第二話《僕の一番》

 僕は人生のどこかで道を外してしまった。


 なんとなく生きる日々。

 生きがいのない日々。


 小学校の夏休み、宿題を提出しなかったからだろうか。

 中学校の文化祭、全力で頑張る女子を横目にサボったからだろうか。

 高校で積極的に友達を作らなかったからだろうか。


 それとも、そんなの関係なく、生まれたときからだろうか。


 僕の心の花瓶はいつも、空っぽだった。


 そう、この瞬間までは……。



——きみ! 何してるの?


 純粋で純白なカスミソウのような、か細い声。


 心の中で——ちゃぽんっ——と水音が響いた。


 前髪から滴り落ちた雫はまつ毛の上に乗っかり、瞬きをするとその雫は落ちていく。


——ねぇ、きみ! こっちに来てよ!


 白い夏用制服を纏う女子高生は、僕へ向かって元気に手を振る。


 僕はどちらかというと強めの高校生だから、自分に手を降っているのか? 

 と不安になる。

 もしかしたら、僕の後ろに誰かいて、その人に手を降っているのではないか、と考えてしまう。


——ねぇ、そこのきみだよ?


 短めのスカートに、泥だらけの白かったであろうソックス。水色のピンで前髪を留めた少女は不安そうに僕の方に近づいてきた。


 僕の体はなぜか固まっていた。


 手は、足はどうやって動かしていたのか、分からない。女子が近づいてくる。

 それだけで僕はパニックになっていた。


——私とお話しして、くれませんか


 小さい手に、細い腕。すんと伸びた背に、風に靡く長い黒髪。ぷるっとした唇に、おっとりとした目。


 そんな彼女が僕の右腕の裾を摘んでいた。


「きみだよ」

「無視しないでよ」

「不安になったじゃん」

「悲しくなったよ」


 そう、言わんばかりに涙目になっていた。


「あ、雨。


 す、好きなんですか!?」


 何を血迷ったか、僕はそんなことを口に出していた。


 彼女は、あたふたして、息を整えて、それから、嬉しそうに返事をする。


——はいっ‼︎ 雨好きです!


 その時、僕の全身の筋肉の硬直が一気に解けていった。

 そんな、糸の切れた操り人形のような僕を、彼女は半ば強引にブランコの近くまで引っ張る。

 スキップをしてるかのような足取りで。


「あの、一つ聞いていいですか?」


 彼女は顔にかかった触覚をかき分けながら、振り返り、僕の目を見る。

 そして、僕の顔を見て、彼女はふふっと笑い、口を開いた。


 僕の顔はそんなにもおかしかったのだろうか。まぁ、久しぶりの笑顔に頬のピクピクが止まらなかったのは隠しておこう。

 

「これ、なんですか!」


 彼女はそう言って、遊具を指さす。


「ブランコだよ」


 僕の返答を聞き、ほぉほぉ。と頷き、また、指を刺す。


「あれ、なんですか!」

「タイヤだね」


 へぇー!。と声を漏らし、また、指を刺す。


「それは?」

「これは?」

「あれは?」


 彼女はこの公園にある遊具全てを指差し、名前を聞くたびに感嘆する。


 質問攻めに疲れたのだろうか、彼女は、大きく深呼吸していた。


 そして、彼女は右足を一歩僕の方へと出し、前屈みになる。

 急な上目遣いに、全身に鳥肌が立つ。


 身長が僕よりも低い彼女は、右手を僕の方へと伸ばし、顔にスッと手を添える。



——好きっ。一目惚れ



 雨の音はうるさかったし騒がしかった。でも、彼女の言葉は一言一句、明確に聞こえてきた。


 僕は——へっ——と馬鹿みたいな声を出した。


 だって、

 彼女が僕を……。

 初対面なのに……。

 えっ?? 


