4 橘あさひ

「何やっていたの?」

「図書室で本調べて、いろいろ借りてきたの。そしたら寮までの道忘れちゃって」

てへへ、と笑うたくみ。別のことをずっと考えていたら道を忘れるのもうなずける話ではあった。その前に、と担任に向き直る。

「教師が仮にも生徒の個人情報を別の生徒に話すのはどうなんですか?」

「なんだ、教えたくなかったのか?」

ニヤッとイヤな笑みを浮かべる担任。あえてそうしたのは理解しているけれど、他人の痛いところは突きたくなってしまうものだ。

「そういうわけじゃないですけど、勝手に伝えるのはよろしくないでしょう」

「え? すんなり教えてくれたから、てっきりあいくんから許可貰ってると思ってたよ」

貰ってなかったんですね、とニコニコ笑うたくみ。悪意を感じられない笑顔にさすがの担任も罪悪感がうずいたのか、冷汗を浮かべていた。

「ま、まあなんだ。あれだな。今度ラーメンでも食べるか? 他の寮生も誘うといい」

よりによって選ぶ手段がわいろによる懐柔なあたり、教師として若干の問題があるような気がしないでもない。規律に厳しいからこそ、自分が規律を破った際には誤魔化そうとする癖があった。そうしないと生徒に示しが付かないから、仕方ない。いや示しが付けられているか、今甚だ疑問になってきた。

こういう少し抜けているところも含めて、担任は生徒に好かれているのだろうと思った。

「おもしろい人だね、あの先生」

帰り道の途中、たくみが半歩後ろから話しかけてくる。

「そうだね。真面目で厳しい先生だけど、ああやって変なところもある」

「私もあんな先生がよかったなぁ」

「僕のクラスの担任はあの人だから、たくみもあの人が担任だよ」

「へぇ、それはいいことだね」

たくみの言葉の選びが不自然だ。指摘はしないけど、頭の隅にとどめておこう。

「昼はあんなに晴れてたのになんか曇ってる。もっと晴れて欲しいな」

「まあ、晴れていた方が気分いいからね。晴れていたら晴れていたで、暑いって言っちゃうけどさ」

「わかるなぁ。あいくんも暑いの、苦手だもんね」

「暑い環境が好きな人がいたらぜひ話を聞かせて欲しいくらいにはそうかもしれない」

軽く笑いながら話を続ける。空模様は悪くなる一方で、二人とも無意識に歩みを速めていた。



「芹沢たくみです。今日からこの寮に入ることになりました。いろいろとわからないことも多いけど、仲良くしてくれると嬉しいです」

夕食時は二人とも食堂に降りてくる。そのタイミングでたくみは自己紹介を行うことにしたようだった。僕もそれで構わないと思ったからGOサインを出した。

「というわけで今日から寮に入ることになりました、芹沢さんです。皆さん拍手~」

「いくら何でももう少しそれっぽくする努力をしろ、天野」

清水が何か言っている。言葉のボールが見えた。投げられたそのボールを、スルーせずにそのボールを拾い上げる。そしてポンと三人に投げ返す。

「僕に対する文句は後回しにして、自己紹介が先じゃないかな」

というわけで自己紹介。といっても完全にたくみと面識がないのは清水だけだ。一人分の自己紹介なんて一瞬で終わってしまう。

「何でお前ら二人は知り合いなの? 俺だけ仲間外れにしているのか?」

「あたしは完全に偶然、というか天野が悪い」

「僕はいろいろあって」

「いろいろってなんだよ」

呆れたような目で僕を見てくる清水。確かに我ながら今の返しはなかったか、と焦る。しかしこれ以上言うつもりはないし、どうしたものかと悩む。

助け船は隣からやってきた。

「清水くんの髪の毛ってブリーチだよね。キレイにされてるけど、どこの美容院なの?」

「ああ、これか? これは……」

たくみが話題を変えてくれたおかげで僕とたくみの関係性については触れられずに話が回る。橘がくつくつと二人に気づかれないように笑っていたが、そこに触れると墓穴を掘るだけだ。わざわざ藪をつついて蛇を出す真似はしない。

