「1996」番外:おそらくだれも知らないクスリ

琴鳴

1996-番外 おそらくだれも知らないクスリ

    1


 KTにとって、そこは居心地のいい場所だった。

 巨大都市・東京の下層部、秋葉。そこには、あやしげな情報がはねまわっていたし、それをとらえるのには興奮を感じた。

 デジタルデータを脳細胞に直接摂取し、DNAを材料に新しいウェイブをつくりだす。それをRNAに転写して、デジタルデータに変換、今度はこっちから発信する。まるで頭がレイディオみたい。

 KTは、歩きなれたダウンタウンの路地にいた。やばい場所。都市の形態をまねた電子ネットワークの基層近く。このあたりには壊れデータも多く、ウィルスの入ったブービートラップもそこかしこに仕掛けられている。ゲストアクセス中の旅行者が、好奇心に駆られてここまで降りてきて、そのままロストしたケースもめずらしくはない。電子ネットワーク内でロストした人間は、肉体だけの生ける屍になるのは言うまでもない。けっして興味半分でやって来れるような場所ではないのだ。

 だからこそ、生きていることのくだらなさを薄めてくれるようなイベントもたまには起こってくれるのだ。だから、KTはここにいる。

「チャオ」

 KTの頭にコールが入ってくる。KTの頭蓋の中には携帯電話が仕込まれている。ふつう、人間はみんなそうだ。携帯電話と、マイクロプロセッサ――コンピュータが大脳に接続されている。電力は、生体電流でまかなわれているから、バッテリは要らない。

 電話はファメイからだった。香港からのアクセス。中国系の長身の美形だ。いつも好んでアオザイを着ている。ヴィエトナム・スタイルが趣味らしい。ネットで知り合った、いわば飲み友達だ。

 電話、といっても、送られてくるデータには視覚に変換されるものも含まれているから、面とむかって会っているのとほとんど変わりがない。もっとも、ネットワークの概念からすると、ファメイはあくまでもKT個人に対して通信しているのであって、KTがいま属している領域――秋葉――に同じく存在しているわけではない。

「おひさ。元気だったかな?」

 ファメイが黒い目をくりくりと動かして、KTを覗きこむようにする。KTも自分のデータを相手に送っているから、ファメイにも黒ずくめのKTの姿が見えているはずだ。

脳で直接データをやり取りする以上、自前の感覚器――たとえば目や耳――をつかって外界からデータを得ているのと、なんら変わらない。それどころか、はるかに自由で、融通がきく。いまどき、「空間的に会う」なんて馬鹿げたことをするやつなどいない。たとえば恋人同士でも、デートするのは電子ネットワーク上で、というのが当たり前だ。

「ふつうかな。そっちこそ、仕事はいいの?」

「まあね。KTほどじゃないけど、融通きくし、うちのカイシャ」

 ファメイは意味ありげにウィンクし、それからKTの顔をのぞきこんだ。

「ね、今度、新橋に会員制のバーができたんでしょ? 会員以外にはアドレス公開しないなんて、頭くるけど、興味あるわ。連れてってくれない?」

「<バー・ディープサイド>? たいしたところじゃないけどな。それにいま、秋葉の基層部にまで降りてきてるんで、新橋まであがるのは面倒なんだけど……」

 電子ネットワーク都市・東京では、その階層ごとに街の名前が冠されている。上層部に行くほど上品になるし、下層部に行くほど品はわるくなる。一般的傾向としては、だ。KTが今いる秋葉は底のほうだし、新橋は赤坂や銀座よりもだいぶ下だが五反田よりは上だ。

「いくの」

 ファメイが、ぶーたれ顔になる。

 KTは肩をすくめた。まあ、今回のダイブもかなりの時間にのぼっている。そろそろ浮上しなくては、と思ってもいたのだ。仕上げに、ファメイのような愉快な友人とちょっとした時間を過ごすのも悪くはあるまい。

「わかったよ。コードを流すから」

 厳格な会員制を標榜する店といえども、本職のネットダイバーのハッキング技術にかかっては対抗するすべを持たない。KTは自分とファメイ用の会員IDをみつくろい、ファメイにそのひとつをプレゼントした。

「わあお、ゴールド」

 上得意用のゴールドカードを贈られて、ファメイは嬌声をあげた。もっとも、さすがにVIP用のブラチナカードは、<バー・ディープサイド>クラスであっても、かんたんに盗むわけにはいかない。むろん、KTはそのことは黙っておいた。

「ちょっとリッチに、デートとしゃれこみましょうか」

 ファメイが悪戯っぽく言う。



 新橋――といっても、地理上の新橋ではない。東京、というかつて実在した都市を摸した電子ネットワーク上の場所のことだ。

 地理上の東京はとっくの昔に水没している。世界中の都市の七割がそうであるように、海の底だ。現在の地図ではその地域は新東京湾となり、新宿群島やサンシャイン島といった新しい島が書き込まれている。

<バー・ディープサイド>は、新橋のターミナルから二つほど階層を降りたところにあった。メインストリートから一本脇道に入った程度の場所で、アクセス数も多く、にぎやかな場所だ。むろん、KTとファメイは直接にアドレスコードを叩いたので、ほぼ同時に店の前で落ちあった。

 店は半地下にあって、暗いムードがあった。BGMはジャズだ。けっこう音量は大きいが、ほかのブースから聞こえてくる音声データのかけらとあいまって、適度な雑踏感をかもし出している。客層は、土地柄か、極端にハイソというわけではない。が、クレジットに不自由はしていない連中であるのは確かなようだった。

 ファメイは<ロビンス・コックテイル>、KTは<KOOL>を注文した。どちらも、人気のカクテル・ドラッグのレシピだ。このレシピはハードコピーできないようになっている。あたりまえだ。そうでなければ、こうしたドラッグカクテルを売り物にしている店はすべて廃業に追いこまれてしまう。

 すぐに、テーブルに小さなグラスが運ばれてくる。<ロビンス・コックテイル>はルビーの赤、<KOOL>は海の青。

「あいかわらず、渋ごのみね」

 ファメイはおどけながら、グラスを手に取った。KTもそれにならう。

「乾杯」

 チン、と硬質な音をたててグラスが触れあう。

 電子ネットワーク上でやりとりされるのはむろんデジタルデータだから、このグラスの中身も本物のドラッグそのものというわけではない。ただし、それは、大脳に受信されると、視床下部や神経細胞に作用して、特殊な小型蛋白質を形成するようにはたらく。つまり、脳内麻薬物質の形成を促すのだ。その組み合わせによって、いろいろな効果があらわれる――これが<酔い>である。

 二人はしばらくじっとして、<酔い>がまわってくるのを待った。

 KTの脳裏には、だらしのない海がひろがっていた。波が寄せてきては帰っていく。単調な光景。ちょっと離れた岩礁には人魚が何頭か身体を休めている。

 脳がリラックスしていく。大脳辺縁系にある側坐核、ここは脳の重要な各部位と緊密に連絡しているため、たいていここにマイクロプロセッサが接合される。そのため、この部分にストレスがたまりやすいのだが、ドラッグはそれを解きほぐしてくれる。

 生きていくことにまつわる、あらゆる苦労が雪が溶けるように消えていく。

 ファメイの目はとろんと蕩けていた。<ロビンス・コックテイル>は、おもに排泄にまつわる快感をもたらすと言われている。どんなイメージを見ていたのか、質問しないのがマナーだろう。

 しばらくして、ファメイが話しかけてきた。汗ばんだうなじにはりついた後れ毛をほぐすようにしている。

「ねえ、最近、おもしろい話はある?」

「おもしろい……ねえ」

 KTは首をひねった。情報が多すぎて、なにがおもしろくて、なにがくだらないか、という判断ができなくなっていた。

「わたし、ふだんは香港でしょ? やっぱり、こっちとは情報のスピードがちがうから」

 ファメイが言う香港も、むろん電子ネットワーク上の街だ。

「香港じゃ、あいかわらず漢方系のドラッグの話が多いけど、どうっていうことはないわよね」

「まあ、大脳生理学はほとんど行くとこまで行ってしまっているからね。これ以上、新しいドラッグは出てこないだろ」

「でも、そうでもなさそうなのよね」

 ちょっと、声をひそめて、ファメイが言った。

「今日、こっちに来たのには、その噂を確かめたかったというのもあったのよ」

「新しいドラッグの?」

 KTは言葉を反芻しつつ、東京のメインインデックスページを検索し、また、ちょっと裏ルートのボードの掲示板を探ってみたが、特に目を引くトピックはなかった。

「KTなら詳しい情報を持っているかと思ったんだけどな」

 少しがっかりしたようなファメイの表情。

 その表情のサインが、KTの自尊心にちょっとした傷をつけた。

「待てよ。本格的にダイブしたわけじゃない。どういう話なんだよ、それ」

「そんなに怒らないでよ。こういう話」

 ファメイがやわらかくとりなす。そして、KTに向けて圧縮されたデータファイルを送信する。

 KTは、ファイルの小ささにちょっと驚き、それが原始的なテキストファイルであることを知ってさらに驚いた。

 参照には五秒もかからない。ほんの数メガバイトという瑣末なデータだった。

「ファースト・コンタクト? 神秘体験? それと、これは……おそらくだれも知らないクスリ……なんだこれ?」

「三ヵ月前まで、そんな話が香港には細々と流れていたのよ。それも一部の裏ネットでだけね」

 どこの世界でも表と裏があるように、ネットワークにも隠された部分はある。そこでは、一般には流布していないレアな情報が駆け巡っている。そういったものを探りだしていくのが、ネットダイビングの醍醐味とさえいえる。

 むろん、そういった裏ネットには、ふつうの人間は入れないような仕掛けがしてある。入口は入念に隠されているし、よしんば入口を見つけて侵入を果たしたとしても、侵入者撃退用のウィルスでたちまち脳を汚染されてしまう。

 KTはファメイをしげしげと見直した。

「きみがこういう裏ネットに出入りしているとは知らなかったな」

「そう?」

 ファメイはグラスを傾けながら、上目づかいにKTを見た。

 KTは言葉を続ける。

「しかし、このファイルは、要するにドラッグによるトリップについてのレポートを拾い集めたものだろ? たいしてめずらしいものじゃない。イリーガルなドラッグには、もっと強烈なやつがあるぜ」

「奇妙なのはね、<はじめての体験>を書きこんだあとの同一人物による追加レポートがないことなのよ。最高の<ファーストコンタクト>を得てから、そのドラッグを使わなくなるなんてこと、ある?」

「――たしかにそうだな」

 ファメイの指摘にはKTも従わざるをえない。

「それどころか、その書き込みをした人間たちは、どうやらその後、失踪したらしい形跡があるの。もっとも、人物を特定できないから断定はできないんだけど、少なくともこのネットからは消えてしまっている。それも、書きこみから、あまり時間を置かずにね」

「ドラッグの副作用で死んだとか?」

「だったら、もっと話題になりそうだけど、そんな話もないのよね。結局、しばらくしてこの手の話はネットから消えちゃって、<おそらくだれも知らないクスリ>は、ほんとうに実在するかどうかも不明なドラッグになっちゃったわけ」

 KTはあらためて、テキストファイルを読みなおした。

「それにしても、妙なイメージを見せるクスリらしいな。どれどれ……」

 『天使がファンファーレをふく』

 『熱い溶岩が身体から噴きだす』

 『おなかのなかに光がさしこみ、宝石になる』

 『細い管のなかでやわらかいものが大きな声で泣く』

 『ただひとつの玉座を争って、たくさんの屈強な若者が群がって競走する』

 『失われたもの――最初から与えられなかったもの――欲しくても名づけられなかったもの――ここに今じぶんがいる起源、必然性、そして意義――』

「……最初はともかく、後のほうはわけわからんな」

 KTはつぶやき、そして次のファイルに言葉を失った。

 『イーブ』

 『エーファ』

 『エヴ』

 『エーヴァ』

 『エーバ』

 『ハワ』

 『ヘウァ』

 『イエーヴァ』

 『いぶ』

「それは、コメントのなかに出てくる名前の一覧よ。たいていのコメントは、その名前の人物からクスリを手に入れたらしいわ。いろいろな言語が混ざっているけど、つまるところは同一人物みたいね。『エヴァ』――旧約聖書にでてくる最初の<女>よ」

 KTの脳裏に白い光が炸裂した。フラッシュバックか? 今晩はドラッグをそう深くはやっていないはずだが……


 ――まま?


