夏色サイダー

時任しぐれ

1 夏の始まり

ふと「夏だな」と思うときがある。

例えばそれは風鈴が鳴らす涼しげな音であったり。風呂上がりが妙に気持ちいいことだったり。空に浮かぶ入道雲であったり。

春や秋、冬にもそういうときがある。梅の花、葉の色づき、木枯らしの冷たさ。そうしたものを見たとき、感じたときにふと思うのだ。「ああ、季節が変わったんだな」と。

特に夏はそんな気付きがそこかしこに転がっているように思える。

きっとそれは、僕たちが夏を楽しみにしているからだ。夏といえば暑い、虫がウザい、湿度が高いとイヤな季節のはずだ。けれどそのイヤな気分が、自然と、中々どうして悪くない気分になっていく。夏の魔法にかけられたみたいに。

高校二年生の七月半ば、期末テストも終わりどこか気の抜けた雰囲気が漂う学校。

今年の夏は、まだ始まっていない。



「寮生はこの後、別途に伝えることがあるので第二会議室まで来るように。それでは皆、よい夏休みを」

担任のそんな言葉を皮切りに、生徒たちは各々の行動を始める。今から一学期の打ち上げに行く者、休みの予定を友達と話し合う者、さっさと帰り支度を進める者。与えられた長い自由を満喫するために、皆がここぞとばかりに活発に動く。

僕もまたそんな生徒の一人と言いたいところだけど、少しだけ違った。まだ完全な自由とはなっていない。やるべきことが残っている。

「天野、今年も?」

声をかけてきたのは栗色の髪をした細身な女子。制服の上に薄手のカーディガンを羽織っていて、傍から見ると少し暑そうだ。

「ああ、そうなると思う。橘も?」

「折り合い付かないみたいで」

「そっか」

彼女はすっと左手首をなぞる。よくわからないが頻繁に見かける動作なので、きっと彼女の癖なのだろう。癖というのは中々抜けるものじゃない。

「行かない? 会議室。どうせみんなすぐ集まるだろうし」

「そうだね。みんな行動が早いから」

「天野がのんきなんじゃない。知らないけど」

先生から伝えられていた時間まではもう少しあるが、僕たちはさっさと教室を後にした。


第二会議室、よく生徒会や部活動の話し合いの場として利用されているらしい。僕は部活に所属していないのでそこらへんの事情を詳しく知らないが、こうして生徒を集めるときに使われることもある。僕としてはそっちの方が印象深い。

会議室の扉を開けると、十五人ほどの生徒が既に席に座っていた。僕と橘は空いている席に適当に座る……はずだったが橘は隣に座ってきた。

「なに、どうしたの」

「隣が空く席がもうないから。別に今更でしょ」

「あー、まあ別にいいけど」

「そう、別に」

相変わらず距離感がよくわからない。友人とも違うし、ただのクラスメイトともまた違う。もちろん恋人でもない。

けれどお互いに腹を割って話せる間柄ではある。このよくわからない距離感は僕たちが寮生だからなのか、彼女が変な距離感の持ち主だからなのか。おそらく両方であると僕は見ている。あまり近づかれたくはないのだけど、それを言って聞く相手でもなかった。

しばらく適当に話をしながら待っていると、予定の時間よりも早く先生はやってくる。うちの担任は寮の管理を任されている。規律に厳しいが生徒に寄りそうタイプで、生徒からの人気は高い。

「やはり集まっているな。行動が早い生徒ばかりで感心するよ」

腕を組んでうんうんと頷く。後ろでまとめている髪がひょこひょこと動いた。いわゆるかっこいい系の担任はその評価をよしとしていないようで、髪型はどちらかというとかわいい系で収めていることが多い。

担任は教壇のところに立ち、生徒たちが揃っているか改めて確認してから口を開いた。

「今日集まってもらったのは調査のようなものだ。二、三年はもう去年聞いたかもしれないが、ここには一年生もいる。一応丁寧に説明していくぞ」

そう言いながらプリントを配る。一番後ろに座っていた僕たちのところにもそれは回ってきた。夏休みも寮に残るかどうか、のアンケート調査。

「基本皆実家に帰ることになると思うが、実家の事情で寮に住んでいる者もいるだろう。だからこうして調査を取ることにしている。一応書類が必要だからな。こうしてプリントという形式を取っているわけだ」

いくつかの説明が続く。三年生は聞き飽きているのか、欠伸をかみ殺しているのが見える。僕もまたそうした面持ちで窓の外を眺めていた。薄い雲が空に広がっている。鳥がすっと窓を横切った。小さい鳥だった。

「書く時間は今から十分。それ以上かかる場合は後で個別に持ってくるように」

はい、と生徒たちの気の抜けた返事が会議室に響いた。先生の前とはいえ、もう皆緊張のスイッチは溶けているのだろう。何せもう夏休みだ。

僕と橘はもう決まっている。というか寮生のほとんどが夏休みのことを決めてここに来ているだろう。十分という時間は決めていない生徒もいる可能性に向けた配慮にすぎない。

書き終わったらプリントをひっくり返す。隣の橘も書き終わったのか机にぐだっと突っ伏しながら話しかけてきた。

「あたしと天野と……あと誰だっけ、残るの」

「清水だったはず。ほら、今年から寮に入った、同級生の」

ピンと来ていない様子だったので説明した。ちょうど僕から見て二つ右の席の最前列。そこに彼は座っている。脱色された髪がクーラーの薄い風でほんの少し揺れていた。髪を染めることは禁止されていないが、それでも少数派だ。

そんな清水を横目に見て「ふーん」と声を上げる。興味がなさそうだった。

「三人ね。三人のために先生も残るなんて」

「本当に大変な仕事だよな。仕方ないことだけど」

「そう、仕方ない」

好きで寮に残るわけじゃない。寮に残らざるを得ない理由があるだけだ。清水がどうかは知らない。話すことは話すけれど、そこまで込み入った話題は避けている。噂話程度の情報なら知っているけど、それで判断を下すのも彼に悪い。

寮生だからといって全員仲がいいわけではない。男子と女子の寮は別だし、部屋が離れていたら会うことも少ない。全員が揃うのは夕食時だけだ。そのときに話さなければ、あとは近くに住んでいる他人とほとんど変わらない。

ほどなくしてプリントは回収され、僕と橘と清水だけが残された。他のメンバーは家に帰るための準備がある。僕たちには別途寮に残る上での注意事項が告げられた。

「起床時間、門限さえ守れば後は何も言うことはありません。男子は女子の、女子は男子の寮に行かないように。お互いに用事がある際は食堂に集まること。他に質問は?」

「ないです」

橘が即答する。僕たちは去年も寮に残っているから、勝手知ったるものだった。

「二人は?」

「僕もないです」

「俺は……ないです」

「もし何かしら尋ねたいことがあるなら、寮監室に来るように。以上。よい夏休みを」


これでようやく正真正銘の夏休みの始まりだ。とは言っても、長い休みは暇なだけ。課題が終わったらあとは運動不足にならない程度のランニングくらいしかやることはない。

一人暮らしのように見えて、寮というのは不便なものだ。門限はあってもクーラーはない。

橘は鞄を肩にかけて伸びをしている。ようやく気を抜けるといったところだろうか。そのまま座ったままでいる僕を見下ろすようにして声をかけてくる。

「買い出し、今日だから付き合ってくれない?」

「いきなりだね。いつものことだけど。何の買い出し?」

「洗剤とか飲み物、あと適当にアイスとかお菓子?」

「なんでまた」

「打ち上げみたいな。清水くんも誘っておいてくれない? 三人しかいないし」

「それはいいけど、清水、参加するかな」

「声かけない方がよほどダメじゃない、知らないけど。無理そうだったら二人ですればいい」

「それはそれでキツイ気もする」

食堂、二人だけが何か騒いでいて、一人黙々と夕食を食べるのは、僕だったらどう考えても精神がもたない。打ち上げをしなければいいんだけど、そうもいかないだろう。橘には決めたことをあまり覆したがらない。

