第8章 美名月フランチェスカ、参戦する
第22話
和樹たちが鹿の親子を救出してから、10日が経つ。
明日は、
和樹たちの一般入試日までは、ひと月の期間がある。
そして、昨夜からの大荒れの天気は、今日も収まらない。
昨日の夕方までは穏やかな晴天だったのに、夜半に天候は急変した。
深夜から降り続けた大粒の雪は一向に止まず、二時間目の授業が終わると、生徒は全員帰宅するようにお達しが出た。
「最初から休校にして欲しかった」と、生徒たちは口々に不平を言いつつ、帰路に着く。だが、歩道の雪はスネまで達し、除雪車も来ていない。
和樹も、
登校時から、彼女の声が低い男性の声に聴こえる。
アニメの敵役のオッサンのような憎々しい声だ。
今夜も『
一つは、父の裕樹が二夜連続で風呂場に来ていないことだ。
『霊界』に渡るには、向こうからのアプローチが必要だ。
父が来なければ、浴槽に『三途の川』の水を引き入れられず、『魔窟』に潜行できない。蓬莱さんに憑いた『悪霊』を、放置することになってしまう。
まずは、父が来てくれるのを期待するだけだ。
もう一つは、明日が一戸の推薦入試当日であること。
闘うのは危険と隣り合わせだが、さすがに入試前夜の彼に『悪霊退治』に付き合わせるのは『無茶ゲー』だ。
例の醤油さしを身近に置かなければ、『魔窟潜行』に巻き込まれるのは避けられると思うが、そうしてくれと土下座しても、正義感の強い一戸は拒否するだろう。
自分と上野の入試日前夜にも闘いがあるかも知れないし、どうしたものかと迷う。
取り敢えずクラスメイトの上野には事情を話し、一戸にはメールを送った。
「来るな」とは書かなかった。
その日の入浴時間は、アプリメッセージでも知らせているから、後は一戸の判断に任せるだけだ。
そうして和樹と久住さんは、蓬莱さんをマンションまで送ってから、帰宅した。
母の沙々子も、久住さんの両親も仕事で不在である。
よって、久住さんの家で勉強をすることにした。
蓬莱さんも誘いたかったが、彼女は体調不良の祖母と同居している。
こちらから押し掛けるのも悪いし、この大雪なので、来いとも言えない。
彼女の学力なら、『
30分後、着替えを終えた和樹は教科書とノートを持って、隣の久住家を訪れた。
久住さんも赤いセーターとベージュのカーゴパンツに着替えている。
ふたりはダイニングテーブルに付き、去年の数学の入試問題の復習を始めた。
去年の問題はPCで見られるので、それを解いていく。
(……y=2の場合、AとBの数値を求めなさい……ううっ、分からん)
和樹は、PCモニターに映る二つの三角形と数値を睨む。
父の言った通り、国語と社会で点数を稼ぐのが正解だろう。
隣の久住さんは、軽快に鉛筆を走らせている。
何となくホッとして、その音を聴いていると、「ニャ~」と猫のミゾレが近寄って来た。三毛猫で、ピンクの首輪をしている。
「ダメよ、ミゾレ。ソファーで寝てなさい」
久住さんが注意すると、ミゾレはテーブルに上がりノートPCの横に転がった。
「もう、お行儀の悪い。ナシロくん、これが終わったら休憩しようか」
久住さんは、和樹を見て微笑んだ。
和樹は大きく頷き、残りの二問の解答に挑む。
そして答え合わせの後に、市販のチョコパイと紅茶を頂いた。
「ねえ、ナシロくん。昨夜の『美の
久住さんは、ミルクティーを
「ほら、巨匠の作品を紹介する番組。来週にBSで再放送あるから録画する」
「どんな内容?」
「アングルって画家が描いた『パオロとフランチェスカ』って絵の紹介だった」
……絵画と言うと、どうしても上野を思い出す。
何となく嫌な感じを受けつつ、聞き返した。
「その絵も画家も知らない。上野なら知ってるかな」
「赤いドレスを着たフランチェスカの頬に、パオロがキスしてる絵。中世に実在した恋人たちなんだって」
久住さんは、ウルッと声を弾ませる。
「貴族の娘の美しいフランチェスカは、ある領主と政略結婚させられるの。でも顔に自信の無い領主は、ハンサムな弟のパオロを自分の身代わりに仕立てて、結婚式に出したの。でもパオロとフランチェスカは恋に落ち、密会を続けたけれど、領主にバレて、二人は殺されちゃうのよ…」
久住さんは、大きな瞳も潤ませる。
「とてもロマンチックだけど可哀想……そうだ、絵を見ようよ」
久住さんはスマホで検索し、絵を表示させた。
深紅のドレスの女性が椅子に座り、その右側に
男性は首を伸ばし、恥ずかしそうに
が、背後のカーテンの奥から、剣を構えた黒衣の男が半身を出している。
この男が領主だろうか。
「うん……悲しい話だね」
和樹は適当に頷き、ディスプレイの絵を眺めつつ、突っ込む。
(つまり、不倫だよなあ……)
悪いのは領主だし、素晴らしい絵だとは思うが、久住さんのように話の登場人物に感情移入するには至らない。
いつか恋人が出来たら、『美術館デート』は避けるべきかも知れない。
続いて、映画の『タイタニック』の話を振られ、素直な聞き役に回る。
その後は、理科の入試問題に挑んだ。
結果は60点満点中、数学が15点。理科が40点。
「ナシロくんは国語と社会が得意だし。大丈夫だよ」
久住さんは、ニコニコと笑いながら慰めてくれた。
『父の幽霊とカンニング』なる最終手段はあるが、どうにも気は晴れない。
もやもや気分のままで帰宅すると、間もなく母も帰宅した。
夕食は、野菜たっぷりの味噌煮込みうどん、既製品の茶碗蒸し、グレープフルーツだった。
その後は軽く数学の復習をし、夜の10時を迎えた。
母に続いて和樹が入浴すると、浴槽に父が来てくれた。
「父さん、良かった! 心配したんだよ」
和樹は、父の手を握る。
父は、いつも通りに優しい言葉を掛けてくれた。
「すまない、ちょっと忙しくて。心配させて悪かった。上野くんも一戸くんも、蓬莱さんも無事だな? 母さんも、変わりないな?」
「うん。母さんも元気だよ。上野は相変わらずの『のっぺらぼう』だけど」
「そうか……今夜も行けるか?」
「うん、すぐに行く!」
和樹は浴槽に背を預け、目を閉じた。
額に光が集まり、膨らみ、やがて弾ける。
肉体を離れた『
そして辿り着いた『魔窟』の地で、上野とチロ、一戸と馬に再会した。
「ごめん。明日は入試なのに」
和樹は一戸に謝ったが、一戸は首を振って
「お前たちの入試前夜の方が心配だけどな」
「最善は尽くすよ。それより、上野。『パオロとフランチェスカ』って知ってた?」
「昨日、放送してたやつか? 毎週、録画してる。父さんが観るから。たまに『その解釈は違う』って、怒るけどな」
上野は抱いているチロの頭をナデナデし、チロは尻尾を振って応えた。
「そっか。今度、観せてくれよ」
「いつでも。さて、今日は何が相手だ?」
「邪悪なオッサン声優だ……たぶん」
和樹たちは、開いている山門に向かって歩き出す。
山門の前では、方丈老人が待っていた。
「さて……今宵も揃っておるな。行くかのう?」
老人は、頭上の巨大な月を見上げる。
一同は古びた山門をくぐり、今宵の戦地に入った。
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