第5話
向かう先は、底知れぬ海だ。
時折、細かな気泡が浮上していくが、それ以外に動くものはない。
しかし、不思議と落ち着いている。
『悪霊』の住処の『魔窟』に向かっているのに、今は恐怖を感じない。
こうして、異界の底に潜行している自分は、本当に
そして……頭に浮かんだ『
遠いどこかで、確かにそう呼ばれていたと言う奇妙な確信がある。
この落ち着きと確信は、何なのだろうか。
静かな奔流の中で、自分の記憶が飛ぶのではないかと感じ、家族や友人たちを思い起こす。母の沙々子、久住さん、上野、一戸、そして蓬莱さん……
あの人たちのもとに、帰らなければならない。
ここは、自分の生まれた場所では無いのだ。
やがて、
真っ黒い大地が現れ、和樹は身を
降りた場所は、深夜のように暗い。だが、空からは薄い光が注いでいる。
見上げると、巨大な月が夜空に浮かんでいた。
それは遠くの山々の
大きさは定かではないが、顔の前で、両手の親指と中指で円を作り、円を月に当てると、すっぽり収まる。
『ロッシュ限界』と言う天文用語を聞いたことがあるが、月があの大きさに見えるまで地球に近付けば、たぶん粉々になるだろう。
やはり、ここは異界なのだ。
和樹は、改めて自分の姿を確認する。
神主が着る日常着の小袖と袴に、袖の広い羽織を二枚重ねた感じの衣装だ。上の羽織は白銀色で、下は濃い目の黄色。袖は幅広で、裾は地面に着くほどに長い。
時代劇でお馴染みの、黒く細長い帽子が頭に載っている。髪は、巫女のように後ろで束ねていた。
白ソックスっぽい物を履き、靴は黒い。学校指定のローファーに似ている。
そして、左側の腰には刀を吊るしている。鞘も柄も白い。
銘は、『
誰に教えられずとも、それが分かる。
自分の呼び名『
この異界において、浮かび上がった揺るがぬ二つの『名』だ。
(大丈夫……心配ない!)
和樹は、改めて周囲を見回す。
すると、次第に周囲の
立っている場所は、通りの中央らしい。
幅は、三車線ほどだろうか。左右には、家屋の形に見える影が揺らめいている。
目を凝らすと、通りの左右に
近付くと、それは人間の形をしていた。
『影』は殆ど動かず、寝転がっている形のものもある。
近付いても無反応だ。しかし、寝返りを打つような動きをする『影』もいる。
背後の家屋の影は、彼らの家だろうか。
襲って来る気配は無いが、道の真ん中を慎重に進む。敵意を持つ『影』が潜んでいるかも知れないからだ。
しばし歩いていると、『影』がひとつ近寄って来て、足元で停まった。
それは、明らかに犬の形をしていた。
攻撃してくる様子も無いので、和樹は犬の『影』の頭に手を当ててみる。
手は『影』を通り抜けることなく、毛皮の感触がはっきりと感じられた。
体温は無いが、撫でてやると、犬の『影』は、嬉しそうに尻尾を振る。
片膝を付いて、体を撫でるのを繰り返していると、『影』は満足したのか、通りの向こうに走り去った。
和樹は、複雑な気分で見送る。
左右の『影』は人間の形をしているが、犬の『影』と違って無反応だ。かつては彼らにも喜怒哀楽があったのだろうか?
