5 昔話

やけに長く感じる夜だった。

朝に聞いた橘とたくみの話。あんな風に距離を詰めていけるたくみを妬む気持ちは正直ある。僕にはない技能だし、それをしていい資格もない。人の秘密に踏み込むには覚悟が必要で、僕は到底そんなものを持ち合わせていない。

考え事ばかりをしてしまう夜だった。

一人で過ごす時間が長いと、どうしても人との対話が不足してしまう。だからなのか、勝手に自己完結の自分との対話が始まる。ようするに考え事が異様に増えてしまう。ほとんどの内容は身のない話ばかりだが、印象的な出来事があると考え事は必然そちらに引っ張られる。

静かな夜を破ったのは、一つの音。スマホが鳴らすメッセージアプリの通知音。

普段なら朝まで見ることはないであろうそれを、眠れない夜がそうさせたのだろう。僕は開いて中身を確認した。一番上にあるそのメッセージ。


『外に出られる?』


屋内よりも自然な風が行きかうからか、外は幾分か涼しく感じる。時間は二十三時、とっくに門限も消灯時刻もすぎていた。本来なら外に出ることはできないが、寮と食堂の間は外を経由する作りとなっている。

そこで待っていると、僕にメッセージを送ってきた人物が姿を現した。

「お待たせ。待ったかな?」

普段は下げている髪を今はアップにしていた。熱がこもって暑いからだろうと雑に考える。

「そんなに待ってないよ、たくみ」

たくみはにへらと笑いつつ「嘘が下手だね」と言う。それはいつも浮かべている人好きのする笑顔ではなく、昔、中学時代にたまに見せていた少し不安になる笑顔だった。

「それで、何か用事でもあるの?」

そう言うとたくみは「用事がなかったら呼び出さないよ」と至極当たり前のことを口にした。言われてみればその通りで、間抜けな発言だったなと思う。

「用事というか、話だ。あいくんと話がしたかったんだよ」

「電話じゃダメだったのかな」

「こういう話は直接会って話さない。誤解されちゃイヤだからね」

出来れば会ってすぐに話したかったけどさ、と続ける。すっとたくみは目線を動かす。僕の目とたくみの目が合った。反射的に目を逸らした。再会したその日と同じように。

「そのことについて話に来たんだ」

そのことというのが何を指しているのか、わからないほど察しが悪くはない。だけどそれは話したくないことで、いくら当事者同士といえども語ることは憚られた。

橘のときと同じだ。たくみは人の隠し事に躊躇なく踏み込んでくる。それがいいことか悪いことなのかは当人同士でしかわからない。自分のことだってろくすっぽわかっていない僕には、自分の心がどういう反応を示しているのかを言葉にすることができなかった。

「昔の話はもういいよ。終わったことだから」

過去は変えられない。今更どれだけ語ってみせたところで何も変わらない。もう既に中学時代のことは終わってしまったことなのだ。終わったことを掘り返すのは憚られる。死体を掘り返すような気持ち悪さがある。自分で自分の傷口に塩を塗り込むような真似はしたくないのが人情というものだろう。

たくみはくるっと回って壁に背を付けて、下から僕の顔を覗き込むようにして言う。目を逸らせないように、瞳で僕を吸い寄せるようにして話す。

「その終わったことをずっと気にしている人がそれを言うの?」

「……痛いところを突いてくる」

「あいくんの真似だよ。君もいつも人の痛いところを突きたがるからさ」

「少し自覚してる。あまりよくない癖だと思ったよ、今」

「イヤな言い方するなぁ。あいくんらしいと言えばそうかもしれないけど」

そう言うと壁からトンっと背を離して彼女は僕に一歩近づいてきた。行動の意味を量りかねていると、その前にたくみは言葉を紡ぐ。

「教えて。あのときあいくんがどう思っていたのか。教えるから。私がどう思っていたのか」

その黒い瞳から逃げるという道は残っている。もう夜だ。大きな声を上げれば寝ている担任が起きる。外に出ていることがバレれば二人とも叱責は免れない。だから、そうすればいい。そうすれば終わりだ。

「あれは私も悪かったんだからさ」

しかしその言葉に、思わず彼女の目を見た。

吸い込まれてしまいそうな瞳。その目は澄んでいると思っていた。あのときから変わっていないと思い込んでいた。

今の彼女の目はしっとりと濡れている。澄んでいるなんて到底言えない。目線は定まっているようでブレブレだし、僕のことを見ているようで、その焦点は僕に合っていない。それでも僕はそんな瞳を綺麗だと感じた。澄んでいる振りをされるよりはよほどいい。澄んでいるものを無理矢理見ようとしていた僕よりも、彼女の方が誠実だった。

