第5章 如月モディリアーニ、愛犬のチロと一緒に参戦する

第14話

 上野の顔面が持ち去られてから五日後。


 上野は、一日置きに和樹の家を訪れる。

 もちろん、『三途の川』のエキス入り醤油さしの補給のためだ。

 母の沙々子に気付かれぬように、母の休日には来ないようにと釘は刺してある。

 念には念を入れ、こっそりコピーを取った母の勤怠表も渡した。


「明日から三学期だな」

 和樹はビスケットを摘みつつ、向かい合って座る上野を見る。

 テーブルの上には、カフェオレと砂糖入りコーヒーとビスケット。

 そして丸カゴの中に、醤油さしが20個ほど入っている。

 のっぺらぼうになった上野に渡すためだ。

 頻繁に醤油さしを買うわけにも行かず、古い湯を捨てて使い回している。


「でもよ……そのマスクはやめろって」

 上野の横に置いてある、頭からスッポリ被るマスクを見て息を吐く。

「何で、スケキヨマスクなんだよ。かわいくないっての」

「仕方ないだろ。量販店にコレとゴリラしか売ってなかったんだよ。毛の無い分、ゴリラより安かった。これ、持ってないと不安でさ」

 上野はカフェオレをすすりつつ、スケキヨマスクを膝に乗せる。


「頼むよ。俺の顔を持ってった『幽霊』を探し出して、取り戻してくれよ」

「ああ。でも、まだ手掛かりがない。ごめん」

「いつまで、家族にゴマかせるかねえ……。で、蓬莱ほうらいさんは無事?」

「たぶん。隣の久住くすみさんは何も言って来ないし」

 和樹は、久住さんが冬期講習から帰宅する時間を狙って、一階の郵便ポストをチェックしに行く。

 久住さんは蓬莱さんと仲が良いし、異変を感じたら自分に相談するだろう。

 

「ここからじゃ、蓬莱さんの家は見えないしな」

 和樹は立ち上がり、リビングの窓から向かいのマンションを覗く。

 残念ながら、蓬莱さんの住む部屋は死角で見えないのだ。

 上野も、並んで横に立つ。

「なあ。蓬莱さんは、東京の藤宮ふじのみや学園から転校してきたんだろ?」

「そうらしい。蓬莱さんの制服は、その学校のに間違いないって坂井が言ってた。名門のお嬢さま学校だって」

「でもさ。そんな子がこんなローカル都市に越して来て、新しくないマンションで暮らすなんて、よほどの事情だろ。しかも、中三の受験直前だぜ」

「……だよね」


 和樹は、彼女が暮らす五階を眺める。

 家族のことは聞いたことはないが、転入初日の帰宅時、久住さんが声を掛けた時には、中年の女性と歩いていたそうだ。たぶん、母親だろう。

 そして上野には、蓬莱さんが自分の『運命の恋人』だと指摘されたことは、まだ話していない。浴槽に現れた幽霊が、自分の祖父でなく、父であることも。

 

(こいつが、笙慶しょうけいさんが母さんを好きだとか、余計なことを言ったから…)