とにかく、彼らが敵意を示さない限り、通り過ぎるのが賢明だろう。
「……甘いのう」
いきなり、背後から声を掛けられた。
振り向き、反射的に太刀の柄を押さえる。
そこには、小柄な『影』が佇んていた。長い杖を付き、頭には傘を被っている。昔話の『傘地蔵』に出てくる、編み笠のような形に見える。顎には、ひと房の長い髭が見えるので、男性だろう。
和樹は、太刀の柄から手を離さずに聞く。
「あなたは……ここに住んでいる
「いかにも。ああ、言って置くが『名』など無いぞよ。お主のことは、『神名月の中将』と呼べば良いかのう?」
「『お坊さま』……僕を知っていらっしゃるのですか?」
和樹は、柄から手を離す。
老人と思しき『影』は、敵では無いらしい。長い杖を持っているので、巡礼の僧侶を思い出し、自然に『お坊さま』と呼びかけたのだ。
『影』の老人は和樹を見上げ、しわがれた声で言う。
「ワシのことは『ほうじょう』とでも呼んでくれい。『お坊さま』などと言う、立派な者じゃないからのう」
「『ほうじょう』……とは、どんな字を当てるのですか?」
「師に教わらなかったかの?『
「ああ、それなら知っています」
和樹は思い出した。確か、
「では、『方丈さま』と呼ばせていただきます」
「ここで人と話したのは、久方振りじゃ。何となく、ホッとするわい」
「そうですね…」
和樹は頷き、敬意を持って深い一礼をする。
この老人は、道端の『影』たち違い、明らかに意志を持って動いている。
しかも、自分の居る世界の知識もある。その理由はともかく、話が通じる相手が居るのは心強い。
しかし、じっと見ていると、やはり異質だ。
この老人も、他の『影』同様に人型をしている。だが、水面に映っている如くにぼやけており、煙の塊が動いているようにも見える。
目や鼻などの顔のパーツも識別できず、声だけが響いてくる。
和樹は、思い切って訊ねてみた。
「ここは……『魔窟』と呼ばれる場所なのですか?」
「名は定まってはおらん。『
「犬がいました……」
「そうじゃな。
「ここは夜なのですね……『悪霊』も住んでいるのですか?」
「そなたは、『
「『宵の王』って……」
「ここは都の外れの村じゃよ。路地を抜け、大路の先に、『ほうれんのみや』がある。美しい王宮であったが、その面影は消え失せてしもうた。昔と違うて、歩いて行くことは難儀を極める。ワシも、我が家に辿り着くことが出来ぬ。延々と、この村の中を歩いているだけじゃ」
方丈老人は杖を天にかざし、巨大な月を差す。
「あの月が降りて来てから、災いが始まったのじゃ。あの月の王が、『宵の王』と呼ばれる者じゃ。挑む者はおったが、未だ災いを打ち砕けぬ。
「マジかよ……」
和樹は弱音を漏らす。
単純な悪霊退治のつもりが、RPGまがいの
父は、この事実を知っていたのだろうか。
「こりゃ、仲間集めが必要だわ……」
自分が勇者で、上野が盗賊、一戸が僧侶、久住さんが魔法使い……と、勝手にキャスティングしてみたが、悠長に遊んでいる場合ではない。
「方丈さま。僕には、倒さなければならない『悪霊』がいます。友達が、そいつに取り憑かれているんです」
方丈老人に指示を仰ぐ。ここで頼れそうなのは、この老人だけだ。
「ん~。そうか。さて、どうするかの?」
方丈老人は、杖を天にに
激しい『気』の波で、体が吹き飛びそうになる。羽織や髪が激しく
さすがにちょっと頭にきて、方丈老人に抗議をする。
「いきなり、何をするんですか!?」
「すまんな、中将よ。奴らを起こしてしもうたわ」
方丈老人は、しれっと言う。
すると、道端の『影』たちが、起き上がった。軟体動物のようにゆっくりと、体を起こし、和樹たちの周囲を囲む。
これには、和樹も
闘いは予想していたが、四方を囲まれる状況は想定外だ。
目と手首の『悪霊』とタイマンをするだけだと思っていたのだ。
しかし、方丈老人は、からかうように杖を振って見せる。
「お主は、ゲームとやらで雑魚敵に囲まれたことは無いのか?」
「何を言ってるんですか!」
「最初の村に着く前に、レベル1で、雑魚どもに囲まれるのは辛いかのう?」
「お言葉を返しますが、薬草は持ってないんです!」
「王様に、銅の短剣ぐらいは貰ったであろう?」
「……え?」
「お主の腰に吊るしている太刀は何じゃ? 縁日で買ったオモチャか?」
指摘され、『
柄に手を掛けると、
『
「これは……」
和樹は、白い鞘を見つめる。
夜の闇に浮かび上がる白い柄と鞘は、
「どうする?太刀を抜くかね?」
方丈老人は、和樹を見上げた。
「その刃で斬れば、そこらの下っ端は、瞬時に滅するぞよ」
「……いえ……出来ません……」
「ほぉ?」
「剣道部に入らなかったのは失敗でした」
和樹は軽く失笑してみせる。
「でも、何となく思い出しました。要は、打てば良いんです。この鞘で!」
左手で柄を、右手で鞘を掴んで身構える。
どうすべきかは、知っている。
鞘で突くなり叩くなりするだけなら、この『影』たちは消滅はしない。少しの間、動けなくなるだけただ。
彼らには、悪意も無く、ただ道端に
太刀で切り裂いて消滅させるのを、慈悲と考える者たちも居るだろう。
だが、それは出来ない。
あの御方は、それを望まない。
この『ほうれんのみや』の『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます