第21話

 だが、その美しい声は直ぐにき消えた。

 和樹は、夢から覚めたように瞬きを繰り返し、我に返る。



「……僕が行く!」

 和樹は軽々とジャンプし、子鹿の乘っている流氷の上に着地した。

 岸までの距離は、およそ6メートルほど。

 生身の中学生では、不可能な飛距離だ。


 着地した和樹は、すぐに状況を確かめる。

 上野たちの居る沿岸の凍土の向こうには、何も無い。

 凍結した大地が、果て無く広がっている。

 背後の海は荒々しい三角波が立ち、この流氷も揺れる。

 このような場所に、二頭の親子鹿が住んでいたのだろうか。

 見上げた灰色の空には、あの巨大な月は無いが……。


神名月かみなづき、子鹿を抱いてこっちに跳べるか!?」

 一戸いちのへの声はどうにか届くが、これ以上離れたら、うなる風に掻き消されるだろう。

「ずぐ戻る!」

 和樹は即答した。

 子鹿の体重は不明だが、生まれて間もないように見える。

 この距離なら、どうにか抱えて跳べそうだ。

 だが、体に触れようとした途端に、全身に強烈な静電気のようなものが走る。

 衝撃で、1メートルほど背後に弾かれる。


「おい!」

 上野は一戸を見た。

神名月かみなづきが弾き飛ばされたぞ!」

「触れたら駄目なのか!?」

 一戸は横の母鹿を見て、手を伸ばす。

 数センチの所に指先が近付くと、指先に火花が散り、やはり弾かれて後退した。


 それが合図であったごとく、轟音が鳴り渡った。

 流氷が漂う海の向こうで、白い波しぶきが立つ。

 まるで海底が崩れたように、海水と流氷が激しく流れ落ちて行く。

 背後に出現した巨大な滝に、和樹は息を呑む。


「何だよ、あれ! 海に滝が出来やがった!」

 上野は沿岸ぎりぎりまで近寄り、寒さで青くなった顔で果てを見る。

 和樹と子鹿の乘る流氷の背後の海は消え、横一文字の滝と化して、海水が落ちて行くのである。

 和樹の後ろを漂う、小さな流氷は為す術もなく滝に吸い込まれるように、下に消えて行く。


「神名月、お前の表着うわぎで子鹿を包んで跳べるか!?」

 一戸が声を掛ける。

 『神名月の中将』の表着に身を護る効果があることを、彼は知っていた。

 和樹は、白銀色の表着を脱ぎ、子鹿の背に掛ける。

 直に触れなくとも、表着の上からなら触れるかも知れない。

 しかし、表着の上から子鹿を抱こうとしても、やはり弾かれる。

 素手で触れた時ほどではないが、磁石の両極が反発するように手が押し返され、抱くことが出来ない。


「嘘だろ、おい……!」

 上野はしっかりチロを抱きつつ、呆然と立ち尽くす。

 このままでは和樹と子鹿は、背後の幅広の滝に呑み込まれてしまう。


「……子鹿を置き捨てれば良いではないか」

 方丈老人は、低い声でつぶやいた。

「ひとりなら、まだ跳べる距離じゃろうて。お前ら、そう言うてやれ。ワシは声が小さくてのう…」


 しかし、上野も一戸も応じない。

 老人の言葉が強風で聞こえないとばかりに無視し、沿岸から遠ざかる和樹と子鹿を睨む。隣では、母鹿が微動だにせず、子鹿を見つめて棒立ちしている。


「くそったれが!」

 上野は叫び、自分の周辺を塗りつぶしてみた。

 薄青い塗料のようなものが広がり、沿岸を乗り越えて海面に達したが、揺れる海面にぶつかると、塗料はボロボロと剥がれ落ちて海に落ちる。

「ダメだ。オレの塗りつぶしは、動くものには効果が無い……」


「いや、いける!」

 一戸は、上野の足元を見て言った。

「足元をよく見ろ! 足の周辺が……お前の位置が高くなってる!」

 上野は下を見ると、確かに自分を中心に半径1メートル程度が盛り上がっている。ちょうど、氷のコースターの上に乗ったような感じだ。


白峯丸しらみねまる!」

 一戸が呼ぶと、彼の背負う『薙刀なぎなた』が応えた。

 全長180センチを超える名刀は、一戸の背負う革帯から飛び出す。

 そして一戸が腕を横に伸ばすと、スッと手のひらに収まった。

 彼は両手で『白峯丸しらみねまる』の柄を握り、上野の足元の氷に柄の先端を叩きつける。

 鈍い音が響いたが、盛り上がった氷にヒビは入らない。


「行けるか、如月きさらぎ!?」

 一戸は、友人に訊ねる。

「『塗る』のではなく、『コピペ』する感覚だ!」

「……分かった! チロを頼む!」

 上野は一戸にチロを差し出し、一戸は片手で受け取る。


「行って来る!」

 上野は足早に進む。

 すべきことは理解した。

 アナログに『塗る』のではなく、氷を足元で『コピペ』しながら、和樹と子鹿の居る流氷まで辿り着けば良い。

 見たところでは、『コピペ』できる範囲は自分の半径1メートル。

 だが、子鹿を避難させるには足るスペースだ。


 上野は躊躇ためらわずに、海上に右足を踏み出した。

 足が下に落ちる前に、氷がその周辺部に発生する。

「行ける!」

 足元に出現した氷は、海流にも揺れない。