「へぇ~、そんなところがあるんだね」

「男客が多いから、女子にはあまり勧められないけどな」

「それは聞いててそうだろうなって思ってた」

二人の会話はつつがなく続く。そんな会話の矛先は僕ではなく橘に向いた。

「橘も髪綺麗だけど、染めてるのか?」

「あたしのは地毛。染めてるって勘違いされがちだから気にしてるって前に清水くんには言った覚えがあるけど」

「あ、あー、そう、だったな」

なぜこうも的確に地雷を踏み抜くのだろうか。確かに橘の髪の毛は綺麗な栗色をしている。染めていると勘違いしてしまうことだってある。ただそれを二回というのは失礼じゃないかと思う。ただし、三ヶ月の前の会話の一言を持ち出して「言った覚えがある」というのは、失礼を被った側にしてもやりすぎでは? と思わないじゃない。

「僕の髪の毛はみんなに比べると無個性だね」

だから適当なボールを投げる。注意がそちらに向くように、取りやすいボールを高く高く放り投げる。

「天野も染めればいいんじゃないか? キレイに染めてくれるところなら紹介できるぞ」

「や、頭皮が痛むから染めないけど」

「あいくん、私の髪も無個性だから。気にしないで」

「芹沢さんの髪の毛は十分個性的だと思う」

普通に会話していることからわかるように、橘はそこまで言われたことを気にするタイプじゃない。言ってみせているだけ、野生動物の本能的な威嚇のようなものだ。彼女のタブーにさえ触れなければ、基本的に橘は温厚である。言葉は刺々しいから非常にわかりにくいが。

顔合わせ、皆の仲は今のところ悪いようにはなっていなかった。

いいことだと思う。僕も橘と清水がいることでたくみの前での不自然さを誤魔化すことが出来る。自分でも原因がわかっていない不自然さを隠すには他人を頼るほかにない。

明日からの夏休みは、去年とは全く違うものにしかなりえなかった。


夕食も終わり、各自自分の部屋に戻って夜の時間を過ごす。昼に少し寝てしまったせいで上手く寝付けなかった。スマホを触る気にもなれない。腕時計のキチキチという針の音がやけに大きく聞こえるが、それも扇風機の騒音にかき消されて溶けていく。



何かが劇的に変わるわけじゃない。早朝にはいつものように走るし、課題だって進める。図書室に行くこともあるし、町に出ることもある。たくみとも橘とも、もちろん清水とも大きく関係性は変わっていない。ただ僕の気の持ちようが変わっているだけだ。

あれから数日、すっかりたくみも寮の面々に馴染んできており、彼女のコミュニケーション能力の高さには脱帽する。元々人といるのが好きなタイプだから、距離を詰めるのが上手いのだろう。その性質は今現在寮にいる面子のなかでたくみだけが持っているものである。僕はもちろん橘も清水も、積極的に人との距離を詰めようとするタイプではない。

「橘さん、まだ起きてこないの?」

トーストをほおばりながらたくみが話しかけてくる。サクッと音を立てているパンは非常によさそうな焼き加減だった。

「いつも十時くらいだよ。それまでは電話しても何しても起きないね」

そう言うとたくみはきょとんとした顔をしてこちらを見てくる。何かおかしな発言はあっただろうか。普通のことを言っていたと思うのだけれど。

「くわしいんだね」

「一年同じ場所で生活していたらイヤでもわかるよ」

「そっか。思ったよりもちゃんとしているんだね、あいくんは」

「よくわからないけどたぶんそうだよ」

適当な相槌で会話を回していると、男子寮側から欠伸をしながらやってくる男がいる。清水だった。起きてからここに来るまでのタイムラグはいったい何なのだろうか。いつも僕が走る頃には起きているのに。