 KTは、しばらく思考停止していた。

 ファメイから何度か呼び掛けられて、ようやく復帰した。

「どうしたの?」

「いや……なんでもない。あんまり奇妙なイメージだったから、それに引きずられてバッドトリップしかけたのかも」

「そう……じゃ、そろそろログオフした方がいいんじゃないの? この件で、なにかわかったら教えてくれる? けっこう興味あるのよね、こういうのに」

「わかった」

 KTは、かすかな笑みを浮かべ、ファメイより先にネットから離脱した。



 水面がゆらゆらと揺れているんだ。

 とっても息が苦しくて。

 なかなかのぼれなくて、いらいらして足を蹴ってみても、らちはあかない。

 もう、だめだ。

 残っていた空気を肺から吐き出す。とたんに水圧が襲ってきて、身体が押しつぶされそうに感じる。

 つらいんだ。

 生まれたくないんだ。

 だれだっていやなんだ。

 生きることなんて――



 KTは現実に復帰した。

 ベッドの上だった。全身汗みずくで、下半身は小便にまみれていた。どれくらいのダイビングだったのか、チェックしてみた。三十八時間――そんなに長いほうではないが、今回はあまり準備をしていなかった。アドバンスド・ミールも摂取していなかったから、体重が七キロも減ってしまっている。あと十時間もダイブを続けていたら、死んでいたかもしれない。

 オフラインした後のいつものことだが、強い不安感に襲われた。持てる能力が激減したような感覚だ。それはそうなのだ。オンラインであれば、世界中のどこへでも(パスコードさえあれば)一瞬で行けるし、周囲のデータを瞬時に解析して、あらゆることを理解した上で対応することができる。

 だが、オフラインでは、事実上KTは何もできない。自分の足をつかって、てくてくと歩き、大気に含まれる有害物質におびえ、水や食物にもビクビクして過ごさなければならない。

 アパートメントは、占有面積八平方メートル。ユニットバスつきのワンルーム。家具はベッドだけ。窓さえない。これでも、平均よりは広いくらいだ。家賃はKTの月収の四十パーセントだ。

 KTの仕事はネットダイビング――電子ネットワークのなかで、クライアントの望む情報を探りだしてくること。ファメイとの話も、半分ビジネスであるとも言えた。ファメイに例のクスリに関する情報を渡せば、きっと、なにがしかのクレジットにはなるはずだ。

 だが、KTにはいまひとつ、その件をビジネスに結びつける気がしなかった。

 KTは細い脚でなんとか自分の体重を支え、ユニットバスに入る。最初から衣服はまとっていない。バスルームの鏡で自分の姿を確認する。

 とがった顎、大きな目。白い肌。髪は黒くて長いが、艶などはまるでない。

身体には贅肉がない。また、筋肉もあまり発達していない。

 胸は、まったいらで、乳首もない。

 下半身を見る。といっても見るべきものはほとんどなにもない。大小便を排泄するための孔がひとつずつ、あるだけだ。

 KTは、この世界の大人が誰でもそうであるように、生殖器を切除されていた。

 この世に生まれでたときに――



 人工生殖器から生み出された新生児は、まず、頭蓋切開される。現代社会で生きていくためには、膨大なデータを処理する能力が必要だからだ。頭蓋切開して、側坐核の部位にマイクロプロセッサとデータバスを取りつける。側坐核は大脳辺縁にあり、脳の重要な各部位と緊密に連絡しているため、脳をコンピュータとして使うには都合がいい。

 次に、データ入出力用に<電話>を取りつける。たいていは左の内耳のあたり。だから、肉声で呼び掛けるときは、右側から話しかけるのがマナーだ――もっとも、肉声で話しかけるのは、<電話>が故障したときなどの、いわば緊急時に限られるのだが。KT自身、肉声をつかって他人に話しかけたという体験はない。

 最後に、不必要な生殖器と乳首を切除する。人間は、人工生殖器によって生みだされる。だから、人間自身が生殖活動などということはする必要がないのだ。

 これらの処置によって、人間は万能の存在になった。あらゆるデータを瞬時に解析し、それを全世界に向けて発信することができる。生殖活動からも解放され、有意義なことに人生の全時間を費やすことができる。

 そして、大脳を自分でコントロールすることによって、あらゆる快楽を自分のものにすることができるようになったのだ。



 KTは、シャワーを浴びた。といっても、ダイブ中は新陳代謝の速度を極端に落とすので、ほとんど垢は出ない。だが、あたたかいシャワーの飛沫が皮膚にあたえる感覚は、たしかに自分が外界に存在している、という認識を脳に送りこんでくれる。

 バスルームを出て、ミニキッチンの冷蔵庫を開ける。冷蔵庫に入っているのは、アドバンスド・ミールの缶とミネラルウォーター、そしてドラッグだけだ。アルコールは随分むかしに禁止されている。大昔には、ドラッグが違法でアルコールは合法だったらしいが、奇妙なことだ。アルコールは幻覚剤としても向精神剤としても効果が不安定で、しかも内臓に多大なダメージを与え、長い年月には確実に死をもたらすというのに。

