるように見られるのも嫌だし、と続ける清水。

「なんとなくわかるような、わからないような」

僕が休日に走っていることをすごいと言われることと同じ感覚かもしれない。僕にとってはいつもやっている習慣のようなものだから、人からすごいと言われてもそんなことはないと思ってしまう。程度は違うし一様に比べることはできないが、通じるものはあるだろう。

「それに絵を描いているとわかったら、いろいろと面倒なことを頼まれたりするし」

「ちゃっちゃと絵を描いちゃって、みたいな?」

「そうそう、そういうの。そんな簡単なことじゃないって言いたくなるけど、それだと感じ悪くなるしな。いちいち丁寧に断るのもめんどくさいから、端から言わないようにしてるってことだ」

「なるほど……でも、どうして僕に教えてくれたのかな。いくら暑い中で立っていたとはいえ、そんな秘密と釣り合うほどの成果はあげていないと思う」

「実質協力してもらったようなものだから。言わないのはフェアじゃないと思ったんだよ」

まあそういうことだけど、他の奴らには言わないでくれよと念押しされて清水とは別れた。しっしと虫でも払うように部屋を追い出されたが、まあ照れ隠しみたいなものだろう。真面目な話をするのは気恥ずかしいものだ。それを人に見られていたのならなおさらである。


思わぬ形で清水の秘密を知り、そしてやることが再びなくなる。課題でも進めようかと思うが、やる気は全く起きない。課題に対してやる気がないのは全国の学生共通の問題だと思う。

そうなると考え事が始まってしまう。一人でいるといつもこうなる。

たくみは人に踏み込んでいく勇気がある。清水には人に秘密にしてでも描きたいものがある。では僕はどうだろうか。何の取柄もない僕に何ができるだろう。

僕は人から変と言われるけれど、どこが自分で変なのかはあまり自覚がない。強いて言えば人と距離を詰めたにも関わらず、離れるような動きをしていたことだろうか。そんな行動もこれから自制しようと決めたわけだし、本格的に僕らしい僕らしさというものが見つけられなくなっていく。

ふと橘はどうなのだろう、と思った。

橘には何か自分が自分と言える何かがあるのだろうか。いつもの行動の本当の理由はなんだろう。本当に僕が想像している通りの理由なのだろうか。気になりはするけれど気になる止まりで彼女に直接聞くような勇気は持ち合わせていなかった。腹を割って話せる相手にすらこれなのだから、誰にならすべてのことをさらけ出してしまえるのだろう。

そんな人はいないのかもしれない。いや、いないと諦めてしまって何もしていないだけか。

そんなタイミングでスマホがぶるぶると震えて通知を知らせてくる。画面を見ると、たくみからであった。「ちょっと来てくれない?」というガバガバな誘い。

何もすることがなかったのでちょうどよかった。


「遅いよ、あいくん」

暑いからか、たくみは髪の毛をアップにしていた。女子の普段見ない髪型は多少ドキッとするものがある。それが髪の綺麗なたくみともなればそれは少しばかり心臓が跳ねても致し方ないことだろう。

もちろんそんなことはおくびにも出さず、適当な返事をする。

「ごめん。場所がよくわからなくて」

「一年通っているのにそんなことがあるの? もし本当なら病院に行く?」

「いや、冗談だよ」

人と行動するときに少し遅れてしまう癖は抜けていなかった。そう簡単に抜けているならそれは癖になっていないだろう。

それに原因の一端はたくみにある。場所の指定がガバガバすぎるのだ。最初の文言の時点で場所の指定がない。昔は口頭で、そして五人で約束をしていたからそういう一面は見えていなかった。幼なじみでも見えていないことがたくさんあるものだ。

「それで、どこか行くの? 暑いからあまり歩かないところがいいな」

言ってから僕が去年橘を誘ったとき、橘も同じようなことを言っていたなと思う。

たくみは考える素振りを見せてから言った。

「私、引っ越してきたばかりだからわからない」

「……ああ、そういえばそうだったね」

あまりにも寮に馴染んでいるから昔から居たような錯覚を起こしていた。元々数年来の知り合いということもそれに拍車をかけている。

「じゃあ僕が決めていいかな」

そう言うとたくみは指を顎に当てて「ん~」と考える素振りを見せる。そして結論が出たのか指をすっとこっちに突き付けてきた。指を指すんじゃないと言いたいが、本題とは関係ないので突っ込むことはやめた。