 上野の足元から離れた氷は、たちまち消滅するが、自分が渡るのに問題は無い。


神名月かみなづき!」

 上野は友人の『名』を呼び、進む速度を上げて、彼らの乘る流氷に辿り着いた。

 距離は大きく開き、沿岸まで25メートルはありそうだ。

 滝までの距離はその倍ほどだろうが、ぐずぐずしている暇は無い。


「如月、子鹿を先に!」

 和樹は、子鹿を押し出すように後ろに立つ。

 沿岸に居る母鹿が、鳴くように口を開いたのが見えた。

 子鹿に鳴き声が届いたのか、子鹿は上野の足元の氷に足を乗せる。


 だが、この氷は、二人と一匹が乗るには狭い。

「子鹿を連れて行け! 僕は泳ぐ!」

 和樹は子鹿に掛けていた『表着』を、再び羽織った。

 その間も、流氷は『滝』へと流されて行く。

 いかに『神名月の中将』の跳躍力を持ってしても、この距離は厳しい。

 それならば、泳いだ方が良い。

 この『表着』を着れば、流れに逆らって進むことは可能なはずだ。

 

「……分かった!」

 『如月』は応えた。

 子鹿を沿岸に上げるのが先決である。

 何より、長きに渡る友人の能力を信頼している。

 今以上の危機など、いくつもあったのだから。


 上野は、対岸に向けて歩き出した。

 足元に氷が張り、子鹿もおとなしく付き従う。

 和樹も、海に飛び込んだ。

 背後への流れは速く、凍える冷たさだ。

 これが生身の人間であれば、一分ももたない。

 だが、彼はイルカのように流れに逆らって進む。


 海水は冷たいが、『表着』の裏からは温かい光が溢れて彼を包む。

(……月窮げっきゅうの姫君……)

 『神名月の中将』は囁き、愛する人の面影を思い起こす。

 『宿命の恋人』にして、未だ結ばれぬ気高き姫君……。


 


「神名月…!」

 呼ばれて、自分を取り戻す。

 いつの間にか、沿岸に辿り着いていた。

 氷上に横たわった一戸が、手を伸ばしている。

 安堵あんどしたせいか、急に全身に冷たさがみ、和樹も手を伸ばした。

 ふたりはしっかりと手を握り、上野も和樹の着衣を掴んで引き寄せる。

「だ、大丈夫だ!」

 和樹は声を絞り、その直後に沿岸に引き上げられた。

 

 その瞬間、またも周囲の情景が変わった。

 流氷漂う海は消失し、薄闇に包まれた大地に置き換わる。

 低い木々が点々と繁り、雑草が寒々しく地に生えている。

 そして上空には、見慣れた巨大な月がある。

 

「お前、着物が濡れてないな」

 上野が、うずくまる和樹を覗き込む。

 チロがワンワンと鳴き、見ると、走り去る鹿の親子の後ろ姿があった。

 そして傍には、頑丈な木柱に据え付けられた、閉じた山門がある。

 この門の先に、次の『門番』が待ち構えているのだろう。


「結局、何がどうだったんだよ?」

「分からない……」

 上野の疑問に、和樹は首を振って答える。

 あの鹿たちが、蓬莱ほうらいさんに憑いていたのは間違いないだろう。

 彼らを『悪霊』に分類するのが正しいのかは判断できない。

 もしかしたら、彼らに試されていたのかも知れない。

 

「お前たちの馬鹿さ加減も、相当なものじゃのう……」

 木の陰から、方丈老人が姿を現した。

「方丈さま……」

 和樹は、神妙に頭を下げる。

「……けれど、子鹿を助けたことを間違っていたとは思いません」

「そうじゃろうな……」

 老人は考え込むようにうつむき、やがて顔を上げた時には、もう和樹たちの姿は無かった。


「今は、それでも良いが……『水葉月みずはづき』が戻って来たら、どうする? お主らをあやめた者を赦すか……?」

 老人は巨大な月を眺め、自分の左の手のひらを眺めた。





 

 翌日、和樹は久住くすみさん・蓬莱ほうらいさんと一緒に登校した。

 冬の風は冷たいが、昨夜の流氷の海に比べたら、生温なまぬるく感じてしまう。

 蓬莱さんのコートのフードには、鹿の頭は無い。

 『門番』だったらしい親子の鹿は、自分たちを見逃してくれたのだろう。


「今日も寒いね」

 久住さんは真っ白い息を吐く。

「来月は、もっと寒いんだよ。一般入試の時期は、寒さが少しゆるむけど」

 久住さんは蓬莱さんに教えていたが、不意に和樹を見た。

「そうだ。『桜南さくらみなみ』の制服って、男子もスタンドカラーのシャツなんだよね。けっこうイイ感じだよね」


「そうだっけ?」

 和樹は適当に答える。

 久住さんは、頬を丸くふくらませた。

「やる気ないなあ。もうちょっと頑張ろうよ、ナシロくん」

 

 久住さんは、蓬莱さんの手を取って、先に並んで歩く。

 ふと見ると、歩道から奥まった民家の前に何かが落ちていた。

 和樹は立ち止まり、それがゴム長靴であることを確認してから、久住さんたちの後を追った。

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