 KTはアドバンスド・ミールの缶を取り出し、タブの部分を軽く押した。ひとりでにタブが立ちあがり、内容物が飲める状態になる。長時間のダイブのあと筋力が減退して、タブを引きあけられなくて餓死するダイバーが続出してから、すべての缶製品に自動開封装置が義務づけられたのだ。

 KTは部屋の面積の大半を占めるベッドに腰掛け、缶の中身を飲みはじめる。

 味などはない。もともと、誰だって神経中枢にタッチして、好きな味に変換することができる。だから、製品固有の味などは無意味なのだ。

 ただ、栄養があればいい。生命を維持する栄養が。

 KTは、頭のなかのテレビジョンのスイッチを入れる。これは、単に情報を受け取るだけだから、ネットダイブに比べてはるかに楽ちんだ。もっとも、出来あいの番組には生きた情報は存在しない。単に時間つぶしの役にしか立たないのだ。

 KTは血糖値が上がってきたのを自覚した。アドバンスド・ミールは、瞬時に吸収される。そして、当座のエネルギーになる分以外は肝臓にアドバンスド・グリコーゲンとして貯蔵される。エネルギーだけではなく、ミネラル分や、水分なども同時に保存され、長期間に渡って生命維持ができるようになるのだ。だいたい、ひと缶で一日分。数缶飲めば、数日は生き長らえるというわけだ。

 テレビジョンではニュース番組を流していた。

 CGでデザインされたキャスターがウィットたっぷりに社会情勢についてコメントを述べている。画像の下のほうには、再放送であることをしめす<リピート>の表示が出ている。

 チャンネルをかえると、天気予報を流している。

『新東京市の降水確率は百パーセントです。長時間の外出は、ガン発生のトリガーになる恐れがありますので、極力控えるようにしてください』

 だいたい、この時期にほんとうの<外>に出る人間が果たしているのだろうか、とKTは考えた。KTなどは、自分のアパートメントがあるこのタワーの二階層下にあるショッピングモールに出かけるのにさえ、こんなに不安を感じているというのに。

 空気ですらあぶないのだ。最近はエアコンは、エアクリーナーを兼ねているのがふつうだ。しかし、エアクリーナーの部品を洗っている溶剤にトリガーが含まれている、という話もあって、絶対の安心などありはしない。

 それでも、昔はもっとひどかったのだという。ある時期などは、ガン発生率が十五歳までに百パーセントに達していたこともあるらしい。現在では、新生児に対する医学的なケアにより、その発生率はかなり低くはなっている。また、自分でこまめに血液分析を行うようにしていれば、ガン細胞の発芽を早期に発見することもできる。

 さいわい、KTは今まで手術が必要なガン細胞の発生は経験していなかった。KTの遺伝子は比較的、ガン抑制遺伝子が活性化しているらしい。見たこともない遺伝子提供者たちに、その点では感謝していた。もっとも、彼らはもう何百年も昔に死んでしまっているだろうが。

 食事がすむと、KTはベッドに横たわった。

 このあと、町に出て買い物をしなければならない。アドバンスミールを買いこむ必要がある。もちろん宅配を頼むことも可能だが、他人に運搬を托すリスクも無視はできない。現代のリアル世界での犯罪の大半は宅配トラブルに起因している。誰もが、他人とリアルワールドで接触したくないのだ。

 安全を期するなら、自分で買いに行くのがベストだ。

 

 だが、その前に景気づけをしておく必要があった。三十分ですむとはいえ、自分のアパートメントを出るのは、それだけで過酷な旅なのだ。

 いわば、試練に対抗するための儀式かもしれなかった。

 KTは意志を自分の脳に向けた。

 灰褐色の自分自身。まぎれもない、KTそのものだ。

 瞬間、怒りがよぎり、その柔らかい蛋白質のかたまりを殴りつけたい衝動にかられる。むろん、そんなことができるはずがないし、本当はすごく愛しているのだ。このひ弱なぶよぶよのモノを。

 KTは、意識のなかで、脳をやさしく抱きしめると、側頭葉の快楽ブロック――内窩皮質のあたり――にそっとくちづける。

 灰褐色のカーテンがぶるぶると震え、ピンク色にかわる。恥じらいの色。快楽にふるえる花園。

 指を、皮質のひだにそって這わせる。

 痺れがはしる。KTは、絶叫をこらえ、行為に没頭する。

 指の動きが激しくなり、ひだに食いこんでいく。

 分泌する。

 ほとばしる。

 ドーパミンという名のソーマ――

 脳のスクリーンが真っ白になって意識が飛んでいくその瞬間――KTは瞳のおおきなコドモの横顔がスクリーンに映りこんだように思った。

 だれ――?



『元気してる? KT』

 ワン・ファメイの艶やかな声が内耳管を心地好く震わせる。ファメイもむろん女性ではないが、ファメイの場合は外見も性格も<女性的>と表現できる傾向があった。たぶん、遺伝子的に女性で、それが性格形成にも影響したのかもしれない。

『まあ……ふつうかな』

 KTは電話で答えた。現在はオフライン状態だ。こうしていると、大昔の携帯電話とそんなに機能は変わらない。KTが送受信できるのは、音声データと、圧縮されたデータファイルだけだ。むろん、音声データといっても、本当に声帯を震わせているわけではないことは言うまでもない。