「いいよ。あいくんが行く場所ならたぶん静かで落ち着いたところだろうしね」

「信用があるのか貶されているのかわからないけど、信用されているのかな?」

「半々かな」

「半々」


そういうわけでファミレスにやってきた。

僕は店を知らないのである。まあたくみだし大丈夫だろうと思っていたのだが、たくみの表情はあまり芳しくない。橘と来たときは何も問題はなかったのだが。

「あのさ、あいくん。仮にも女の子とお店に行くんだからさ、もうちょっと考えた方がいいと思う」

「そんなこと言ってもな……橘と来たときは特に何も言われなかったけど」

むしろ橘側からの提案でサイゼリヤに行くことになったと記憶している。

「橘さんはほら、えっと、少し変わっているから」

「そういうものかな。別にファミレスで問題ない気がする。涼しいし、今の時間帯ならそこまで他のお客さんがいるわけでもない。ドリンクバーでいくらでも飲み物は飲めるし、口寂しいならポテトも頼める。適当に話す分にはうってつけじゃない?」

「そう言われればまあそうだけど……女の子はね、意外と雰囲気を重視する子の方が多いと思うよ。シャレオツなBGMがかかってて、何かよくわからない材質の木が机とか椅子に使われてて、メニューが筆記体で書かれている~、みたいな」

「それ貶してない? 本当にそう思ってる?」

ひと悶着はあったが結局たくみはこの辺りの店を知らないのでそのままファミレスで時間を潰すことになった。「あいくんらしいと言えば、らしいからいいけどさ」という言葉に納得がいっていないが、そういうものだと思うことにした。本気でイヤなら地図アプリを使うなり何なりして別の店に向かうだろうし、それをされないということはつまりここでいいのだろう。今は自分に都合のいい解釈をすることにした。

予想通り他のお客さんは少なく、すんなりと席に案内される。ドリンクバーとポテトだけ頼んでドリンクを取って席に着く。僕はアイスコーヒー、たくみはバニラオレを注いでいた。

一口飲んで「うん、甘くておいしい」と呟いた。甘ったるいものが苦手なので、そういう飲み物を美味しく飲める人のことは羨ましく思っていたりする。個人の好みの問題だから仕方ない。そういう舌に生まれたことを呪うしかないだろう。かといって苦いものが得意なわけでもない。アイスコーヒーを飲みながら顔をしかめそうになったが、自分で注いだものだからそれは表情に出さないように努めた。

カップをトンと机に置いたたくみはこちらの目を見ると、にやっとしながら話しかけてくる。

「それであいくん、橘さんとはどうなの? 上手くやってる?」

「なんでたくみに心配されるのかはわからないけど、関係性に問題はないと思っているよ。あと僕と橘はたくみが思っている関係とは少し違うかもしれない、と付け足そうかな」

「そうなの? 橘さん、あいくんには心を開いている感じに見えるな」

確かに他人が見たときに、橘の僕に対する態度は他の人に対するそれと明らかに違うだろう。しかしそれは一重にお互いに軽い秘密を明かし合っているというだけだ。いわゆる男女の関係というものでは決してない。

「そういう風に見えるだけだよ。橘は気まぐれなんだ。付き合わされる僕の身になって欲しいし、もし変われるなら誰かに変わって欲しいとも思うね」

「嘘ばっかり。それならあいくんが橘さんから離れればいいだけじゃん」

そういうところは変わってないんだね、と如何にも不満ですという顔で言われてしまう。確かに嘘なんだけど、そう簡単に指摘されると反論をしたくなる。

反論を構築する前に、アイスコーヒーを一口含んで飲み込んだ。舌の上にあまり乗せていなかったせいか、苦みは口に残らなかった。

同じようにバニラオレを口に含んだたくみが先に言葉を発する。

「私と話したときに、すぐに出てきたのはあいくんの名前だったけど? それはどう説明するのかな。少なくともあいくんは信頼されているんじゃない?」

「消去法だと思うよ。それを話した相手は僕しかいない、目の前の相手がそれについて近いところを突いてきた、ならあいつが伝えた可能性が高い、ってね」

「っていうことは、あいくんしか知らない橘さんの秘密があるんだ? へぇ」

ふ~ん、そうなんだ、と意味を含めてしかいない言葉の羅列。面倒くさくなってくる。

「橘とはそういう関係じゃないけど、親しく、もないか。何ていうのかな……よくわからなっていないんだよ、僕も橘も、自分たちの関係性をね」

橘もとつい言ってしまったが、つい出てしまったということはおそらくそれが僕の本音に近いものなのだろう。

僕と橘は似ているわけでもなく、かといって正反対なわけでもない。橘は人に近づかれることが出来ないし、僕は人に近づくことが出来なかった。ただそれだけの話なのかもしれない。ただそれだけのことを、回りくどく考えているだけなのかもしれない。それはわからない。

