2 天野あい

幼なじみ、というのが具体的にどれくらいの関係性を示す言葉なのかわからない。しかし少なくとも二年前まで、僕とたくみは幼なじみであったと思う。


『あいくん、おはよう』

『おはよう、たくみ』


普通にそうやってあいさつを交わして、学校に行って。そんなに生徒が多いわけじゃない。だから全員が気安い仲で、僕たちが一緒に登校していてもからかうような人はいなかった。ほぼクラス全員で登校しているようなものだったから、その過程で誰かと二人になることはよくあることだったのだ。

小学生時代からクラスは一つ、だからずっとクラスが同じでみんなが幼なじみ。


その関係が変わったのは、中学三年生のあの瞬間。


「あいくん、何やってるの? その制服、そっちの高校のだよね?」

僕たちの通う高校の方面を指差しながらたくみは言う。そんなたくみを前に僕の口は適当な言葉をとりあえずという形で出力する。

「や、何というか、昼、食べていたんだけどさ。たくみを見かけて」

見かけて、それで? 僕は何を話そうとしていただろうか。

「昼ご飯遅いね」

「ああ、うん。ちょっと色々していて」

「そうなんだね。でもあいくん、何か変わった?」

「そんなことないと思う、普通だよ」

じっと目を見られる。吸い込まれそうな、大きくて黒で塗りつぶしたみたいな瞳。その澄んだ瞳から思わず目を逸らす。どうして?

沈黙が流れる。下で流れる川の水音がイヤに大きく聞こえる。こちらから口を開こうとしても上手く話せる気がしない。なら、だから、何で、僕は追いかけた? 何の権利があって追いかけた、橘を置いて、わざわざ走って、本当にたくみである確証もなく。

パチパチと、二人の間で泡が弾ける音がした。

「あいくん、私ね、実はさ」

「ねぇ、天野ってば……」

たくみが沈黙を破ったのは、橘が僕に追いつくのと同時だった。

「ん、と。天野の知り合い? こんにちは」

怪訝そうな顔をした橘がとりあえずとあいさつをしている。たくみは少しだけ驚いた顔をしたが、あいさつをされて返さない人じゃなかった。

「こんにちは、あいくんの元同級生の芹沢たくみです」

名前を聞いて、体が少し強張った気がした。おそらくそれは気のせいじゃない。

「……あいくん?」

「もしかして彼女さん? あいくんも隅に置けないなぁ」

「や、違う、知り合いだよ」

それを口にするのがやっとだった。とりあえずたくみから離れないと、罪悪感でどうにかなってしまいそうだった。

「あなたは? 名前、教えてほしいな」

「橘あさひ、高校二年生。そこの天野とはクラスメイトって関係」

「橘さん、よろしくね」

「ごめんなさい。手を繋ぐのは、ちょっと」

差し出された手を、しかし橘は断る。僕のときも彼女はそうだった。自分からは距離を詰めることが出来るのに、相手からの過度な接近は拒む。接近というよりは接触か。

どうでもいい。橘は橘だ。僕は僕のことを考えなければならない。僕がたくみに対してどう接するべきなのか、それが問題だ。この二年間忘れて、考えようともしなかったことにいきなり向き合って、答えが出るはずもないだろう。そんなことはわかっている。

「たくみ、ごめん。また今度会ったら話そう」

出来る限りの笑顔を浮かべて、でも彼女の顔を見ることはできなかった。たくみがどんな顔をしているのかわからない。当たり前だ。振り返らずに走った。寮まで走るしかない。暑い。自分がどんな顔をした先の言葉を言ったのか。走ることでしか忘れられない。がむしゃらに走る。わけもわからずひた走る。