『最近、ネットに来ていないんじゃないの? 身体でも壊しているんじゃないかって、みんな心配していたわよ』

『そうかい? じゃ、今度顔を出すようにするよ』

『ったく……もしかして、アレに手を出したんじゃないでしょうね?』

『アレって?』

『例の、<おそらくだれも知らないクスリ>よ』

『まさか……』

『わたし、後悔しているのよ。あなたにあのデータを見せたこと。顔が広いあなたなら、なにか知っているかも、ってあんまり考えずにしたことなんだけど』

 ファメイの声が曇った。

『その件は関係ないんだよ。また連絡するから――いや』

 KTは少しためらってから、つけ加えた。

『もしかしたら、ちょっとした旅行をするかもしれないけど、連絡はするようにするよ。じゃ』

『旅行って――正気なの!?』

 最後まで聞かず、KTは電話を切った。

 部屋は整理されていた。といっても、家具もろくにない部屋だが、わずかな私物はすべて小さな箱にまとめられ、服もケースにつめられていた。

 そして、KTは小型のバッグを肩から下げていた。

 ふと、KTは、数日前のネットダイビングの時のことを思い出していた。



 正直いって、ファメイの持ちかけた話は、KTの負けん気に火をつけたのだ。

 東京ボトムのダイバーとしては腕利きを自認していただけに、そういうレアな情報が東京にあるとしたら、押さえておかなければ、と感じたのだ。

 だが、KTの膨大なダイビングのログにおいても、今回のブツに完全に一致するものは見つからなかった。むろん、ドラッグに関するやばい話は氾濫しているが、それらは、たとえばメーカーの実験品にしろ、ヤクザの資金源になるような合成ものにしろ、情報の発信源は特定できるのだ。

 <おそらくだれも知らないクスリ>などという雲をつかむような話は、かえってドラッグの世界には少ないのだった。

 しかし、手がかりがないわけではなかった。

 ドラッグのルートではない。

 <いぶ>のルートからだ。

 裏ネットのひとつに<アポスル>という名のグループがあり、そこは一種の宗教的な団体らしいのだが、そこで信奉されている<神>が<いぶ>というのだった。

 <アポスル>が活動しはじめたのは、およそ三ヶ月前。香港から<おそらくだれも知らないクスリ>についての話が消えた時期と一致する。

 KTは、ネットダイバーとして<アポスル>の誕生当時、何度かハッキングを試みたことがあった。ダイバーとしては当然の態度だ。縄張りの海底に意味ありげな洞窟が現われたとしたら、それを探検せずにはいられない。

 だが、侵入は途中で断念せねばならなかった。かんたんに侵入できるようなところではなかったのだ。

 わずかに漏れ聞こえる情報によれば、<アポスル>はペドフィリアの集まりらしかった。ペドフィリアというのは、幼年者を性的な対象にする倒錯者のことだ。むろん、生殖をする必要がなくなった現代人においては、ごく珍しい異端のグループだ。

 だいいち、子供だって、性的には中性なのだ。頭脳の発達もマイクロプロセッサのサポートで猛烈に速い。ただ小さいだけで、本質的にはおとなと変わりはないのだ。

 <アポスル>が信奉するのは、どうやらこの世には存在しない少女や少年のことらしかった。その象徴が<いぶ>というものなのであろう。

 と、結論づけて、侵入についてはあきらめていた。

 そこに、ファメイの話が結びついてきた。

 ふたたび、<アポスル>に対する興味が鎌首をもたげてきたのであった。



 <アポスル>は東京の中層よりもやや下――吉祥寺の地下に会合所がある。そこまではわかっていた。

 吉祥寺ターミナルの公園口からひろがるこぢんまりとした商店街――いろいろなドラッグやジャンクデータを売る店が立ちならぶ。基本的には、若い人間が集まる場所だ。

 奇怪な画像データが高値で取り引きされている。大昔の人間の畸形の画像はなかなか人気があるらしい。異常に巨大な眼球をした赤ん坊や、頭蓋が欠損して生まれてきた赤ん坊、身体が癒着した双子――などなど。おもしろいのは、それと同じ場所でコミックキャラクターの絵も販売されていることだ。これらのふたつの傾向は異なっているようで、じつは近いのかもしれない。

 そのほか、アンティークショップでは、ガラスの珠が関節にはさまった少女の人形なども売られていた。

 ほかにも、ペドフィリア向けの古書店などもあるようだった。

 いかにも<アポスル>が会合所を設けそうな場所ではあった。

 KTは、一軒の古書店に立ち寄った。アドレスナンバーがかなり古い。老舗であろう。店の壁という壁が、大昔のアニメキャラクターの復刻ポスターによって占められていた。

 店主は店の奥にいて、本を読んでいた。大昔のコミック本らしい。

 現代人の類型にもれずやせぎすで色の白い店主はちらりと目をあげたが、なにもいわずにまた本に没頭する。こういう店では、店主はできるだけ客に注意をはらわないのだ。まあ、店に展示されている商品はすべてコピーガードをかけてあるだろうから、万引きされようもないのであるが。

 KTは店主の前まで歩いた。そして、立ちどまるとつぶやいた。

「エデンの園をさがしているのだが」

 店主は、本から目をはなさずに、誰に言うともなく言った。

「割礼はお済みですかな」

「生まれ出ずるまえに、すでに」

 KTも、隣の棚をのぞきこむふりをしながら、答える。

「原罪を犯すこともできぬ迷い子よ、三番目の道をとるがよい」

 店主の言葉を聞くと、KTは店の奥へ進んだ。

 商品棚が五つ、並んでいる。その中央の棚に手を触れると、そこにあったはずの棚が消失し、かわりに地下に続く通路があらわれた。

 ほかの客が感知できないよう、ダミーデータでできたバリアが張りめぐらされていたのだ。合言葉を正しく言ったKTにだけ、そのダミーデータを突破する鍵が与えられたのだ。

 月に一回は変えられる合言葉だが、腕利きのネットダイバーであるKTには、パスワード盗みはさほどに難しい仕事ではない。そして、その先に何重にもはりめぐらされたハッキング防御システム。それも、そんなには大変というわけでもない。

 問題はその次だ。前回はここで挫折した。

 通路である。

 暗くてせまい通路――むろん、これもデータがつくりだすイメージに過ぎないのだが――その片側からは、猛烈な臭気がたちのぼってくる。汚水がゴミをいっぱい浮かべて流れもせずにとどまっている。