「……僕だよ、悪かったのは」


中学二年生まで、少なくとも僕たちの仲は良好であったと思う。その冬休みからだろうか。徐々に一つの歯車が自己主張を始める。全く何も問題はない、潤滑油さえあればどうにでもなるはずだった一つのズレ。

「今日はちょっと。ごめんなさい!」

たった五人しか同級生がいない中、その中心人物に目を付けられたらどうなるだろうか。それは僕やたくみがいない場所で行われていたらしい。このときのことを僕はよく知らない。

ズレ始めた歯車はかみ合わない。だから外れる。たった一つ外れるだけで、容易にすべての歯車は狂いだす。

「中井さんは……今日も休みですか」

突然学校に来なくなった彼女を心配して様子を見に行こうとする僕とたくみ。しかしナオともう一人は反対した。「俺たちに風邪が移ったら、あいつも申し訳なく思うだろう」という納得できなくもない理由だった。

しかし一週間が経って、二週間が経って、さすがにそんな言い訳が通用するはずがなかった。イヤな予感がした僕は単身で彼女の家を訪ねる。

「わたし、転校するから」

中学三年生の初夏、そんな時期に転校すれば転校先でどういう環境になるのか。それがわからないほど彼女はバカじゃない。それでもそちらを選ぶほどに追い詰められていた。髪はやつれ、目の下にクマが出来ている。しかしそんな外見よりも、そこに現れない変化の方が僕には大きく感じられた。

「ナオ、って呼ぶ義理ももうないかな……はは。斉藤に言っておいて。あんたのせいでわたしは最悪の気分になったって」

一週間後、彼女は学校を去った。名前も聞いたことのない町。この県では聞いたことのない地名。あとはもう察するしかなかった。

僕はいろいろな感情がない交ぜになって、何をすればいいのかわからなかった。どうすればよかったのか。自分のせい? 自分がちゃんとみんなと向き合わなかったから? 何が原因でこんなことが起きてしまったのか。その理由を、僕はわかりやすい他人に求めた。


「お前、自分が何やったのかわかっているのか?」


僕が出来たことは、彼を一発殴ってやることだけだった。

殴ったときの彼の目は今でもいやというほど覚えている。なぜ自分がこんな目にあっているのかという、被害者面をした濁った瞳。事実彼は被害者だった。僕の勝手な行動に巻き込まれてしまった被害者。彼女を虐げていたという事実があるとはいえ、僕が彼を殴ったという事実もまた存在する。

元より彼ら二人とは性格が合わなかったのだからこれで人間関係が壊れようとどうでもいいと思っていた。昔から一緒にいるだけの腐れ縁なんて、腐る前に切ってしまいたかった。

口の中を切った程度で、それに相手側の親も彼のことをなんとなく察していたのか、話し合いでお互いの家族は納得した。当人同士の関係は当然終わっている。しかし殴った側と殴られた側、傍から見ればどちらが悪かは明確だった。

あることないこと、様々な噂が飛び交った。やることも行くべき場所もない田舎。話すことだけは皆がやっていること。家族にも迷惑をかけてしまった。

だから僕は学費の安く寮があり、そしてこの田舎から離れることができる高校を志望した。

「あいくん、大丈夫?」

このときに話しかけてくれていたのは家族と、たくみくらいのものだったと思う。そのたくみに対しても距離を置いた。自分のせいで五人の居場所はなくなってしまったといっていい。もしかしたら再び五人で会う未来もあったかもしれないのに。

「ごめん、たくみ」

その可能性は、僕が完全に壊してしまった。合わせる顔がなかった。

家と学校。その二つが繰り返され、四人は話すこともない。斉藤ともう一人だけは話をしていたようだったけれど、よく覚えていない。

勉強しかすることがなかったからか、成績が目に見えて上がったのは皮肉としかいいようがないだろう。受験は乗り越えることができた。精神的に追い詰められていたからか、面接の点数は芳しくなかったけれど。

高校に入学するときに一つのことを決めた。


『薄い人間関係で満足すること』


クラスメイトとのやり取りは事務的に、最低限の日常会話は行い、誰にも踏み込まない。踏み込まれればやんわりとそれを断る。そうやって過ごす。友人程度ならばいいだろう。しかし親友はダメだ。いつ自分がその形を壊してしまうのかわからなかった。