唐突に吐き気に襲われて電柱に手を付いた。思わずこみ上げてきそうな何かを手で抑える。道を歩く人が怪訝そうな顔でこちらを見ているのがわかった。

どれくらいの間そうしていたかはわからない。影の形が明確に変わる頃に、肩をぽんぽんと叩かれた。その力加減でなんとなく誰かはわかる。

「天野、何やってんの」

「橘……」

そうだ、僕は橘と打ち上げをしていたのだった。

「ごめん、橘。勝手に出て行って」

「謝って欲しいわけじゃない。何となくわかってる」

「……ごめん」

「だから謝らないで。鬱陶しい」

じゃらっと手に何かを握りこまされた。開けてみると小銭が入っている。

「お釣り。途中でいきなり出ていったから千円は貰っておく」

ピンとお札の端を指で弾いてポケットの中に入れた。文句を言う気にもなれないし、そもそも僕に文句を言う資格はない。橘からすれば大迷惑だからだ。

「文句くらい言っていいのに、らしくない。そんなにあの芹沢とかいうのと会いたかった?」

「逆だよ。会うべきじゃなかった」

「わかってるなら追いかけなきゃいいのに」

「それもわかっていたよ。バカだった」

全てではないけれど、橘には僕のことを少し話していた。本当に少しだけ、断片的に。そこからたくみと僕の関係をなんとなく察せるのだから、きっと頭の回転が速いのだろう。

「あたしは帰る。天野は?」

「そこらへんを歩いてから帰るよ」

「死なないでね。天野が死んだら買い物袋、誰が持つの?」

「知らないよ。でもありがとう」

「そう、ありがとう。そう言うべきだ」


橘に気を使わせてしまうなんて。バカなことをしたなと自分でも反省している。でもどうすればよかったのかはまだわかっていない。どうして動いてしまったのかも。


でも、あの窓から見たたくみの顔は、どうしようもなく僕の心を駆り立てたのだ。



夏休み初日の早朝。まだ六時前だというのにもう明るい。夏休みが始まるから、きっと太陽が朝を長くしてくれているのだ、と勝手なことを思った。そんなわけがない。

「あーたーらしーいーあーさがきた……きーぼぉーのあーさーだ」

「なんてやる気のないラジオ体操だ」

そんな失礼な声が聞こえたので外から窓を見上げる。清水がこちらを見下ろしていた。

「ラジオ体操をやる気がない人よりマシだと思うけどな。清水もやらない? ラジオ体操」

「そんな老人じみた趣味に付き合う気はない」

「残念」

それにしても清水も早起きだ。夏休み初日、普通の人なら九時くらいまで寝てそうなものだけど。起きているのは仕事がある担任くらいのものだろうに。

時間の余裕がある間に体を動かす。ラジオ体操はウォーミングアップだ。体をほぐすための運動。無理をするわけでもなく、ただ睡眠で固まった体をほぐしていく。といっても、今日は大して眠れてはいないのだけれど。

ラジオ体操が終わり、軽くストレッチをしているとコツコツと硬質な足音が聞こえる。

「初日から元気だな、天野」

「元気じゃないですよ。元気にしているんです」

噂をすれば、というほど噂をしたわけではない。今度は担任がやってきて声をかけてきた。

「休みはいつも走っているものな。運動の習慣があるのは本当に感心するよ」

「動いていないと落ち着かないってだけですよ」

特に今日はいつもよりも早く目が覚めた。寝不足で頭がボーっとしているにもかかわらず、体は勝手にルーティン化された行動を取っている。そのことを何だか薄気味悪い、と感じている自分がいるのを知覚している。

「まあ、外出許可は見たから。もう出てもいいぞ」

生徒の手前だからか欠伸をかみ殺しながらそれだけを伝えて寮監室に戻っていった。重ね重ね、先生というのは大変な職業だろうなぁ、と他人事のように思った。


走ることは嫌いじゃない。


走っている間は余計なことを考えずに済むからだ。セミの鳴き声がうるさくても、入道雲がどんなに大きくても、それは自分がアスファルトを蹴るタッタッタという音に消えていく。それに体力はあって困るものじゃない。無趣味と言われがちな僕の、唯一の趣味と呼べるものが早朝に走ることである。無理矢理趣味と呼んでいる、と言い換えてもいい。

