第16話
「オレも闘うって……目の前に『悪霊』とやらが居るんですか!?」
上野は驚き、
「武器なんて、何にも持ってないですよ!」
「じゃから、取っ組み合いだけが闘いじゃないと言うたぞな。斬り合いは、中将に任せとけ。お主は、この暗闇を何とかせい」
老人は上野に近付き、杖で軽く彼の太腿を叩く。
「お主、絵の心得があるんじゃろう?」
「ないですよ。父親が画家で、制作過程を見たことはあるけど、オレに絵心は…」
「塗ってみれ」
「は?」
上野はポカンと口を開ける。
「塗れと言うたのが聞こえんかったか、この
老人が警告し、和樹と上野は、思わず身を伏せた。
前方から矢のようなものが無数に飛んで来て、頭上をかすめる。
「ほれ、敵は飛び道具も持っとるぞ。そんな犬っころの霊体、あの矢がかすったら一瞬で消えちまうぞい」
老人の厳しい一言は、上野の心に突き刺さる。
大変な闘いに巻き込まれたことを、ようやく彼は実感した。
上野はゴクリと喉を鳴らし、チロを左手で抱いたまま、恐る恐る右手を地面に当てる。
「
和樹も身を伏せながら、友人の名を呼ぶ。
和樹も、チロを何度も抱いたことがある。
死ぬ何ヶ月か前、上野の家に行った時、老齢だったチロはけいれんを起こして、仰向けに倒れ、上野はチロを抱いて腹を撫でてやっていた。
(上野、頼む!)
太刀を鞘から抜き、いつでも跳び出せるよう片膝を付いて待つ。
上野の能力は知るべくもないが、方丈老人は信頼できる。
上野には、状況を打破できる能力があるに違いなかった。
だが、上野は右手を地面に当てたまま動かない。
当然だが、何をすべきか分かっていない。
唐突に『魔窟』に放り込まれた人間に「闘え」と要求するのは、無謀だろう。
和樹とて、父の裕樹のアドバイスがあったから、覚悟を決めて『魔窟』に潜ることが出来たのだ。
そのうちに、第二波の矢が飛んで来て、チロが怯えたようにクンクンと鳴いた。
上野はチロを見て、続いて和樹も見る。
和樹は力強く頷き、そして前方をにらんだ。
上野はヤケクソ気味に叫ぶ。
「くっそおおおおおおお!やればいいんだろ!何だか知らないけど、塗りやがれえええっ!」
その叫びが終わらぬうちに、周囲の暗闇が一気に晴れた。
晴れたと言うよりは、瞬時に色が変わった感じである。
黒一色だった周辺は、オレンジ色に変わった。
上野の羽織るマントと同じ色だ。
「これは…!」
和樹は上野を見た。
上野の周辺部、おそらく半径50メートルほどの景色が、オレンジ色に塗りつぶされた。
前を見ると、前方の地面には無双の裂け目がある。
その先に、『悪霊』たちが一列に並んで立っていた。
弓矢を構えて、こちらに顔面を向けている。
蓬莱さんの住むマンションの壁際を歩いていた、人型の『悪霊』だろう。
30体は居るだろうが、真ん中にひときわ大柄な『悪霊』が居る。
「あの真ん中の奴が親玉だ!」
和樹は、『
『悪霊』たちは、矢を射る体勢のまま動かない。
そう、彼らもオレンジ色に染まっている。
粘度の高い油絵具をかけられて固まった如く、彼らは動けないのだ。
瞬間的にそれを悟った和樹は、ためらわずに跳び出した。
裂け目を跳び越え、二回の跳躍で大柄な『悪霊』の前に辿り着き、太刀を一気に振り下ろす。
『悪霊』は金切り音を残して消滅し、並んでいた小柄な『悪霊』たちも崩れ落ちるように地面に消えた。
すると、オレンジ色に染まっていた情景は、ただちに闇に戻った。
前のような真っ暗闇ではなく、月明かりに照らされたような薄闇状態で、地面の裂け目も確認できる。
ここを支配していた『悪霊』の呪縛が消えたのだろう。
「すげえな、
チロを抱いた上野が駆け寄って来る。
「お前、ホントにあんなのと闘ってるんだ。ジャンプできるなんて、すげえよ」
「自分でも驚いてる。それより、助かった。ありがとう」
「何か、今一つ冴えない能力だけど。オレンジ色のせいで、目がチカチカする」
「そんなことない。お前が居てくれたから、敵が見えたんだ」
「しかし、でかい月だな。おっかねえ」
「ああ。この『魔窟』の中心に『
そう言ってから、ふと眉をひそめた。
『
それを誰に教わっただろうか?