「おはよう、清水くん」

「ああ、おはよう……まだ慣れないな、新しい人が増えたってことに」

「もう一週間くらい経つし、そろそろ慣れてもいいんじゃない?」

茶々を入れてあげると清水はこっちを鋭い目で見てくる。並のヤンキーのような眼光だ。気の弱い生徒なら泣いてしまうかもしれない。

「昔からの知り合いなお前といっしょにするなよ。俺は人間関係が苦手だ」

「そんな風には見えないけどなぁ」

トーストをサクサク言わせながらたくみは首を傾げる。確かに清水は対人関係が苦手なようには見えない。見えないだけで実際のところはわからないが、僕に対する態度から察するに人間関係の構築が少なくとも上手くはないようである。

「それはたくみ、あれだよ。アライグマの威嚇みたいなものだよ。ああやって見た目を派手にして周りを威嚇することで孤独を演じているんだ。でも威嚇じゃなくて実は構って欲しいだけだからかわいい話だよね」

「何を言ってるんだお前は」

呆れたようにため息を吐く清水。適当なことばかり言っているとその内本気で無視されそうだから一応のフォローを入れておくことにした。

「わかりやすく言うとぐいぐい攻めたら案外ころっと僕と仲良くなってくれるんじゃないかな、って思ってる」

「ならねぇよ、お前みたいなめんどうくさいヤツと仲良くなんてならねぇよ」

心底イヤそうな顔をされてしまったのでこの話題は終わりにした。したかったのだが、たくみが食いつきを見せてくる。

「清水くん、あいくんのこと嫌いなのかな?」

「そういうわけじゃないが……というか、その聞き方で嫌いって答えるヤツがいると思うか?」

「橘さんとかは普通に嫌いって言いそう」

「あれは何というか、特殊事例だろ」

「それはそうかも。二人があいくんが嫌いって気持ちもわからないじゃないけどね~」

どうして二人の会話で僕がダメージを受けているのだろうか。全く持って理解に苦しむ。

「そんな不服そうな顔しても、だってそうじゃない?」

「ああ。天野は距離感がよくわからん。詰めてくるような感じもあるし、そうかと思えばいきなり壁を突き付けてきたりもするし」

それはおそらく今までの僕の人と深い関係になりたくないという心理が働いているときだろう。今でもその心理はある。だから少しだけ距離を詰めようとしても思わず距離を取るような言動をしてしまう。根本的に人との距離を詰めることが怖いのかもしれない。

「きっと、あいくんなりの威嚇行動なんだよ」

「そういうことか」

「もうそういうことでいいんじゃないかな」

だんだんと面倒になってきたので会話を終わらせにかかると、そうはさせまいと二人ともさらに面倒くさい絡みをしてくる。

「張り合いがないな、もっと食い下がって見せろよ。プロレスみたいなものだぞ」

「そうだよあいくん、これはあいくんがみんなと仲良くなるための試練だよ」

「……君たち仲いいね」

苦笑しながら言うと二人して「そうかなぁ」などと首を傾げる。自分で言っておいてだが、ここ一週間で二人が仲良くしていたような記憶はあまりない。僕をいじるときだけ結束する何かでもあるのかもしれない。

こうやって三人で話しながら過ごす朝食はもはや日常と化しつつある。

「でも一人だけいないっていうのはちょっと心配かも」

不意にたくみの口を突いて出た言葉に、ピクリと反応してしまった。

「あいくんも気にしているでしょ? 橘さんのこと」

「まあ気にしていないって言ったら嘘になるかな」

今、僕は彼女をそういうものだと受け入れている。しかしその気持ちと相反して、日常くらいは皆と過ごした方がいいのではないか、と注意したくなる気持ちもある。橘がどういう理由があって朝起きてこないのかは正確にわからないから何とも言えないのだが。察してはいてもそれを元に行動することは憚られた。

「確かに橘は図書室で寝ていたりするし、よほど寝不足なのか?」

清水は橘と同じクラスになったことがないため、休み時間の彼女を知らない。基本的に彼女は寝ているか、寝たふりをしていることが多い。彼女は仲が良いと呼べる友人がお世辞にもいるとは言えないから、彼女を起こす役回りが僕に回ってくる。