リズミカルに足を踏み出す。朝は町が起きていないから静かだ。足音が響く。年配の方が散歩している。会釈をするとあちらはニコニコしながら会釈を返してくる。たったそれだけで成り立つコミュニケーションは楽だ。持続しない一度限りの関係。

寝付けなかったからずっと考えてしまった。昔のこと、たくみのこと。考えても答えが出るものではない。だから余計に寝る時間が遅くなってしまった。

十五分走って、また十五分かけて来た道を戻る。一年ほどここらあたりの道を走り続けることで変な地理関係が頭に入ってしまった。例えば走って十分ほどにある並木道の木は雨宿りにちょうどいいということであったり。例えばちょうど帰る頃にある家の車は既になくなっていることであったり。

目につくものと走ること、二つで頭がいっぱいになるから他のことを考える余裕なんてない。その余裕のなくなる感じが今の僕にとってはとてもありがたい。

寮に戻る頃には朝日は昇っていて、既に朝と言い切れるような空になっていた。腕時計を見る。時刻は七時を少し過ぎたくらいだ。

そこから汗を吹いて水道でジャバジャバと流し、制汗剤を吹きかけて食堂に向かう。いつも寮生の一人くらいは早く起きてしまって既に朝食を食べているのだが、今日はそういうこともなく一人。清水は僕と二人きりで食べたがらないだろうし、橘に至っては起きる気がないと思われる。だから適当に三人分の朝食を作って二つを冷蔵庫に入れておく。

普段なら朝食、夕食は学校側から提供されるのだけれど、今日から夏休み。そのシステムはなく自炊を余儀なくされる。

去年の夏休みで僕と橘は最低限の自炊スキルを身に着けたけれど、清水がどういうレベルなのかは全くもってわからない。次に会ったときに聞いておくべきかな、と思った。

特においしいという感慨もなくひたすら胃にものを詰める作業をしていると、なぜか空しくなってくる。誰でもいいから話す相手の一人くらい欲しいと思ってしまう。

まあ昨日打ち上げをぶっちしてしまった橘はおそらく今も不機嫌だろうし、清水と話してもあちらがこちらのしたい話を避けるため言葉がかみ合わない。

「前、いいか」

というわけで夏休み初日の朝からから担任との二者面談と相成った。何かの嫌がらせだろうか。

「朝食から先生と話すって生徒的にはきついと思いませんか?」

「天野はそういうタイプじゃないだろう。むしろ橘や清水よりはマシと考えている節すらある。違うか?」

「いや、まあ確かにあの二人は話していてめんどうくさいところはありますけど」

それでも教師と一対一で話すのは多少緊張するものだ。いくら担任で寮監とは言っても大人と子供、緊張しない方がおかしい。

「そのめんどうくささが大事になるときがきっと来る」

「そういうものですかね」

「あくまでこれは大人からの勝手な意見だがな。少なくとも学生のうちは無駄になる交流なんてものはないよ。誰との話であってもそれは自分を形作る何かになるから」

そう言って遠い目をする担任。もしかしたら何かがあったのかもしれない。僕と担任、重なる部分はあるだろうか。特にない、と自分では考える。

「何にせよ、何があろうと人から目を背けてはいけないってことだな。大人になればイヤというほど目を背ける羽目になるんだから、今くらいは人と向き合っておいた方がいい」

「イヤだなぁ……」

「通過儀礼みたいなものだよ。すぐに慣れる」

本当に、この先生は生徒をよく見ている。話したことなんてないはずなのに僕のことをわかっているようなことを話す。口うるさい教師が嫌われがちな中で、この担任が生徒に好かれている理由の一端を垣間見た気がした。