ここに来た上野は『如月』と言う名を思い付いたと言ったが、自分も『神名月の中将』が、自分の呼び名だと自然と分かった。
和樹は太刀を鞘に仕舞いつつ、考える。
蓬莱さんが『運命の恋人』なら、ひょっとして、前世で……
だが、またも目の前に、山門が
「今日は終わりらしい。帰るぞ、如月」
和樹は言うと、山門が開いて行く。
だが、
「方丈さま……」
挨拶をしようと振り返ったが、方丈老人は居ない。
まだ、地面の裂け目の後ろに居るのだろうか。
しかし、影の如き老人の姿は、薄闇に溶け込んで見つけるのは難しい。
目を凝らしているうちに、彼らは上空へと引き上げられ、帰路に着いた。
そして、方丈老人が山門前に辿り着いた時には、二人と一匹の姿は消えていた。
「仲間は良いものじゃな、中将よ」
老人は山門の前に座り、竹筒の水をひとくち飲んだ。
「早う、来い。ワシの子はお前らを待っとる…」
一夜が明け、和樹は上野家を訪れた。
「おはようございます」
和樹は頭を下げ、上野の母親も笑顔で迎える。
上野の家は一戸建てで、かなり大きい。庭も広く、カーポートが二台分ある。
「わざわざ、遠回りして来てくれるなんて。久し振りね、
「いえ、大丈夫です。充分、間に合います」
和樹はスッキリした顔で一礼し、玄関奥の階段の手前に飾られている絵を見た。
「それ、主人が買ったのよ。モディリアーニの…」
「『黒い帽子の少女』ですね。昨日、昌也くんからのメールで知って、調べてみました」
「下校の後、時間があったら見にいらっしゃい」
何も知らない母親は、屈託なく言う。
(この家のお祖母さんのお姉さんたちが、和男くんが連れてた女の子なんだ…)
和樹は複雑な思いで、絵と母親を見比べる。
モディリアーニの複製画の少女は黒い帽子をかぶり、オレンジ色のトップスを着ていた。
『如月モディリアーニ』の帽子・マントと、同じ色合いだ。
こういうことか、と感慨深く見ていると、上野が階段を降りて来た。
「おまたせ~。母さん、行って来るね」
上野はショートブーツに足を突っ込み、和樹と並んで外に出る。
深夜には雪が降ったが、今朝は晴天だ。
ダイヤモンドダストがキラキラと輝き、冷たい空気も気持ちが良い。
「久住さんは?いつも、一緒に登校してるんだろう」
上野は気遣って訊ねたが、和樹は軽く返答した。
「上野に用事があるから、上野の家に寄ってから登校するからゴメン、って昨夜のうちにメールしといた。それに、蓬莱さんが居るし」
「そっか。それでさ、あの後に『モディリアーニ』で検索かけたら、本人の写真が出てきて」
「僕も見た。白シャツを着て、襟にスカーフ巻いてて、黒いズボンにショーブーツ履いて座ってる写真だろ。『如月モディリアーニ』の衣装まんまじゃん」
「うん。ビックリした。見たことない写真なのに」
上野は首を傾げたが、和樹は何となく腑に落ちる。
『モディリアーニ』の写真の衣装を知っていたのは、方丈老人のように思う。
老人の本体は、やはりこの現代に生きる人では無いだろうか。
「で、これからも『如月モディリアーニ』を続けるか?」
和樹は聞いてみた。すぐに、予想通りの返事が返って来る。
「当たり前だろ。また、チロに会える。チロの鼻と、オレの技術は役に立つぜ」
「だな。帰りにお前の家に寄ったら、チロの写真にお参りさせてくれ」
「ありがと。お前、良い奴だな」
「うん」
「ただし、だ。次からは『魔窟に』入る日は、必ずメッセージ入れてくれ。また、トイレで座ってる時に引っ張り込まれたら困る。気付いたら、兄貴がトイレの鍵を壊す寸前だった」
「ごめん。必ず、入浴時間も教えるよ」
かくして、雪を踏みしめつつ、ふたりは学校に向かう。
中学三年生、三学期の始業式当日。
まだまだ、闘いは終わりそうにない。
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