「買い出しした後、どこかで昼食べない? それを打ち上げってことにすればいいんじゃないかな」

「うん……まあ普段外で食べないし、それも打ち上げっぽいか」

橘を上手く誘導したところで、一度解散ということになった。荷物をそれぞれ部屋に置いてくる必要がある。午後一時から買い出し、その後どこかそこらへんにある店に入って遅めの昼食という流れである。

県の中でも比較的都会なこの町はそういうところでは事欠かない。地元のド田舎とは違うのだ。地元ならそこらへん、というのは普通に隣町まで行くということである。イヤな気分になる前に思考をさっと切り替えた。

荷物を部屋に置いて寮から外に出ると、むわっとした暑さが広がった。グラウンドからは運動部の暑苦しい声、近くの木々からは騒々しいセミの声。聞いているだけで汗が出てきそうだ。

「暑いな」

後ろから話しかけられたので振り返る。清水がそこにはいた。鬱陶しそうに太陽を見上げながら顔をしかめている。その気持ちは今外にいる人みなが感じていることだろう。

「そうだね。暑いし、暑苦しい」

「暑苦しい? ……ああ、運動部」

「嫌いじゃないけどね、夏っぽくて。すごく暑苦しいとは思うけど」

「俺もそう思う。嫌いじゃない。かといって、好きなわけでもない」

「意見が合うの、珍しくない? 普段僕と清水ってあまりあわないのにさ」

「そりゃ夏だからな。そんなこともある」

いくつか話をした後、適当に切り上げて裏門に向かう。少し午後一時を回りそうだけど、僕が多少遅れるのは橘も織り込み済みだろう。だから自販機に立ち寄った。

橘は日傘を差して門のところで壁に寄りかかり、上の方をボーっと眺めていた。視線の先を追ってもそこには何もない。たぶん何も考えていない。

「お待たせ、待った?」

「五分くらい」

「ほい、飲み物」

「ありがと……冷た」

缶の周りに水滴が付いている。ポタポタと雫を垂らすそれを見ながら、自分の飲み物を開けた。カシュっと気持ちいい音がする。

「ん」

「自分で開けなよ」

「開けてよ。爪痛くなるし。いつものことじゃん」

「僕は介護係じゃないから」

「つまんない。そんなだから彼女の一人も出来ないんでしょ」

「や、彼女が出来ないのはたぶん橘のせいじゃないかな」

そも彼女を作る気もないけどと言いつつ、缶を受け取って開けてしまう僕は与しやすいと思われているのだろうか。

第二会議室でのことといい、橘はやけに距離感が近くなることがある。寮生はともかく他の生徒にはそういう関係であると勘違いされても仕方がない。

直接言われたことはないから否定しようにも、と言ったところだ。直接言われてないのに「いや違うから」と言うのはどう考えても自意識過剰だ。橘もそれを望んでいない。

「あたしは天野の彼女、イヤだよ」

「知ってるよ」

少なくとも僕たちはお互いにそういう関係ではないことを知っている。

それでいいと思う。他人がどう思っていても、それを全部知ることなんて出来ない。言われれば誤解は解く。それだけだ。


学校からほど近く、ドラッグストアがある。近隣のスーパー等を見て回った結果、ここが最も安く値段も安定していることがわかった。

洗剤と水、調味料などをいつもと同じ分量だけ入れていく。毎度のことながら意外と重い。特に水。二リットル×三本だから六キログラムはある。そりゃ重いわけだ……と今更ながら納得してみた。軽いものは橘が持ってくれるのでそこはありがたい。