橘の考えていることを類推して行動することは出来る。けれどそれだけだ。それだけ以外の何ものでもないのだ。そう思っている。

「自分のことなのに、わからないの?」

吸い込まれるような瞳に見られると、つい目を離したくなってしまう。それでは今までと変わらないから僕は目を逸らさずにたくみと話す。

「自分のことをちゃんとわかっている人なんて、きっと少ないよ」

「……うん、そうだね。自分とちゃんと話さないといけないから」

「それは的を射た表現だ。本当に、そんな感じだ」

自分と話す。内なる自分と対話する。自分とコミュニケーションを取るのだ。それは簡単なようでいて、意外と多くの人ができていないことだと思う。あのとき自分がどう思っていたのか、という形で過去の自分と話すことはできるだろう。しかし進行形で話す、今の自分自身の気持ちに向き合うということは簡単にできることじゃない。

僕だってこんなことを考えてはいるが、碌に自分のことをわかっていないのだ。わかっていたらもっとコミュニケーションだって上手くできているだろうし、過去のことに縛られてなんかいないだろう。

「橘さんのこと、教えてくれたりはしないよね」

「それはそうだ。橘からたくみに言わない限り、僕がたくみのその話をすることは絶対にない」

「そう言うと思った」

上機嫌なのか、たくみの表情が普段より柔らかくなる。元から表情が柔らかいし、話し方も穏やかだから気づきにくいが、機嫌がいいときは目尻が下がってより柔らかい顔をする。一年と半年程度の時間が経った今でもそんなことは覚えている。

「橘さんと仲良くしたいんだけどね。仲良くしたいんだけど、どうしたらいいのか、具体的に何をすればいいのかわからなくて」

困ったように言うたくみは言外に「だから仲良くなった方法を教えて欲しい」と言っていた。目で訴えかけてくるのはやめて欲しい。目を見られてお願いされると非常に断りにくい。僕はノーと言えない典型的な日本人なのだ。もちろん、冗談だけど。

正直な話、橘とたくみに仲良くなって欲しいとは思わない。結託でもされて僕をいじる側に回ったら厄介だし、あとはなんだろう。何かイヤだと思う自分がいる。何故かイヤだと思う自分がいるのだ。自分の中にある変な感覚がよくわからなかった。

しかしたくみが橘と親しくなろうとするのを止めることはできない。僕の勝手な都合で人を縛りたくないからだ。だから言っていいラインぎりぎりのところを攻めて橘のことを伝える。

「橘は自分から話しかけてくるはずだよ。こっちからぐいぐい行っても避けられる」

「心当たりがすごくあるのがちょっと困っちゃうなぁ。でもぐいぐい行かないと固いドアって開かないよ?」

「ドアじゃなくてシャッターだよ。開けるか閉じるか、自分でしか選べないシャッター」

「シャッターかぁ……難易度高そうだね。本当、どうやってあいくんが橘さんと距離を近づけたのか知りたいよ」

「僕としてはたくみがどうして橘と仲良くなりたがるのかを知りたい」

「人と仲良くなりたいって思うのに、理由が必要?」

「たくみは確かに人といる方が安心するタイプだけど、橘はそうじゃない。たくみはそういう人に無理矢理距離を詰めるような人じゃないと思っているから、気になってるってこと」

しばらく黙って考えるような素振りを見せてくる。考える人のような格好をして黙考する。耳にかかっていた黒髪がさらっと落ちてきた。それをかけ直しながらたくみは口を開く。

「危うい人だなって思ったから、かな」

「危うい、ね」

「不安定と言ってもいいかもね。とにかく何かにいつも怯えている感じがする。だから拒絶っていうバリアを張ってる、そんな感じ。だから誰かがいてあげた方がいいなって思った。私じゃなくてもいいけど、私でもいいんじゃないかなってさ」

概ね正解だと言いたいところだ。だがそんなことをしては言葉を濁した意味がない。それに正解は僕も知らない。だから正確には僕の中の橘の姿と重なるといったところか。それなら口に出してもいいのだろうか、と思う。あくまでも橘本人から聞いた話ではなく、僕の憶測なら言葉にできるんじゃないかと期待する。

言葉は上手く形になってくれなかった。

「橘は一人が好きなんだよ」

「……嘘ばっかり。最初に会った日に一緒にいたじゃん」

アイスコーヒーの中に入れた氷が、時間を知らせるようにカランと音を立てた。


「結構話し込んじゃったね。しかも真面目な話ばっかり、こんなんじゃ高校生らしくないよ!」

「まあ確かになぁ。らしくない」

今まで真面目な話ができるのは担任と橘くらいだった。しかし担任は大人と子供という立場の違いから、橘は単純に性格の違いから建設的な話はできなかったように思う。

昔馴染みというのはありがたいものなのだなと少し感じた。たぶん、他の奴らだったらまた違っていただろうけど。ここに来たのがたくみでよかったと思う。

「というわけで、らしいことをします」

「って言っても、高校生らしいことしてたよ。ファミレスで駄弁るってらしくない?」

「話してる内容があんな真面目な話じゃダベるには入りません。あいくん、私はさっきの会話からひしひしと感じていたんだよ。君には青春に対する思いが足りていないとね……」