「さあ。僕は知らないことだよ」

そんな不満もあり、やや辛辣な返答をしてしまった。そしてその機微を見逃してくれるほど幼なじみは甘くなかった。

「橘さんに何か思うところがあるなら、きちんと伝えた方がいいと思う」

「思うところなんてないよ」

もしあったとしても伝えるようなことはしない。そういう不満は心の中に貯めておくものだ。そして本人以外のどこかで吐き出す。そうやって人間関係のバランスは保たれるのである。本人にぶつけてしまったらそれはもうただの文句だ。

「そうかな?」

「そうだよ」

「そういうことにしておいてあげる」

含みのある笑顔を浮かべるたくみに若干の苛立ちを感じながら朝食の時間は終わった。洗面所に行くとそこには清水がいる。食後は歯磨きをするのだから当たり前だった。

鏡の前で二人並んで歯磨きをする。シャカシャカという音が反響していた。窓から日の光が差し込んでいる。やけにその光が強く見えた。

「お前、二股でもしているのか?」

二つの意味で驚く。普段こういう状況になった場合、多くは僕から適当に話を振ることが多い。だから清水から話しかけてきたという事実で一つ。もう一つは単純に言っている内容の意味がわからなかったのでそれで一つ。

「ごめん、どういうことかわからないんだけど」

「橘とも芹沢ともすごく親密に見える」

言わんとすることを察してああ、なるほどと思った。直接聞かれたことはないから否定もしたことがないのだった。

「橘ともたくみともそういう関係ではないよ。橘は友達と呼べるかも怪しいし」

「……や、どう考えても距離感がバグってるだろ、それは」

「どうなのかな。確かに橘とはよく話すし、たまに出かけることもある。けどお互いに友達って感覚で関係を続けていないと思う」

「よくわからないな」

「僕もわかっていないよ。橘はほら、ちょっと変だから」

「いや、天野も十分おかしい」

真顔で言われると少しだけ傷ついた。さすがに橘ほど常識から離れて生きているわけではないから、そこと比べられるのは心外である。

「それを言えばこの寮に残っている面子は全員少しおかしいから」

「俺はおかしくないだろ」

全員が自分だけはおかしくないと思っているから話がややこしくなる。そこを指摘しても話にならないし、ブーメランになりかねない。

「それは置いておいて……朝早いよね、清水。何やっているのか、聞いてみてもいいかな」

「イヤだよ、って前にも言った気がするな。しつこいヤツ」

本当にイヤそうな顔をしているけれど、どうだろう。本当の本当にイヤならば、そういう取っ掛かりを人に見せなければいのではないだろうか。油断をしていただけかもしれない。しかしそれにしては朝に彼を見かける回数が多い。

「まあそう言わずに、僕と清水の仲でしょ?」

「天野と仲良しこよしになった覚えはないぞ。男子がお前しかいないからこうして話しているだけだ。でも芹沢っていう話し相手が出来たから、お前は用済みかもしれないな」

「それは僕が悲しいから、ぜひとも清水には僕との関係を続けて欲しいね」

「おいおいうさぎかよ。寂しがり屋な女ならともかく男なんて誰も相手にしてくれないぜ」

冗談めかして言うと清水はその冗談に乗ってくることが多い。ノリがいいのだろう。こちらとしては乗せやすくて非常に助かる。

「別に寂しくて死ぬとは言っていないけど」

「でも天野、お前はあっち側だと思っていたけど案外こっち側なのかもな」

「え、どういうこと」

「橘とか芹沢と普通に仲良く話せているからお前はモテるものと思っていた。冷静に考えればそんなことはないはずなのに!」

「ひどいな」

「とはいえ、教えられないものは教えられない。そのために俺はこの場所にいるんだからな」

牽制、だろうか。そんなことをしてくるタイプとは思っていなかった。元々仲良くないのだから、知らない一面の方が多いに決まっていた。

「それは残念」

だからとりあえず今日のところは彼のことを知るのは諦めることにした。次からは別のことについて尋ねてみようかと思う。そうすればいつか秘密についてもボロを出すんじゃないかという浅はかな考えもあるが、それ以上に清水のことを知らなさすぎる。