 吐き気をもよおすようなこの光景は、誰がどういう意図でデザインしたのだろう。あるいは、この光景はその人物の心の投影なのかもしれない。

 ここを通るだけでも、凄まじく不快だった。

 だしぬけに通路は行きどまりになった。目の前は壁で、開いているのは汚水が流れだしてくる穴だけだった。それも、KTが立って歩ける大きさではなく、四つんばいになって、ほとんど顔まで汚水につからねばならないような代物だった。

 だが、ほかに選択肢はない。KTは汚水に足を踏みいれた。

 立っては歩けない。KTは膝をつき、手で這うようにして進んだ。

 汚水が鼻のところまで来ている。口にもぐりこんできた汚水は苦くてとんでもなく臭かった。どうやら、老廃物が腐ったものらしい。こういうデータが脳に直接来るのだから、厄介だ。なんとかしたいが、データの改変は通信を断絶させてしまうかもしれない。がまんするしかなかった。

 長い時間がすぎた。

 膝がすりむけ、そこに汚水がしみた。細菌が身体に入って、死ぬかもしれない。冗談の話ではない。ウィルスデータが脳に侵入すれば、どんなことが起こるかわからない。脳死なんて、まだ軽いほうだ。一生、脳のなかに繁茂する石の花をもぎ取って暮らすことになるかもしれないのだ。

 ――なぜ、こんなことをしているんだ?

KTは自問した。手足は動かしたままだ。

「意地だ。ネットダイバーとしての」

 口に出してはいない。口をあければ、汚泥をたっぷり飲むことになる。

 ――意地でここまでできるのか?

「そりゃあ、<おそらくだれも知らないクスリ>なんていうのにも惹かれたさ。でも、それは二次的な理由にすぎない」

 ――そうだな。オレもそう思うよ。

「オレ……か。男というわけでもあるまいに。だが、言葉はけっこう保守的なものだ。いまだに名詞に男と女の区別がある言葉もある。こうして使っている言葉にしても、男女の別がある。さしづめオレはできそこないの男で、ファメイはできそこないの女なんだろうな」

 ――話をそらすな。おまえがこんなことをしている理由はなんだ?

「だから、意地からだ。クスリに対する興味は二次的なものだ、ということにはおまえも納得してたろ?」

 だれと会話をしているのか。朦朧としてきているKTには判然とはしなかった。だが、もしかしたら、KTの脳のなかにあるもうひとつの独立した脳――マイクロプロセッサが相手なのかもしれない。むろん、ハードスペックには、宿主との対話機能なんてしゃれたものは書かれてはいないのだが。

 ――納得はしたさ。だが、一次的な理由が意地だなんて思っていない。もともとネットダイバーなんかに意地があるわけがないんだ。

「なにがいいたい!? おまえはCPUなのか!? シリコンのかたまりならそれらしく、オレの脳みそのサポートをしていればいいんだ!」

 ――たとえば、それが逆だとしたら……まあいい。おまえにもほどなくわかるだろうさ。おまえが進んでいる道がいったいなんなのか。その意味をな……

「くそったれ!」

 わめこうとした時だ。視界が白くひらけた。


 あかい光。

 きいろい光。

 しろい、しろい光。

 出口が。

 こわいよ。

 こわい。

 でるのがこわい。

 こんなにつらくて。

 こんなにいたくて。

 でたくないよ。

 ウ・マ・レ・タ・ク・ナ・イ



「気がついた?」

 目をひらくと、そこは明るくて清潔な寝室だった。

 コドモの部屋らしく、部屋には原色のタペストリが飾られ、窓際には動物のぬいぐるみが置かれていた。

 窓はなかば開かれていて、白いレースのカーテンがひらめいていた。

 音と匂い。海をかんじる。

 覗きこんでいるコドモの顔。

 男の子だ――とはっきりとわかった。

 亜麻色の髪の毛。瞳は鳶色だ。

 裸だ。

 未成熟な性器を剥きだしにして、恥じる様子もない。

 性器が――ある。

 そして、KTも声をあげかけた。藤製の安楽椅子にすわっているKTの身体も小さくなっていて、そして股間には少女の徴が刻まれていたのだ。

「ここは……?」

 KTは側に立っている少年にむかって質問した。声もかぼそくなっている。おさない少女の声だ。この声をだしているのは、黄金色の髪、緑色の瞳をした、ケイティーという名の少女。生まれた瞬間に死んだはずの少女。

「<アポスル>の会合所だよ。ここでは、みんなコドモになるんだ。もともと、きみはそういう姿になるはずだったんだよ。ダブルXだからね」

 性染色体のことだ、とはKTにもすぐにわかった。そのとおり、KTの性染色体はXXだ。だから、生殖器などを切除されていなければ、女になっていたはずだ。名前も、だから<ケイティー>なのだ。

「あなたは……?」

 KTは、少年に訊いた。くやしいが、口調がいつものようにはならない。おびえをふくんだ少女のしゃべりかたになってしまうのはなぜなのか。

「ぼくはジュダ。<アポスル>の主宰者。XYだから、こんな姿だけど、ほんとなら、きみみたいになりたかったな」

 栗色の髪の少年が微笑みながら言う。

「ほんとは、ぼくは結構な年寄りなんだ。だから、昔のことも知っている。昔はね、人間は大人になっても性別があったんだ。男と女は身体を重ねあった」

「獣みたいにね」

 KTは眉をひそめた。原始的すぎる。体液を垂れながす獣。快感を自己制御することもできない肉のかたまり。魂なんか存在しない、遺伝子の奴隷。

「そうだよ。交尾をしたんだ。たとえば、砂浜のうえで。原始のころから、ヒトは、星をみながら、波の音をききながら、交尾をしていたんだ」

 少年がうっとりとした表情で言った。

「だから、人間は罪を負ったんだ。快楽の結果、誕生した命だから。もしも、性交が苦痛しかもたらさなかったら、人類は滅びていたし、原罪もなかったろうね。キモチいいから、性交をする。子供がうまれる。うまれた子供は大きくなる。性交をする。また子供がうまれる。孫の顔をみながら、人間は老いてくる。孫が性交をするころには、死ぬ。そういうサイクルがあったんだ。罪を維持するサイクルが」