「ほっといてくれよ……」

青春らしいことというのはしてみたいと思っている。実際にできるかどうかは別として。

「橘さんが清水くんに取られてもいいの?」

「どうでもいい、と言いたいところだけど清水と橘が仲良くするのはちょっと想像できないな……それはそれで見てみたい」

「歪んでるね~」

快活に歪んでいると言われた。どこらへんが、なのかまでは怖くて聞けなかった。

僕を歪み認定した目の前の女子はなおも話を続ける。正直外に出た瞬間から暑くて、あまり外にいたくないというのが本音だ。話を早々に切り上げてどこか別の場所に移動するか、寮に帰るかどちらかしたい。

「それはもう置いておくとして、カラオケとか、行ってみたくない?」

「カラオケね……僕は手拍子が得意だけど、たくみはどうなの?」

「私はいくつか歌える曲があるよ。有名なのばかりだけどね」

好きなバンドとかアーティストとかが特にいるわけじゃないらしい。それは僕も同じで、強いてあげるならピアノの曲が好きなくらいだ。カラオケで歌詞のない曲を歌うことはさすがに難しい。

そもそも二人で行くものなのだろうか、カラオケというのは。中学時代は田舎暮らし、高校生になってからも友達らしい友達がいなかったから普通の高校生の過ごし方というものがわからない。たくみはどうだろう、友達が多そうではあるが、地元の高校に進学したはずだから都会での遊び方というものを知っているとは想像しづらい。

そこまで考えて、そういえばどうしてたくみは転校してきたのだろうかと疑問を抱く。何かしら、それもよほど理由がなければ転校という手段は取らないはずだ。そのよほどの事情を僕は全く知らない。自分のことだけ聞いてもらって、そのことを失念していた自分を情けなく思う。

今切り出す話題ではない。けれど大事なことだから、頭の隅に留めておかなくてはならないと思った。

「どうかしたの、あいくん」

「いや、カラオケで歌える曲が片手の指の数以下しかないなと思ってて」

「そんなに少ないの? ならカラオケはなしかなぁ」

「何かごめん、行くところ絞ったみたいで」

「いいよいいよ、別にすごく行きたいわけじゃないし、大丈夫だいじょうぶ」

そう言ってもらえると本当に助かる。趣味と呼べる趣味がなさすぎて、こういうときに困ってしまう。積極的に趣味探しというものをした方がいいのかもしれない。趣味があれば話のタネにもなるだろう。そこから話を広げて、お互いのパーソナルな部分まで少しずつ少しずつ踏み込んでいく。そんな会話の流れを作る可能性を切ってしまっているのが今の僕だ。

「店も知らないし、本当にこっちに来てから僕は何をやっていたんだろうね……」

「勉強と運動と睡眠じゃない?」

「つまり何もしてないということだよね、それ」

「やってるじゃん、高校生らしいこと」

「高校生がしなければならない義務って言わないと語弊がありすぎるでしょ」

確かに高校生がしていることだ。そういう点ではらしいことと言えるかもしれないけれど。

「まあ別に、らしいことなんてしなくてもいいと思うよ。あいくんはほら、ちょっと変だからさ。無理に普通の青春に合わせなくても何とかなるんじゃない」

「変って言うけどさ。変って言うけど、具体的に僕のどこらへんが変なの?」

そう言うと考える間もなくたくみは即答した。あたかもそれはわかりきっている事実であるかのように、1+1が2であるように即答したのだ。

「距離感だよ」

「距離感」

あまりの即答ぶりにオウム返ししか出来なくなってしまう。

「私とあいくんの関係は何?」

「知り合い、じゃないの?」

「清水くんとは?」

「寮生かな」

「橘さんとは?」

「同級生で寮生だよ」

「うん、全部一個遠く距離感を置いちゃうんだね」

呆れたようにため息を吐く。こちらに来てからたくみに呆れられるのは何度目だろうか。

「私とあいくんは幼なじみ、清水くんと橘さんは友達、ってなるのが普通だと思うよ。私が見た限りでは、だけどね」

あいくんが変なのは今更だと思うから別にいいけどさ、とさっさと歩いて行ってしまう。言いたいことだけ言って進まないで欲しい。こちらはまだ言われたことの整理を付けてないのだ。

「というか、どこに向かうんだよ」

「目についたところに行こうよ。そういうのもいいんじゃない?」

ニコっと笑いかけられる。そんな顔をされたらもう従うほかない。僕が笑顔と目を見られることに弱いとわかっていての行動だから、本当にたくみには敵わない。

「全部、わかっちゃうのかな」

口の中でそう呟いた。

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