第7章 主人公、真冬のオホーツク海で子鹿救出を試みる
第19話
『
和樹は、
帰宅後は着替えをし、肉まんで腹ごしらえしてから、近所のスーパーに向かう。
母の沙々子から、特売の米を買ってくるように頼まれていたのである。
今日からの一週間、志望校の出願変更ができる期間だ。
和樹も上野も、志望校を『
担任の野田先生も、「何とか滑り込めるかも知れない」と言ってくれた。
上野は、少々危ないらしいが、「あと一ヵ月あるから頑張る」とのこと。
そして一戸は、予定通りの『
同じ高校でなくとも、『悪霊』との闘いには支障は無いだろう。
彼は、上野のように『顔面』を持って行かれた訳でもなく、普通に電話やメールで連絡を取れば済みそうだ。
「しゃむいな…」
和樹は曇った空を見上げた。
歩道と車道の間は、二メートル近い雪の壁で隔てられている。
それに、今年は積雪量が多い。
通りすがりの和菓子店では、男性従業員たちが雪かきの真っ最中だ。
「ん?」
和樹は、道の先に茶色い落とし物があるのを見つけた。
近付いて見ると、ラバー製の鹿のお面である。
上野のスケキヨマスクのように、頭からスッポリかぶる仕様だ。
「何で、こんなとこに?」
爪先で軽く蹴ろうとした……が、鹿のお面は足を擦り抜けた。
和樹が思わず身構えると、鹿のお面はスーッと消えた。
(これは……この世のモノじゃない!)
ここで和樹は、道の先にも同じ物が落ちていることに気付く。
走り寄り、通り過ぎると、お面はやはり消失する。
そして、信号を超えた先にはスーパーがあり、そこの信号の前にも数個のお面が落ちている。
これは只事では無い。
(くそっ、『悪霊』の仕業かよ!)
和樹は信号の色が変わるのを待ち、スーパーの玄関前に着く。
そして、唖然と立ち止まる。
スーパーから出て来る客の全員が、鹿のお面を被っているのだ。
入る客は、入った途端に頭の上にお面が出現し、それがストンと顔に堕ちる。
しかし、誰も気付かない。
(と、言うことは……中に、蓬莱さんが居るのか!)
呑気に肉まんを食べている間に、蓬莱さんが先に来ていたとは不覚だ。
和樹は買い物カゴを持ち、一階食品売り場のレジ付近に陣取ることにした。
入り口は二カ所あるが、帰路の関係上、正面玄関を使うだろう。
しかし、店員も客も全員が鹿のお面を被っている異様な状況だ。
この前は一戸が花婿衣装を着せられたが、嫌がらせが次第に派手になってくる。
店から離れたら、お面は道端に落ちて消えるのだろうが、ベビーカーの赤ちゃんまでもが鹿のお面を被っているのは、シュールすぎる。
「……ナシロくん?」
蓬莱さんの声が掛かり、和樹は振り向いた。
買い物カゴをカートに乗せた蓬莱さんが立っている。
デニムパンツを履いているから、彼女も着替えてから来たのだろう。
幸いと言うか、彼女は鹿のお面を被らされていない。
「蓬莱さん。買い物に来てたんだ」
「ええ。ナシロくんもお買い物?」
「うん。母さんに、お米を買って来るように言われて」
見ると、蓬莱さんの買い物カゴにも米が入っている。
他には、半分にカットされた大根。人参・豆腐・小量の豚肉・蜜柑の袋に、ミルクココアが見える。
「もう、買い物は終わり?」
「ええ。ナシロくんは?」
「米だけ買って終わりだよ。一緒に帰ろうか」
和樹は答え、レジ近くの台に積んである五キロの米をカゴに入れ、レジに並ぶ。
蓬莱さんは鹿のお面を被ってはいないが、背中に垂らしたコートのフードに、ぬいぐるみの鹿の頭がくっ付いている。
ラバー製より可愛げがあるが、下校時はフードにあんなものは付いて無かった。
本当に油断もスキも無い。
やがて、買い物を終えた二人はスーパーを出た。
和樹は自分の米袋と、蓬莱さんが買った野菜類を持ってあげる。
「ごめんね。持たせてしまって」
「いいんだよ。蓬莱さんさえ良ければ、家の玄関まで送るよ」
和樹は後ろを振り返りながら言う。
雪が積もった歩道は、二人が並んで歩けるほど広くはない。
「じゃあ、お茶でも飲んで行って」
蓬莱さんが、思わぬことを言ってくれた。
彼女の自宅を訪ねる意図は無かったが、これはチャンスかも知れない。
彼女の家庭を知ることは、『悪霊』と闘いのヒントになり得る。
だが同居のお祖母さんが在宅なら、三人で話をすることになるだろう。
重い米を持ちつつ、二人は蓬莱さんのマンションに到着した。
エレベーターを上がり、五階の端の部屋に到着する。
木の表札は『村崎』と書かれていた。
蓬莱さんは鍵を開け、玄関先で呼び掛ける。
「おばあちゃん、ただいま。お友達を連れて来たの」
しかし、祖母らしき人は出て来ない。
「おばあちゃんは腰を痛めて部屋で横になっているわ。立つのに時間が掛かるの。お米はここに置いて」
狭い玄関の隅に米を置き、ショートブーツを脱いで上がる。
リビングダイニングには小さな食卓と、窓際にソファーとテーブ。
小さなテレビとDVDデッキ、ストーブがある。
壁には、カレンダーと古い置時計とカラーボックス。
簡素な部屋だが、カラーボックスの上には、クマのひな人形の縫いぐるみが飾ってある。