 和樹は友人を恨めしく思ったが、事実を話すタイミングを失ったのは痛い。


「……ん?」

 和樹は目を凝らした。

 マンションの五階の外壁部分に、何かが視える。

 窓を開け、バルコニーに出ると、確かに『灰色の人影』が宙を歩いている。

「『悪霊』が視えた!五階の外壁に沿って歩いてる!」

「マジかよ。オレには見えないぞ!」


「これで、どうだ?」

 和樹は、上野のワークパンツの尻ポケットから、醤油さしを取り出した。

 たちまち、のっぺらぼうになった上野は、驚嘆の声を上げる。

「うおっ、視えるッ!マジに幽霊っぽいのが視えるぜ!」

「嬉しそうに言うなよ」

「怖いっちゃ怖いけど。のっぺらぼうになってから、心霊動画をあさって見慣れた」

「でも、あれはCGのインチキ動画とは違うし」


 真冬の寒風に吹かれているせいもあり、和樹は身震いする。

 今夜は、あれと闘わなければならないらしい。

 『灰色の人影』は、五階の外壁を一周し、また戻って来た。

 だんだん、挑発行為が激しくなっている気がするが……


「おーい、ナシロ!」

 下から声が聞こえた。

 見ると、真下の道路に、友人の一戸いちのへ れんの姿がある。

 上野は、慌てて一歩下がった。

「ナシロ。今から、君の家にお邪魔しても良いか?」

「分かった……オートロックを開けるよ!」


 声を張り上げて返答し、上野のポケットに醤油さしを戻して、室内に入る。

「何か、やばくね?」

 上野が言った。

「一戸に、オレがのっぺらぼうだとバレたとか?」

「まさか」

 和樹は否定する。

 しかし、笙慶さんは一戸の叔父だ。

 笙慶さんが、先日の一件を他人に漏らすとは思えないが、良い予感はしない。

 和樹としては、もう誰一人として巻き込みたくはないのだが…。

「上野。醤油さしのカゴは、テーブルの下に隠せよ」


 上野は、急いでクロスの垂れたテーブル下にカゴを隠す。

 それを見届けてから、一階玄関のオートロックを解錠した。

 やや身構えつつ、エレベーターで上がって来た友人を迎え入れる。

「こんにちは。お邪魔します」

 一戸は丁寧にお辞儀をし、竹刀袋を玄関ドアの横に立て掛ける。

 

「お母さんは?一緒に居たのは上野か?」

「母さんは仕事。上野が遊びに来てる。バッグはそこに置いといて。コートは預かるよ」

「では、遠慮なく。まずは、お参りをさせていただくよ」


 お寺の親戚らしく、一戸は和室に向かい、仏壇に手を合わせる。

 和樹はカフェオレをれ、上野の横に座る一戸の前に置いた。袋入りマシュマロも開封し、テーブルに置く。

「適当につまんでくれ」

「ありがとう。せっかくだから、いただくけど……そのマスクは何だ?」

 一戸は、上野の横にあるマスクを見て、怪訝けげんな顔をした。

 

 和樹は、咄嗟とっさに出まかせを言う。

「あ~、ハロウィンに買ったんだよ。ほら、映画のナントカ家のスケキヨマスク。上野が欲しいって言うから」

「……そうか」

 一戸は、「悪趣味だな」と言いたげな顔をする。

 

 和樹は少し肩をすくめ、マシュマロを口に入れた。

 こうして一戸を見ると、つくづくイケメンだと思う。

 母は、「精悍せいかんな顔の子ね」と評したが、性格もそうだ。

 幼い頃から剣道に励み、首は太く、がっしりした体格だ。

 成績も優秀で、将来の夢は『消防官』か『レスキュー隊員』。

 父親はパティシエで、店を継いで欲しいと願っているらしいが。

 

「それで……道場の帰りかい?」

「ああ、明日からは三学期だ。いよいよ受験が近付くな」

 一戸はカフェオレをひと口飲み、横の上野に聞いた。

「聞いたよ。君も志望校を変えるんだって?」

「うん。ちょっとヤル気が出て」

「お互い、頑張ろうな。実は、気になることがあって……僕の叔父の笙慶さん」


「父さんの月命日にお参りに来てくれたけど。その日は、上野も来てた」

 和樹は、動揺を押し隠して訊ねる。

「笙慶さんが、何か言ってた?」

「そうじゃないけど……裕樹さんの月命日の夜に間違いない。君たちが困っているようだったら、力になってあげてくれと電話が来て。今までも、月命日にはお邪魔してただろうけど、何か声が深刻そうで……。ひょっとして、君たちに悩み事でもあるのかと思ったんだ」