「天野がいると助かる。そんな重いものあたしは持てないから。いい人だよね、天野」

「都合がいい人、って意味?」

「持ってくれてありがとう、って意味」

「まあこれくらいなら別に。お礼言われることじゃない。いつものことでしょ」

「そう、いつものこと。だから」

そう言われると心なしか、持っている洗剤の重みが増した気がした。いつものことだからこそお礼を言うという橘らしからぬ行動に涙が出る。

「ねぇ、それは自分で持ってくれないかな」

気のせいではなくて、橘が自分の分の買い物袋まで僕のものに入れていた。

「それ、めちゃくちゃ重いでしょ」

「重いよ。正直三分の一は持ってほしいくらい」

「だからちょっとくらい増えても負担、変わらないかなって」

そう言って橘は袋ごと買ったものを回収する。気づかなかったら本当に持たせたままにするつもりだったようだ。

「イヤなヤツ」

「天野に言われたく、ないっ」

そう言って上機嫌でタッタッと走り出してしまうのだからわけがわからない。女心とかそれ以前に、僕は橘あさひという人間を量り切れずにいた。


寮に帰りつく頃、汗がポタっと顎を伝って落ちた。本当に暑い。暑い上にこんな重いもの持たされているのだから汗が噴き出るのは当たり前だ。担任から「お疲れ」と声をかけられる。タオルを渡された。ありがたく受け取る。確かに疲れているけど、それをあからさまに見せるのも恥ずかしさを感じるものだ。「いえ、慣れてますんで」とつい照れ隠しのようなことを言ってしまった。

「荷物のこともだが、橘のこともだ。私はあれと上手く向き合えなかった」

「と、言いますと」

「何度か面談しているが、未だに彼女は少しも本音を見せてくれないよ。天野には本音というか、腹を割って話しているように見えるからな。大変だろう、橘と上手くやるのは」

先生は大人の女性だから、橘が心を開きたがらないのはうなずける話だった。しかしそれをわざわざ担任に話す理由はない。

「そうでもないですよ。それ言ったら僕だって厄介な生徒ってことになりませんか?」

「天野はわかりやすいからな」

そう言ってにかっと笑われた。そんなに表情が豊かになった覚えはないけれど、傍から見たら違うのだろうか。僕は僕から見た自分しか知らない。

「そうですか……」

「そうだ。いいところだと思うぞ」

「いや、別にフォローを求めているわけではなく」

買ったものを整理していた橘が戻ってくるのが見えたので、ここで担任との会話は終わりとなった。ひらと手を振りながら寮監室に戻っていく。相変わらずいちいち仕草がかっこいい。かわいい路線は無理だと突き付けるべきだったかもしれない。

「お待たせ。じゃ、行こっか」

「どこ行く?」

「においがキツイものじゃなければ何でも」

「指定してないようでだいぶ絞られるよね、それって」

餃子、ラーメンとかの中華系はなしということか。寿司、はありなのか? パスタとかのイタリアンは行けそうだけど。っていうか指定がふわっとしすぎていてどこまでがアウトなのかわからない。

「橘が決めてくれない? 僕そんなに店知らないんだ」

「サイゼリヤでいいんじゃない。あたしは安くて美味しいなら何でもいいから」

「僕も何でもいい」

「そう、じゃあ」

「サイゼリヤか」

そういうことになった。寮から歩いて十五分程度、飲食店が並ぶ通りがある。そこの一画にファミレスが多く偏っている。その一つがサイゼリヤだ。

安くて量があり、味も悪くない。高校生にとっては非常にいい場所だ。

店内に入るとクーラーの冷たい空気が体を包む。この瞬間はいつも何とも言えない感覚になる。夏特有の謎の感覚、気持ちいいのかぞわっとしているのか、自分でもよくわからない。

というより、橘と外に出る際は謎のぞわぞわした感覚があるのだ。誰かに見られているという強迫観念とでも言えばいいのか。男女で出かけるという行為を意識してのものだったら、自意識過剰すぎて恥ずかしくなる。

「さすがに肌寒いね」

そんなことはおくびにも出さず、適当な言葉が口を付いて出た。

「だからカーディガン、羨ましいでしょ。ほら」

カーディガンの袖をひらひらと見せつけてくる。確かに夏場は寒く感じる店も多いから、薄い上着を羽織るのは日焼け対策という点でも防寒という点でも理に適っているのかもしれない。夏場に防寒というのもちゃんちゃらおかしい話ではある。

「羨ましいな」

「でしょ」

二名で入る。店内をさっと見回すと、いくつか見知った顔もいるようだ。学校から近いファミレスだからそういうこともある。

僕はピザを、橘はプチフォッカ、二人共通でドリンクバーを頼んで待つ。

ドリンクバーに二人で向かう。結果、手元にはレモンティー、対面にはメロンソーダがある。甘ったるい飲み物は苦手だからレモンティーにしたのだが、これも結構甘かった。とはいえこのくらいの甘さならおいしいと感じる範疇にある。