その後たわいのない雑談をいくつかしながら朝食を食べ終わり、鏡を見ながら歯磨きをする。走った後だからか、僕の想像よりも僕の顔はひどい顔をしていた。



休みの日の午前中は図書室にいることが多い。夏休みの学校内で唯一クーラーが付いていて生徒が立ち入りしやすい場所だ。さすがにオンボロの扇風機一台で夏を乗り切るのはかなり厳しいだろう。

外の店のように寒すぎることもなく、かといって寮の中や教室ほど暑いわけではない。そんな図書室の最適な気温が心地いい。

そんな図書室で夏休み用に与えられた課題を進めていると橘がやってきた。髪はボサボサ、制服もヨレヨレ、明らかに寝起きで適当にここに来たことが察せられる。

「……起こしてよ」

「電話したけど起きなかったし、女子寮には行けないし」

「だいたい昨日あれだけめんどくさいことしてるんだからさ……起こしにくらい来てくれたって罰は当たらないと思う」

「それを言われると何も言えない……」

ただし規則を破った場合、寮監はあの担任である。規律に厳しいことで知られるあの担任は生徒を叱る際も感情的にならず淡々と詰めていくタイプだ。女子寮に入る、なんていうことを犯したらどういうことになるか想像したくもない。

「まあいいけど」

椅子を引いて僕の向かいに座った。勉強道具も本も持っていないのに何をするつもりだろうか。

「寝るのよ。暑いところで寝たくないから」

「ああ、そう」

メガネを外して腕に顔を突っ伏すようにして寝始めた。いくら何でも無防備がすぎる。僕がここから動いたりしたらどうするつもりなのだろうか。少し心配になってくる。

「そんなに信頼されても困るんだけどなぁ」

僕は信頼されるような人間じゃないと思うから。どうして信頼されていると感じているのか、それもよくわかっていない。ただ彼女は僕のことを都合のいい人避けにくらいしか思っていないだろう。信頼という言葉に置き換えるのは彼女に失礼だな、と反省する。

ただ何も考えずに課題を進め続ける。時折わからない問題があるから手が止まる。くるくるとペン回ししながらくるくると頭を回転させる。考えてもわからなかったら飛ばす。

普通の生徒も少人数ではあるけれど、当然図書室を利用する。その数少ない生徒たちは僕の前で眠りこけている橘に「何だコイツ」という視線を向けていた。僕でもそうする。

「あ、天野くん」

たまにこのように話しかけてくれるクラスメイトもいた。

「そっちも課題?」

「うん。どうせなら涼しくて広いところでやりたいなって」

「広いし息抜きに本も読めるし、ってところ?」

「そうそう! そんな感じ!」

話をしていても、隣の橘のことに一切触れないあたりにクラスメイトである所以を見た。彼女の少しズレている行動は一年、二年で同じクラスだった生徒たちには周知の事実になっている。

そうやって話したり課題を進めたり、二時間ほど経った頃だろうか、不意にピンポンパンポン、という音がなる。時間を知らせるチャイムとは異なる、人を呼び出すときに使うものだ。

『二年A組、天野あいくん。二年A組天野あいくん。学校におられましたら至急職員室まで来るように。繰り返します──』

何かやらかしたかな、と自分の一学期の行動を振り返ったけれど、特に問題行動を起こした覚えはない。だからこの呼び出しにも心当たりは全くと言っていいほどなかった。

橘は何回か声をかけても起きそうになかったため、LINEに『職員室呼び出された』とだけ送っておく。本来どこに動いても僕の勝手のはずだけど。ついでに図書室の先生に声をかけておいた。