「いや、オレのお祖母ばあちゃんが……ここ最近、戦争中に亡くなった知り合いの夢を続けて見たって話になって」

 今度は、上野が嘘を付いた。真実とは無縁でない嘘ではあるが。

「それで、お経をあげて貰って……それだけ。その後、夢は見なくなったってさ」

「本当に?」

「うん」

「それなら良いけど。ごめん。家に上がって、手間をかけさせたな。でも、すごく不思議な話だな」


「そうだね。でも、久し振りに会えて嬉しいよ」

 和樹は軽く答え、上野はマスクを頭に乗せて笑う。

 実際は、不思議どころでは状況だが、とにかく一戸まで巻き込みたくはない。

 優秀な彼は回転が鋭いのか、妙に敏感なところがあるから厄介だ。

 しかしその時、一戸は屈んで足元を見た。


「何か踏んだけど。何だ、これ?」

「げっ!」

 上野は慌てて、テーブルの下に手を伸ばす。

 テーブル下に丸カゴを隠したのだが、何故かひっくり返ったらしい。

 醤油さしが散らばり、運悪く一戸が踏んでしまったようだ。

 一戸は鯛の形の醤油さしを手に取り、眺める。

「醤油じゃなくて、水みたいなのが入ってるけど?」

「母さんの商売道具だよ。ほら、『御利益ごりやく』のある水ってやつ」


 和樹は嘘を重ねる。

 母の沙々子が占い師であることを、一戸は知っている。

 占い師の自宅に、そうしたグッズがあっても不自然ではない筈だ。

 だが、一戸の反応は意外だった。

「いくらだい?」


「ひ、ひゃくえん……とくべつ価格、税込みで」

 うろたえた上野が、余計なことを言う。

「じゃ、これ買うよ。受験のお守りに」

 一戸はポケットから百円玉を出し、テーブルに置いた。

 何で百円玉を持ってるんだ、と和樹は思ったが、後悔しても遅い。

 完全な泥沼状態である。


 そして半時間後、一戸は上野と共に神無代かみむしろ家を出た。

 一戸がコートを着ている間に、上野は数個の醤油さしをポケットに突っ込んだ。

 その個数では不安だろうが、明日の登校日に学校で渡せば良い。


 静まりかえった家にひとり取り残された和樹は風呂場に行き、父に語り掛ける。

「どうしよう……一戸まで、醤油さしを持ってっちゃったよ」

 しかし、この時間に父が現れる筈もない。

 どのみち、今夜には会えるだろうが……

(あの醤油さしを持ってるだけで、アウトってことはないよね?)

 とにかく、心配は尽きない。




「それで、一戸くんも醤油さしを持って行ったと?」

 その夜、入浴時に現れた父の裕樹は聞く。

 浴槽の中で向き合って座る和樹は、やはり不安を拭えない。

「岸松おじさんにも電話で聞いた。ごく少量だし、霊感の無い人間には影響は無いだろうって言ってたよ。むしろ、弱い悪意を持つ霊を遠ざけるって」

「そうだろうな。ただ、たくさん持たない方が良い。上野くんは仕方ないとして、たくさん持っていると、強い悪意を持つ霊に目を付けられる危険がある」

「それって、上野の家族は大丈夫?」

「目を付けられても、手出しは出来ないさ。この湯は、一種の護符だからな」


「久住さんは大丈夫かな。僕んちの隣だし、蓬莱さんとも仲が良いし」

 和樹は、ふと心配になった。が、父は首を振って否定する。

「『悪霊』は、お前が思うほど視野は広くない。執着した相手を引きずり込むことだけに集中する。岸松おじさんや、宇野笙慶さんにも、実害は出ないだろう。この厄災の中心に居る、蓬莱さんが無事な限りは」


 温かい湯に浸かっているにも関わらず、和樹は悪寒に包まれた。

 もはや、後戻りは出来ない。

 自分が、蓬莱さんを含めた大切な人たちのために闘うしかない。

「……分かったよ、父さん。言って来るね」


 和樹は決意し、『魔窟』を目指して深く潜る。

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