顔を洗って、鏡を見る。先日までとは違い、まだマシな顔つきになった自分がそこにはいた。


相変わらず暇な夏休みだと思う。課題を進めたらあとはもうボーっとするか、面白くもない主婦向けのテレビ番組を見て時間を潰すくらいしかすることはない。

図書室で本を読むにしても読みたい本がなければならない。別に読みたい本があってもなくても図書室には行ってもいいのだけれど、おそらくそこには先客がいるであろうことが容易に想像できた。することがない。映画もこの前見に行ったし、何をすればいいのかもわからない。

こういうとき、僕はよく考え事をする。するというよりはしてしまうと言った方が正しいか。先のことや自分のこと、周りのことについて考えを巡らせるのだ。

例えばたくみ。

彼女がここに来てから寮の雰囲気は格段によくなったと言えるだろう。どちらかというと大人しい気質の三人が集まっている寮で彼女はムードメーカーとして振舞っている。僕はそういう盛り上げ方が出来ないから純粋に羨ましく思う。外に出ていったり部活を見学していたり、割と活発に動いているのが確認できた。

例えば橘。

朝は起きない。昼は不機嫌。夜になってようやくまともに会話が成立するようになる。学校があるときはそうではないのだけれど、休みの日はだいたいこうだった。生活リズムが夜寄りなのかもしれない。当然休みが続くこの夏は不機嫌のパレードだ。行動パターンは数少ない。図書室で涼みながら本を読むか、寝る。もしくは自室に籠っている。

例えば清水。

彼は朝が早い。僕が早朝にランニングする頃にはもう起きている。その割には眠そうにしている素振りを見せない。現在僕と清水しか寮に男子がいないため、必然的に話す回数は以前よりも多くなっているが仲がよくなったという印象はない。僕からも少し壁を作っていたし、清水からも一定の高さの壁を感じる。

彼ら彼女らがそんなことをしているであろうと想像していると、では自分はどうなのかという疑問が湧いてくる。

自分は彼ら彼女らのように自分の芯を持って行動できているだろうか。出来ていないと自分では思う。高校入学と同時に定めたこうあるべきという芯は少しずつズレていて、僕の精神の弱さを証明してくる。ちくりと針で刺されたような錯覚がある。痛いところを隠すように思考を行動で上書きする。

その弱さはそのまま行動に現れていて、つくづく自分のことを意思が弱い人間だと思う。

図書室に向かうと、やはりというべきかそこには橘がいた。姿勢を正して本を読んでいる。タイトルはここからではよく見えないが、何やら小難しそうな内容であることだけはわかった。今日は本を読む日のようだ。そのまま声をかけようとするが、先客がいるらしい。

別に隠れる必要もないのだが、なんとなく彼女の座っている場所からは見えない本棚で時間を潰すことにした。

先客……たくみは橘に話しかける。

「おはよう、橘さん。隣、いいかな?」

「……ん、と。一つ空けるか向かい側なら」

「ありがとう、座るね」

聞き耳を立てているみたいでイヤな気分になった。が、聞こえてくるものは仕方がない。それに聞かれたくない話ならば図書室と言うオープンな場所で話すことはないはずだ。

「橘さんそれ、何読んでるの?」

「若きウェルテルの悩み」

確か主人公であるウェルテルが婚約者のいるシャルロッテに恋をして、なんやかんやあって自殺する話のはずだ。表紙を見てわからなかったのは新装版か何かであるからだろうか。まあいろいろな文庫から出ているだろうし、表紙が違うのも当たり前だろう。

「私も読んだことあるよ。おもしろかった」

「ふーん、そう。あたしはまだ途中だから」

ページを繰る速さ的に橘はそれを絶対に読んだことがあるはずなのだが。たくみとの話を広げる気がないのか、橘の態度は素っ気ない。

「まだ何か用? ここで待っててもあたしは本を読んでいるだけだけど」

「用はないかな。強いて言えば、橘さんの近くにいることが用事だよ」

「……天野の知り合いだけあって変、あなたも」

「そうかなぁ。あいくんは変だけど、私はそうでもないと思ってるんだけど……」

二人の会話の中でなぜ僕がダメージを受けているのかはわからない。少なくとも険悪な雰囲気にはなりようがないと判断した。ほっと胸をなでおろすと同時に、どうしてそんな胸をなでおろす必要があるのかと自問する。