少しだけ小走りで職員室に向かう。職員室前の廊下に担任がいて、僕を見つけるとちょいちょいと手招きをした。

「来るのが早いな。集団行動のときは時間にルーズなのに」

「それはすみません。えっと、何か僕やってしまいましたか?」

「いや、そういうことで呼び出したわけじゃない。連絡があってな」

連絡なら朝会ったときに済ませておけばよかったのに、と思ったが朝の段階では知らされていなかったのだろうと好意的な解釈をすることにした。

そんな僕の内心を知ってか知らずか、担任はそのまま口を開く。

「四日後、寮に新しい生徒が来る。その人の案内を頼みたくてね」

「どうして僕なんですか?」

「同じ生徒同士の方が距離も近いし、何かと都合がいいんじゃないかと思ってな」

そういう意味でのどうして、ではないのだがここでそれを否定しても無駄だろう。上の決定には従うしかない。生徒なら教師の決定には中々逆らえない。

「教師からの好感度は高い方がいいぞ、天野」

「好感度が高いと、こういうことを押し付けられやすくなりそうで怖いですね」

「かわいくない生徒だなぁ君は。わかりやすいこと以外は本当に生意気だ」

まあ、そういうことだと。何がそういうことなのかはっきりとしないがそういうことと言われたからにはそういうことなのだ。

それにしても、と思う。

今の時期に寮に入る生徒なんているのかと。入るなら夏休み初日から入った方が楽だし、区切りもわかりやすい。なんだって夏休みの始まって少しして、というよくわからないタイミングに寮に入るのだろうか。緊急に入らざるを得ない事情が出来たのかもしれない。詳しくは考えない方がいいだろう。

そもそも今年から入った清水のことすらよくわかっていないのに、今から寮に入る生徒のことなんて考えるだけ無駄だった。


図書室に戻ると全く同じ体勢のまま、橘は眠り続けていた。

もうしばらく課題をやってから、それでも起きなかったら起こそう。それまでは眠らせた方がいい。眠れる獅子には近づくべきじゃない。橘は寝起きがあまりよくない……らしい。同じ寮生の女子曰く。

顔は隠れているのでその寝顔は拝めないが、疲れた顔で寝ているであろうことが想像できた。疲れさせてしまったのは僕のせいだし、寝起きの彼女に何を言われても文句は言わないでおこうと思う。その方が建設的な関係が築ける。


ふと考えてしまう。橘とはどうしてこんな変な関係性になったんだっけ、と。

高校一年生のとき、一度目の席替えで隣になったのが橘だった。それまでは遠巻きに見ているだけだったけれど、刺々しい態度や少しズレた言葉、意図のわからない発言があって、中々に厄介そうな人だと思ったのを覚えている。同じ寮生ということもあり、たまに話す機会こそあったけれどこうやって近くになるのは珍しいことだ。

「隣、天野なんだ」

「そうだよ、よろしく。橘さん」

「下の名前でいいって言ってるのに、嫌がらせ? 呼ばれても困るけど」

「嫌がらせじゃなくて、まだ自分の中で納得できていないというか。気に障ったならごめん、謝るよ」

このときは人と距離を詰めることに抵抗を感じていたのだ。たかだか名前一つとっても扱いに慎重になっていた。今もそれは変わっていない。

「変だよ、天野。名前くらい大したことないのに」

「橘さんに変と言われる筋合いはないと思う」

「あたしが変っていうなら変なんじゃない。知らないけど」

不機嫌なのか何なのか、よくわからない声のトーン。感情が読めないからどう接すればいいのかわからない。橘に対して、僕は距離感の掴みにくさを感じていた。

そんな微妙な関係が続いたまま、席も離れ、特に親しくなるわけでもなく一度目の夏休みが訪れる。寮に残るのは僕と橘だけだった。

「天野だけ? ……つまんない」

「そんなことを言われても」

度々僕は彼女に「つまんない」という評価を受ける。それは今でも変わらない。このときよりも頻度は下がっているように思える。とはいっても、彼女は多くの人に対してつまらないという評価をするようだけど。