ひな人形の衣装は豪華で、質素な家具の中では浮いている。
どうやら、玄関を入って右にリビングやキッチン、左に個室があるようだ。
「ナシロくん。おばあちゃんが『ゆっくりして行って』って。片付けたら、お茶を煎れるから座って待ってて。コートは、ソファーの背もたれに掛けてね」
「ありがとう…」
蓬莱さんが部屋から出て来て、コートを脱ぐ。
家の中に異変は無いが、祖母が鹿のお面を被らされている可能性はある。
だが、今日は会えないだろう。
夜までに、何も起きなければ良いと願うばかりだ。
「はい。お口に合えば良いけど」
蓬莱さんが、ほうじ茶を入れた湯呑みと、小袋に入ったミニどら焼きとクリーム大福、そしておしぼりを乗せたトレイを持って来た。
お茶やお菓子、おしぼりの入った皿をテーブルに置き、和樹の隣に座る。
軽いウェーブの掛かった黒髪が頬に垂れており、それを見た和樹は心臓がズキッと熱くなる。
整った顔立ちの女の子だと思ってはいたが、特に意識して接しては来なかったのだが……。
「あの、じゃあ……いただきます」
和樹は目を
「お祖母さん、いつから腰を痛めたの?」
「去年の秋から。近くのクリニックで看護師をしているけれど、今は休んでる」
「そう…」
答えた和樹は、一戸とのやり取りを思い出す。
【あのさ、終業式の日に、廊下で蓬莱さんを見たんだよね?】
【ああ。彼女、俺の顔見知りの看護師さんと一緒だった】
(つまり……保護者のお祖母さんが動けないから、同僚の看護師さんに転入の付き添いを頼んだってとこかな?)と、推測する。
「お祖母さん、早く良くなるといいね」
「ありがとう」
「手伝いが必要なら、遠慮なく言ってよ。男手が無いと大変だよね。一戸は剣道をやってて腕力あるし、上野には兄貴が居るから力仕事なら手伝える」
和樹はお茶をすすり、立ち上がる。
「ちょっと早いけど、もう失礼するよ。勉強もあるし。一緒の高校に行きたいね。せっかく友達になったんだから」
「ここに引っ越して来て、良かった……」
蓬莱さんも立ち上がって言った。
「みんな親切で……冬は寒くて、歩きづらいけど」
「だよね。慣れないと、雪道は滑っちゃうよね」
「……父も母も、行方不明なの……」
蓬莱さんはいきなり話題を変え、低い声でささやいた。
和樹はズドンと胸を撃ち抜かれたような痛みを感じ、彼女の顔を見つめる。
「一昨年の夏……行方が分からなくなって五日後、崖下で父の車が発見された。車はグチャグチヤで……父の遺体も、一緒に乗っていた母の遺体も見つからなくて……車に、血痕も無かった……」
「蓬莱さん……」
「それ以来、伯父の家にお世話になってたけど……去年の秋に、両親の『失踪宣告』を裁判所に提出した。そして、母のお母さんに当たる祖母のこの家に越して来たの」
和樹は、呆然と立ちすくむ。
『運命の恋人』らしい蓬莱さんを取り巻く状況は、最悪なのだと知る。
彼女が何者かは、まだ分からない。
彼女を憑け狙う『悪霊』の目的は分からない。
けれど、支えてあげなければならない。
手を差し伸べなければならない。
色々な意味で、彼女には助けが必要だ。
和樹は、彼女の両手をそっと握る。
「何でも相談して。辛いことがあったら遠慮なく言って。久住さんも大沢さんも、みんな良い人だよ。みんな、お互いに支え合おう」
「ありがとう。急に、誰かに聞いて欲しくなって……」
蓬莱さんは、潤んだ黒い瞳で和樹を見た。
その瞳は、漆黒の真珠のように美しかった。
しかし、和樹はそれ以上は彼女に触れることなく、家を去った。
「そう言う事情か…」
この夜、浴槽に現れた父の裕樹は呟いた。
「『悪霊』どもは、蓬莱さんを追い詰めようとしているのかも知れない。ご両親を現世から消したのも、そのためかも」
「父さん。ご両親は亡くなったってこと?」
和樹は、すがるように父の膝に手を掛けた。
すると、裕樹は安心させるように首を振る。
「『霊界』で金を使ったら、実際にお年玉が、その分減ったと言ってたな。珍しいことだと思うが、それと同様に、『悪霊』どもは、現世の人間を
「じゃあ、蓬莱さんのご両親は、どこかに閉じ込められてるとか?」
和樹は、祈る思いで聞く。
蓬莱さんは「伯父さんの家に居た」と言っていたけれど、居心地が良くなかったのは明らかだ。
だから、お祖母さんを頼って、この街に引っ越して来たのだろう。
けれど、暮らしに余裕があるようには見えない。
白クマのひな人形はご両親からのプレゼントで、引っ越しの時に持参した少ない品物だったに違いない。
「ご両親の行方については、何とも言えないが……亡くなったのなら、『霊界』のどこかに居るだろうが、そんな話は聞いていない。それより……和樹、これからも頑張れるか?」
父の言葉に、和樹は大きく頷いた。
「うん。蓬莱さんのご両親は、きっと生きてる!じゃ、鹿退治に行って来るよ!」
こうして、今夜も『神名月の中将』は、『魔窟』へと向かう。
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