寮の中で仲違いが起きていたら過ごしにくい。そのようなことが起きなくてよかったということだろうと自分を納得させた。納得できないけれど、納得しているふりをする。そういうのは得意だ。

「変よ。あたしに近づいてくる人は碌な人がいないって経験則からわかるわ」

「それは悲しい経験則だ。その例外に私がなってあげようか?」

「少なくとも今の段階ではあなたも変な人にカテゴライズされているけど」

そう言って橘は左手首をすっとなぞる。

たくみは普通に近い感性を持っていると思う。しかし近いだけであって決して普通というわけではない。まあ、全てが普通の感性を持っている人なんているわけがない。そんな人がいたらむしろ怖いだろう。そもそも普通の感性ってなんだという話でもある。

皆が言っているから普通なのだろうか。多数派が言っていれば普通なのだろうか。僕は普通というのは当人同士の常識が重なる部分、という認識の仕方をしている。つまりある人物がその場にいる人との常識が重なる部分が多ければ多いほど、その集団の中においてその人は普通の人ということになる。

まあそんな自分の中の普通論はおいておくべき考え事だ。思考が逸れてしまっている。

話が終わる気配はない。二人はまだ話している。いくらか聞き逃してしまった、というのも変な話ではある。聞き耳を立てるのに聞き逃すも何もあったものじゃないだろう。

「橘さん、朝に起きてこないのは理由があるの? もし聞かせてくれるなら、聞きたいかな」

気になっていること。だが僕には聞けなかったことを、たくみは平然と聞いてみせた。

僕がそれに触れなかったのには理由がある。おそらく、それは橘にとって触れられたくないものであると察しがついていた。

案の定というべきか、橘の目つきは心なしかきつくなっている。たくみを明確に敵とみなす一歩手前、といった印象を受けた。

「……天野から何か聞いた? 余計なお世話よ」

「あいくんは何も言ってないよ。あいくんはきっとそういう人じゃないから。ただ朝に橘さんがいないのはさみしいから、もし原因があるならそれを取り除く手伝いが出来たらなって」

「さみしい? あなた、ここに来てから一週間くらいでしょう。それなのにあたしに対してさみしいだなんて。見え透いた嘘は友人譲りと言ったところ?」

「嘘じゃないんだけどなぁ。私はそこにいるはずの人がいないと、やっぱりさみしいと思っちゃうよ」

「朝に弱い。それで納得してもらえる? ……意味がわからない人じゃないでしょう、あなた」

話す気はない、と。この様子だと僕が聞いても結果は同じだろう。手間が一つ省けたと考えておくことにした。それにしてもたくみ、リスキーなやり方をする。いきなり人に踏み込んだら拒否されやすいのはわかっているだろうに。

「イヤだ、って言ったらどうする?」

それでも進む。はっきり言ってたくみのこういう部分はよくわからない。昔もそうだったように思う。それで失敗してしまったこともある。それなのに未だにその姿勢にこだわるのは、やはりそれが彼女の芯ということなのだろうか。

「どうもしない。あたしに話す気がないからどの道この話は終わり。それよりも別の話をしたいと思う。そっちの方がマシ。……食えない女」

あっさりと流したが、結局はたくみの話に付き合うことになっているあたり、力関係が出ているのかもしれない。たくみのようなタイプは橘が苦手とするタイプなのだろう。実際距離を詰められるのが橘は苦手だと言っていた覚えがある。

「そりゃ私は食べられないよ。わかった、その話は終わるね」

それ以降は普通の、いたって普通の話が行われていた。完全に出ていくタイミングを逃してしまった僕は、図書室から出ていくことを決めたのだった。


扉を開けると外と図書室の温度差で気持ち悪くなる。そんな何とも言えない気持ち悪さに包まれながら、もし僕が彼女に同じことを聞いていたらどうなっていただろう、と想像を巡らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る