「当たり前だが男子は女子の、女子は男子の寮には行かないように」

先生から当然の注意を受け、去年の夏休みは始まった。

それぞれで過ごす時間帯が違うから、寮に二人しかいないというのに最初は何もなかった。相変わらずこのときから早朝の走りは続けていて、橘は遅くまで寝ている。

「あ」

「あ……おはよう」

だから昼にこうやって食堂で出くわすと非常に気まずかった。テレビを付けて沈黙を紛らわす。昼特有の主婦に向けたバラエティ番組が放送されていた。

流され続ける雑音の中、無言で食事を続けていると、珍しく橘の方から話しかけてくる。

「天野、朝早いけど何してるの?」

「走ってる」

「元気だ。高校生って感じがする」


『おいしい! これは間違いなく二番が正解! 違う?』

『さあ答えは!? と言いたいところですが、ここでCMを挟みましょう』


「そっちこそ、朝遅いけど夜はなにしてるのか、聞いてもいいかな」

「何もしてないよ。強いて言えば天井のシミを数えてるくらい」

「反応に困るな、それは」


『結果発表です! 答えは~……ジャジャジャン!』

『残念! チャレンジ失敗です!』


「冗談。寝られないだけ。休みの夜ってあまり好きじゃないから」

「へぇ。どうして?」

「話したくない。寮に残ってる理由とも繋がってるし」

「じゃあ聞かない」


『次のコーナーは……サイコロゲーム! です!』


「聞かないんだ。あんな話の振り方したら気にならない? 他の人は気になったみたいだけど」

「話したいなら話した方がいいと思うけど。そうじゃないなら別に僕は気にならないから」

「……変なヤツ」

「そうかな」


テレビから聞こえてくる音が鬱陶しい。思わずリモコンに手を伸ばして電源を消した。


「夏休みにまで寮に残る生徒なんて訳ありしかいないわけだし。僕としてもそこはあまり触れられたくない。だから橘さんのことにも触れない。明快だと思う」

「じゃあ天野が話してよ、それ」

「何で? 今の話の流れで? 話したくないよ、僕も」

「そう、だから。話した方がいい、って思った。あたしも、天野も」

遮断された食堂には何も聞こえない。セミの声も運動部の叫び声も。扇風機が出すゴーっという音だけが響く。風で橘さんの髪がふわっと浮かび上がっていた。そこで今の今まで橘さんの方を見て話していなかった、ということに気づく。

「お互いに話したくないなら、ちゃんとお互いの話を聞けるんじゃないかって」

「よくわからないなぁ」

でもこのとき、僕も疲れていたのだろう。ずっと秘密を抱え続けることは精神的に負担がかかる。何より一年ほどしかあの出来事から時間が経っていなかった。誰にも話したくないと言いながら、誰かに話したいという欲もあったのかもしれない。そんな自己矛盾に気づいて一つ、自分のことが嫌いになった。

「まあ……少しだけなら、話してもいいか」

「そう来なくちゃ」

初めて見た橘さんの笑った顔。それを見たとき、本当に話してもいいかなと思った。妥協じゃなくて“橘”になら話しても大丈夫だろうと。

彼女の笑った顔が、あまりにも歪だったから。

そんなこともあった。結局その日以来、お互いに遠慮というものが少なくなって今の関係に至っているわけなのだけれど。

僕はこの高校に逃げるために来た。でも今はほんの少しだけ前を向いて日々を過ごしている自覚がある。逃げるために来た場所で前を向くというのも変な話だ。どちらにせよ環境を変えたことがよかったのかもしれない。

しばらくそうやって橘を放っておいて課題を進めていると、もぞもぞと目の前の寝ている物体が動いた。寝顔が見える。腕と触れていた部分なのか、額が赤くなっていた。

いくら涼しいとはいえ、横になれない図書室でよくもここまで寝られるものだ。よほど昨日寝られなかったのか、はたまた何かやることでもあったのか。詳しいところは僕のあずかり知るところではないから聞くつもりもない。