「ぷぷっ」

 ははっは、はは。そう笑い、いや、大笑いし、彼女はお腹を抱える。


揶揄からかっただけだよ。それに、君、私が揶揄おうとしてたこと気づいてたでしょ。だって、私が近づいても一歩も逃げないし、ちょっと嬉しそうにしてた」


 彼女はそう言って、また笑った。

 一息置いて、僕は彼女に話しかける。


「気づくに決まってるだろ。

 君、質問しなくなったら急に黙って。何か企むようににやけて、何か閃いたように手を叩くし、楽しそうに近づいてくるし。それで、好き。一目惚れ。って流石にねぇ」


 彼女は表情に感情がよく出るらしい。だから、何かしようとしてるんだろうな、とは薄々気づいていた……。


 いや、嘘だ。

 胸の、鼓動の高鳴りが鳴り止まず、もしかしたら、もしかすると、なんて考えていた。男だから、な……。


 そんなこんな、僕の思考は行ったり来たり、焦りと興奮と、他の何かが交錯する。


「でも、ちょっと嬉しかったでしょ!」


 いつからか、僕たちは敬語をやめ、それどころか、僕は彼女に揶揄われるようになっていた。


 雨は勢いを増し、雷なんかも鳴っていた。でも、そんなことは小さなことだった。


 彼女が笑い、僕がちょっぴり怒る。僕が怒ると、彼女は不安そうな顔をする。そして、そんな僕らがおかしくなって二人で笑い会う。


 会話の中身はないかもしれない。どのくらいかというと、

 乾燥した糸瓜くらいだろうか、いやもっと、

 朝食べた白米の粒数について書かれていた論文ぐらいだろうか。

 僕の交流関係くらいだろうか。わからないが、本当に中身のない会話をしていた。


 でも、どこか面白かった。

 何故か、それは明白だ。彼女が何も知らないから。

 無知というには知識量が多いように感じるが、天然というには知識がなさすぎる。


 そのおかげで、反応が楽しくなっていた。彼女はこれを知っているだろうか? とそう言う思考回路になっていく。


 遊具の名前や流行りの話題、駅の名前に、勉強の話。一定の話題には全くと言っていいほど知識がなかった。


 逆に、小説にテレビ、雲の名前に雨の種類。異様に知識がある話題なんかもあって、よくわからない。


 そんな彼女を僕はもっと知りたいと思うようになった。


 スマホには、親やら先生やら、多くの人から連絡が入る。

 ピコピコうるさいと思い、マナーモードにし、

 バイブレーションが騒がしいと電源を切り、カバンの中へと突っ込んだ。


 今は平日の昼間。学校をサボっているというのに罪悪感はなく、どちらかというとワクワク感、好奇心が内から湧き出していた。


 立ち話が疲れるからと近くのベンチで、時々背を伸ばし、体が固まって来てそれはそれで疲れると、ブランコへと移動した。


 背負っていた鞄は中までびっしょりと濡れ、教科書なんて、文字が霞むほど。


 携帯電話は助かるだろうか。最近のスマホは性能がいいというがここまでだとどうだろうか。


 そんな、いつもなら怒って泣いて苦しんで悲しむ、そんな出来事も彼女がいると全てが変わる。


 先生から電話が来ると

——今日ぐらい切っても、いいんじゃない。雨だし!

 そう、僕の何かを見透かしたように諭し


 足が痛くなったら

——大丈夫? 座ってちょっと伸びようか!

 そう、僕のことを本気で心配する。


 鞄のチャックが空いていたことに気づいた時は

——ハハッはは。これはもうダメだね。残念でした! 諦めた方がいいかも

 そう、全力で僕を馬鹿にし、


 携帯電話が終わったと確信したときには

——携帯電話がなくても、生きていけるよ! 大丈夫、君にはまだまだ人生があるから

 そう、仙人のような言葉で僕を慰める。


 その度に、僕は笑って、怒ってもないのに怒ったふりをして、気がついたときには、彼女の笑顔が僕の全てに勝っていた。


 彼女は、僕の一番になっていた。


 僕が女子と仲良くする日が来るなんてことはないと思っていた。というより、僕が女子に心を許す日が来るなんて思ってもいなかったのに。

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