「なにが言いたいの?」

 KTが問うと、ジュダは真顔で反問してきた。

「じゃ、きみはなにが聞きたいんだ? なんのために、ここへ来た?」

「それは……」

 <いぶ>とはなんなのだ、という問い。

 <おそらくだれも知らないクスリ>とどんな関係があるのか、という問い。

 それも発しもしないうちに。

「<いぶ>は新宿にいる。あいたければ、あえる」

 ジュダが言った。

「新宿――アドレスは?」

 KTの質問に、ジュダは微笑した。

「オンラインじゃないんだ」

 ジュダの言葉の意味を理解するのに、KTは数秒を要した。マイクロプロセッサをつないだ大脳は、<勘>がにぶくなる、と言われている。論理的に矛盾をはらんだ思考はマイクロプロセッサには不向きなのだ。

「――つまり、新宿群島ということ?」

「イエス」

 ジュダがうなずく。

「ぼくら<アポスル>の聖地だよ。香港から<いぶ>が流れてきたときに、<いぶ>をかくまうのに、あそこ以上の場所はなかった。知ってる? 大脳にIDを持っていない人間もこの世にはいるんだ。彼らが生きていける場所は地球上にはそうはない。だが、行政圏外でなら――」



「リアルに水に浮かぶボート」を買うのに借金をした。返せるあてはなかった。そのまま放置すれば、クレジットカード会社は来月の二十七日をもってKTをこの世から抹殺するだろう。

 季節は春のはずだったが、むろん新東京湾には夏しか存在しない。

 熱帯の海なのだ。

 波はさほど高くはならない。旧東京湾岸防壁が防波堤になっているからだ。だが、そのぶん潮の流れは複雑で、かなり速い。

 KTは、サングラスをしたまま、ボートの艫の部分に腰掛けていた。

 ボートは二人乗りの小さなもので、原動機がついていた。

 それにKTは一人で乗りこんだ。ファメイにはけっきょく連絡しなかった。だいたい、オフラインでは、香港と東京は離れすぎている。ましてや、外気に長時間触れなければいけない行政圏外への旅行など、ファメイが承知するはずがない。

 KTが出発したのは夜明け前、今はそろそろ昼どきだった。

 湿度を多く含んだ空気は、むっとするほど熱かった。波がほとんどない、鏡面のような海。

 行く手は霞んでいた。たちのぼる水蒸気のせいだ。蜃気楼がみえる。

 巨大な都市のオブジェ――朽ち果てた鉄塔、傾いたビルの残骸がゆらゆらとゆらめきながら水平線に浮かんでみえる。

 ――と、じきにそれが実物であることがわかった。

 旧東京市街跡まで来たのだ。

 かつては、この水の下に一千万を超える人々が住んでいたのだ。世界最大の都市が、かさぶたのように大地にはりついて、コンクリートとアスファルトで自らを強化しながら、増殖を続けていた。だが、いまは、静かな海と化している。

 完全な水没をまぬがれたビルの上層部分が暗礁となって、航行には注意が必要になった。

 KTはエンジンの出力を絞りぎみにし、さらに進んでいった。

 そして、新宿群島にたどり着いた。

 そこは異様な場所だった。

 水面から屹立した巨大ビル。それは、水面からさらに数十メートルの高さを保っている。それも、何本もだ。新宿住友ビル、新宿三井ビル、新宿センタービル……

 そして、いちばん異様なのが、先端がふたつにわかれたひときわ高いビルだ。

 新宿都庁――

 KTは迷うことなく、ボートを都庁ビルに向けた。



 ビルには、桟橋が作られていた。木でできており、潮の干満に応じて、高さがかわるように工夫されている。

 KTは桟橋にボートをつけると、ロープでもやった。

 ビルを見上げる。サングラスの奥の目が、すこし細められた。なにかを思い出しているかのような――

と、想いを振り切るように頭を振ると、ガラスのなくなった窓――といっても、立ったまま出入りできるほどの大きな窓だから、ほとんど戸口に近いのだが――からビルに侵入した。

 室内はめちゃくちゃだった。たぶん、満潮時にはこのフロアは水に浸るのかもしれないが、壁や床にはフジツボのような殻をもった生き物がはりつき、異様な匂いがした。まるで、なにか巨大な海棲哺乳類の胃の腑に呑まれたようだ。

 足もとに気をつけながら、KTは長い廊下を歩き、階段室へと向かった。むろん、エレベータは動いていない。

 階段をのぼりはじめる。

 フロアごとに、のぞいてみる。無人だ。いくつかのフロアでは、かつて人間が――それもたくさん――暮らしていたような……<街>があったような形跡がある。だが、たぶん昔のことなのだろう。最近、そこに人がいたことを思わせるものはなにひとつとしてなかった。

 階段をのぼるKTの額から汗がしたたった。暑い。むせかえるような湿気と熱だ。

 耳の奥から奇妙なリズムが聞こえはじめる。RAMの一部がおかしくなりはじめているな、とKTは自己診断した。RAMとは神経シナプスのことだ。神経シナプスは神経ホルモンによって刺激を伝達する。その伝達の積み重ねが<思考>だ。現在の人間はその思考をマイクロプロセッサの演算能力をつかってサポートしている。もはや、人間はマイクロプロセッサなしには考えること、記憶することができない。