ただまた文句を言われたらめんどうくさいな、とだけ思った。文句に対して反応はしなくても思うところがあってもいいだろう。


気付けば時計は十二時の直前を差していて、それだけ集中していたのだなと自分で自分のことを褒めることにした。課題なんて正直やりたくないけれどやらなければいけないのだから学生というのはつらいものだと思う。社会人なんて想像したくもない。

「橘、昼」

声をかけると先刻と同じようにもぞもぞと動いた。芋虫みたいだなと失礼な形容をしてみる。

「昼、食べない」

「そうじゃなくて、昼くらい起きときなよ。ずっとここにいたら司書の先生も困るから」

「涼しい場所で寝たい」

「わかるけど起きてってば……」

こういうときに無理矢理起こしてやれないのがめんどうだ。僕が女子だったら迷わず体をひっつかんで起こしてやるのに、と意味の分からない悔しさが心を襲った。たとえ僕が女子だったとしても、橘相手にはそれが出来ないが。

「まあいいや。僕は寮に帰って昼食べるから」

考えれば僕が橘を起こす必要もないのだった。めんどうくささの天秤が橘を起こす方に傾いた。一応もう一度だけ司書の先生に声をかけておく。

図書室を出ると気持ちの悪いぬめっとした空気が体を包んだ。部活をしている人たちも昼食時のようで、グラウンドや体育館からは笑い声や話し声が聞こえてくる。吹奏楽部はまだ練習をしているのか、腹にずっしりとくる重低音がここまで響いてくる。

部活動に参加していない僕は少しだけその喧騒を羨ましく感じたりする。高校では部活に入らないという選択をしたのは他でもない僕自身なのだけれど。

寮の食堂に入るとものすごい強風に思わず目を閉じた。

「何、何?」

「ああごめん、扇風機付けっぱだったわ」

風が止む。そこにいたのは清水だった。

「何やってるの」

「いや食堂の空気回さないとなって思って、めちゃくちゃに扇風機回してたんだよ。ただでさえクーラーとかないからな」

「どうせなら窓とか全部開ければいいのに」

「虫が入るだろ」

「さすがよくわかってる」

去年は二人でそれやって想定以上の虫の量に慌てていたのは隠しておいた方がいいかもしれない。バカだと思われてしまう。

「そういえば朝早かったけど、何かやっていたの?」

「お前は逆に何をやっていたんだ」

「僕は朝走っていたんだよ。午前中は図書室で課題進めていたね」

「橘もか?」

「いや、橘は寝てた」

「何やってんだ……」

本当にね、とそれには最大限の同意をしておく。油断しすぎだ。自分の性質をもっと気を付けておいた方がいいと思う。

「何していたのか、教えてくれてもいいのに」

「それにはまだ天野は好感度不足だな。もう少し俺と仲良くなったら教えてもいいけどな」

「それ、教えている人いるの?」

「……いないが」

痛そうなところを見ると突いてみたくなる。イヤなことをしたなと思った。反省はするけれどそれが次に生かされる機会がないあたり、僕は学習能力が薄いのかもしれない。

「いつか気が向いたら教えてよ」

「まあ……考えとくわ」

清水というのはわかりやすい男だった。髪を脱色しているから不良のように思われがちだけど、根はとても真面目で髪はただのオシャレであることがうかがい知れる。出席もするし校則も破らない。口調は少し荒いけれどそれは照れ隠しのようなものなのだろう。

クラスは別、しかし体育の授業が同じなためたまに会ったら話す程度の仲だったのだが、今年からめでたく寮生の仲間入りしたため以前よりは話す機会が増えている。といってもそこまで仲が良いわけではないのは先ほどのやり取りからわかろうというものだ。

「どうして寮に入ったのか、くらいは聞いてみてもいいのかな」

もう少し親しくなれたら聞いてみようと決めた。僕はあまり人と距離を詰めるべきじゃない。それをわかっていても仲良くなりたい人はいる。ハリネズミみたいだなと自嘲気味に笑った。

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