それが僕にできる努力の形。

橘にも清水にももちろんたくみにも踏み込めず、薄っぺらな言葉だけを話すだけの男だ。



「私はね、みんなでいることが好きだったんだ」

でもそうじゃない人もいる、とたくみは続ける。

「中井ちゃんはそういう人だったの。でもそういう人がいて当たり前じゃない? 私だってずっと誰かと一緒にいるのは疲れるよ」

僕もそうだった。いつも五人でいるけれど、その五人にはどこか居心地の悪さを感じていた。仲がよかったとは思う。居心地の悪さ、と言うのも感覚的には違う気がする。ただ僕は他の男子二人と合わなかっただけだ。五人よりも男子を除いた二人、三人でいる方が落ち着く。それを居心地の悪さと捉えていたのだろう。

「だから言っちゃったんだ。『たまにはわがままを言ってみてもいいんじゃない?』って」

そんなことが関係をずらしてしまう引き金になる。たかがその程度のことで容易に人間関係のバランスは保たれなくなる。

「結果はあいくんも知っている通り。ナオくんも悪気があったわけじゃないと思う。きっと関係が変わってしまうことが怖かったんじゃないかな」

常に五人でいようとしていたのはナオだった。五人の中の誰よりも、彼は五人であろうとしていた。彼に取っては僕たち五人でいるあの関係が安心の場だったのだろうか。今となってはわからない。

「私はナオくんを止められなかった。気づけなかった。ただ中井ちゃんを見て、見かねて、ずっと話してあげただけだったの。何もしてあげられなかったんだ」

それは彼女の救いになっていたのではないだろうか。たくみもそうすることによって自分が何かをしているという感覚に陥っていた。これで大丈夫だと慢心していたと言う。僕が彼女の家を訪ねるよりも早く、そんな状態になっていた。

僕は周りのことなんて何も見えていなかった。

「転校した後も連絡は取ってたんだけど、やっぱり私じゃダメだったみたい。もう連絡してこないでいいよって言われちゃった」

たはは、と自嘲気味に笑う。

「だから、私のせい。行動出来たはずなのに動かなかった、私のせいなの」

そんな顔をするたくみを見ていたくなくて、口は勝手に動き出す。

「違う、たくみのせいじゃ……」

「違うよ」

「違うんだよ。僕が壊したんだ、みんなの関係を」

「そうじゃないよ。私のせいだし、あいくんのせいだし、ナオくんのせいだし、中井ちゃんのせいだし、青木くんのせいなんだよ」

言葉を失うとはこのことだろう。たくみの言っている意味がまるでわからない。

「ナオくんは自分の居場所を守ろうとした。青木くんはナオくんに付いていった。あいくんはナオくんが許せなかった。中井ちゃんは一人になりたかった。私は中井ちゃんの背中を押した。そういう話なんだよ、きっと」

だから、みんなのせい。

「あいくんが殴ったくらいで私たちの人間関係が壊れると思う? 私たち、殴り合いくらいしたことあったじゃん。自分のことを過信しすぎだよ」

「でも、僕があそこであんなことをしなかったら、もしかしたらさ、終わらなかったかもしれないんだ」

「そんなもしもにどれだけの意味があるのかな。終わったこと、なんでしょ?」

パチンと音を立てて頬を手で挟まれる。ぐいっと無理矢理目を合わせられた。

その吸い込まれそうなほどきれいな目は、しっかりと僕の目を見据えている。どうしようもなく昔のことと向き合おうとしない僕の目を、かつてのような真っすぐな瞳で。

「必死だったよね、私たち。その結果がこれなんだよ。残念だけど、これなんだ」

「……でも」

「でもじゃない。そうなの」

有無を言わせずにたたみかけてくる。僕はどうしようもなかった。

「薄い人間関係、だっけ? あいくんもバカだ。あいくん程度が踏み込んで壊れるような関係なら、最初からそのくらいの関係性だったんだよ」

にこ、と。無理矢理作った笑顔で彼女は告げる。


「だからさ、ちゃんと今を大事にしようよ」


ガツン、と頭を殴られたような気がした。ぐらぐらと足元が不安定になっている気がする。いいのか、と。僕のせいじゃない、みんなのせいだと言い訳をして、言い逃れをしてしまってもいいのかと過去が足を掴む。

「私たちは今、ここにいるんだから」

過去から逃げるために来たこの場所で、僕は一年を過ごした。その実過去に囚われたまま。

「やっぱり、僕は自分が許せない」

それでも、今目の前にいる彼女の言葉に答えを返さなければならない。

「僕が僕を許してしまったら、誰が僕を許さないでおいてくれるんだろう。そう思ってしまう」

こんなことを言ってしまっていいのか。

「だからさ」

言う。せめて、過去を忘れないように。

「たくみだけは僕を許さないで欲しい」

言った。たくみはすっと手を離す。風が頬を撫でて、人の粗熱を奪っていった。

今度こそ彼女はいつもの笑顔で言ってくれた。

「任された」

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