「ここの間違い探し、難しいよね」

「八個くらいまで見つけて、文字のフォントとか疑いだして、結局見つからない」

「最後の二つか一つって見つからない。本当にあるのか? って思う」

「何でもそう。本当にあるの? って思ってもあると思わないと見つけられない。そういうものじゃないの。知らないけど」

「じゃあこれ見つけてくれない? やっぱりこれ、子供なら見つけられなくて泣くんじゃないのってレベルで難しいよ」

「あたしは最初から間違い探ししたくない。めんどうじゃん、それ」

「暇つぶしだと思う。別に見つける必要はないからね」

「何それ」

橘は見つけなくていいならする必要ないじゃん、とくつくつ笑った。

「それに見つからなかったら悲しいじゃん。見つけてあげられなかったんだなって」

「そういうものかな」

「そういうものだよ、きっと」

それっぽいことを言うだけの意味がわからない会話を続けていると、注文したものが届いた。ピザは少し遅れて届く。待ってくれるあたり、義理堅いというかなんというか。

「ピザ、半分くれない?」

「イヤだよ、半分て。一切れならまだしも半分て」

「冗談だよ。そんなに食べられないから、プチフォッカ」

打ち上げというにはいささかいつも通りがすぎるけれど、これもこれで僕たちらしいと言えばらしいのかもしれない。特に何か振り返るべきことがあったわけでもないし。

フォッカを千切って口に入れて「おいしい」と呟く。こちらに向けた言葉ではなさそうなので返事をしなかったら、「食べたくないの?」などと聞かれた。そんなにきれいに千切られたプチフォッカを食べる勇気はない。橘は食べる所作が綺麗だ。こちらがしり込みしてしまうほどに。

んぐと言いながら飲み込んだのか、橘は口を開く。

「一年生の今の時期はまだギクシャクしてたよね、天野」

「言うほど今と変わらないはずだけど」

少し言葉が固かっただろうか。図星を指されて動揺したから。

「何というか、固さ? が抜けていい感じになったと思う。今の天野の方が話しやすい」

「そういう橘は、去年の今頃もっと刺々しかった」

「天野のこと、好きじゃないから。今でもそうだけど」

昔話に花を咲かせる。昔、というほど昔か? 一年前だけど随分昔に感じるから、たぶん昔だ。


そんな話をしている今が楽しい。当たり障りのない会話、お互いに踏み込まず踏み込ませず。核心だけには決して迫らない。そんな関係が楽で、だから、もしかしたら気づかなかったかもしれない。


会話が途切れた一瞬、窓の方を見る。窓の外、人の往来が激しい中、見慣れない七分丈の制服。風に流れる黒髪。そして、絶対に忘れるはずがない顔。

「ごめん、ちょっと」

「何? どうしたの」

「金は置いておくから払ってて、ちょっと用事思い出した」

「そんな急に、って、ねぇ! ちょっと待ってよ!」

思わず走り出していた。まだそこまで遠い距離に行ってはないはず。でもどんな顔をして会えばいい? 僕がどの面下げて会えばいい? そんな疑問は置き去りにして、がむしゃらに走る。人違いかもしれないと囁かれた気がした。それも違う。見間違えるはずがない。

町を抜けて、風が吹き晒す。生ぬるい風だ。ふと甘い匂いが鼻をかすめる。

見つけた。

「ちょっと、待って!」

肩を叩く。町と学校を繋ぐ橋の上、ようやく追いついた。

彼女は振り返る。走ってバカみたいに息を切らしている僕と、目が合う。

「あいくん……?」

その名前で僕を呼ぶのは一人しかいなかった。

「……久しぶり、たくみ」

どんな顔をすればいいのかわからないのに、思わず追いかけて、かける言葉もない。ただ声をかけなければいけないと思った。


彼女の持つサイダーが目に入る。しゅわしゅわと音を立てて泡が消えていって。


そのとき僕は何故か、「ああ、夏だな」と見当違いなことを思った。

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