 ネットダイバーを続けすぎたのが原因かもしれない、とKTは思う。オーバーホール――脳手術が必要なのかもしれない。

 KTは、階段をのぼりつづけた。もう、フロアを無駄にのぞくことはやめていた。ただ、ひたすら、階段をみつめて、足を動かしつづけた。

 そのフロアで、KTは足をとめた。

 階段室を出て、フロアに出た。いままでのフロアとは、床の様子がちがう。ほかのフロアでは散乱していたガラクタが、ここにはない。掃き清められている。

 だれかがいる。

KTは吸いよせられるようにして、廊下を歩きはじめた。廊下に沿って、小部屋がたくさんならんでいる。

 どの部屋も、ドアが外されていて、殺風景な内装をさらしていた。からっぽだ。

 廊下の突きあたりに、ひとつだけ、ドアが残っている部屋があった。重厚な木製のドアだ。ノブが鈍く光っている。

 ドアにはプレートが貼ってあった。KTはそれを読もうとしたが、読み取れなかった。

 KTは思いきって、ノブに手をふれた。冷たい感触。なつかしい感触。

 ひねって、押し開ける。



 暗い部屋にKTは入った。

 靴がなにかを蹴った。空のガラス瓶らしい。ごろごろと重い音をたてて、瓶が転がる音がした。

 汗くさいような、獣くさいような、そんな部屋だった。

 部屋の奥に、ふたつの光るものがあった。一瞬消えて、また光る。

 眼だ。

「だれ?」

 部屋の奥から声がわいた。変声期を迎えていない澄んだ声。少年のものとも少女のものとも判断がつかない。

「おまえが、<いぶ>――か?」

 KTは呼び掛けた。

「そうだよ」

 いらえがあった。

「おじさん、どうやって、ここに?」

「ジュダに聞いた」

「ふうん……」

 逡巡するような間があった。

「――武器はもっている?」

「いいや」

「上着をぬいで見せてよ」

 KTは言われた通りにした。ぬいだ上着はドアの近くの椅子に投げる。

「じゃ、ドアを閉めて、こっちへ来てもいいよ」

 KTは後ろ手にドアを閉めた。廊下から差しこんでいた光さえ失せて、窓ごしの月だけが光源だった。

 月?

 KTは、サングラスをしたまま、部屋の奥に進んでいった。少ない光量でも見えるように、瞳孔をひらき、視神経の電流量ブーストする。サングラスさえ、赤外線を増幅してくれる役割を果たして、視界の確保に役立っている。

 白いシーツのかかったパイプベッドが見えた。その上に、一人のコドモが腰かけている。パジャマなのか、ゆったりとした服を着ていた。

 年齢は十歳かそこらのようだ。髪の毛を短くして、びっくりするほど目が大きい。

 やせすぎているように感じるが、不健康な感じはしない。

 ただ、息がせわしなかった。

「ジュダの友達?」

「たぶん、ちがうな」

 KTは<いぶ>を見下ろしながら、呟くように言った。

「おまえが<いぶ>か……神なのか?」

「神さまならぼくも信じているよ。でも、ぼくは神さまじゃない」

「おまえはドラッグを持っているんだろう? おそらく、だれも知らないクスリを」

 必要なんだ。生きるために。いや、生きることを忘れるために、だれも体験していないイメージが必要なんだ。

 ――それが理由なのか?

 ――どうして自殺しない?

 ――体温をさげることは簡単だ。

 ――心臓をとめろ。コマンドはイレースされるが、999,999回連続してコマンドを入れれば、その次には実行される仕様だ。100万回死んだ猫にあやかったギミックだ。もっとも、もうとっくにパッチが当てられているが。

 ――死ねない、というのが生きる理由なのか?

「クスリなんかしらない。ぼくは、身体を売るだけだよ」

 <いぶ>の声は淡々としていた。どういう感情をひめているのか、判別できない。

「親切な人たちと一緒に寝た。そうしたら、みんながぼくを助けてくれた。ここへ連れてきてくれた。ここなら安心なんだって。食料と水はかわりばんこに誰かが届けてくれる。ぼくは、お礼にその人と寝るんだ」

「ねる?」

「夢をみるんだ。いっしょに」

「夢?」

 ユメ? そんなみたことないもの、知らない。大脳は、マイクロプロセッサによって、データ入出力をきちんとモニターされている。記憶管理は完璧だ。出生してから1ヵ月後の時点からの記憶をちゃんと再生することだってできる。むろん、いやな思い出はRAMをクリアしてしまえば、二度と思いだすことはない。

 快楽の記憶すら、残さない。だって、いつだって快感は新鮮なほうがいい。

 覚えているのは、ネット上のデータだけだ。それしか要らないから。

「夢なんか、みる必要はない」

 <いぶ>がKTを見あげていた。大きな双眸、頬はややこけている。髪はぼさぼさで肩までの長さ。汗くさくて、ちょっとあまい匂いがする。

「みたことないんでしょ?」

「おれは……」

 言葉につまる。その通りだからだ。

「名前は? おじさん」

「KT……」

 むろん、IDコードを発信しても、受けとる電話は<いぶ>の頭のなかにはない。なんというあやふやさだ。たった二文字のアルファベットしか、いまのKTを指ししめすものはないのだ。膨大な個人ファイルから抽出した外向けのプロフィールも、クレジット会社との取り引き証明も、<いぶ>には伝えるすべがないのだ。

「オーケー、KT。ぼくは<いぶ>、よろしく」

 あっさりと<いぶ>はKTに手を差しのべた。古代のあいさつだ。<わたしは武器を持っていません>のしるし。

 握手という風習を知識としては持っていたものの、KTはしばらく対応できなかった。

「ほら、こうするの」

 <いぶ>が強引にKTの右手を握る。

 ちいさな、それでいながら、力強い掌。あったかくて、すこし湿っている。

「手を握ると、なんか安心するでしょ?」

 <いぶ>にされるまま、KTは手を上下に振った。



「ねえ、KTはどんなことがしたいの?」

 KTは<いぶ>の隣にすわっていた。

「ぼくはなんでもいいよ。SM以外ならね」

「おれは……どうすればいい?」

 訊くしかなかった。

 肉体をつかって何かをする、ということが想像できなかった。ドラッグがほしいだけだった。すぐに。とべるやつ。

「じゃあさ、ぜんぶ、まかせてくれる?」

「……」

「だいじょうぶ。ひどいことはしないよ。ゆっくりと……」

 <いぶ>が伸びあがった。なにをするのかと思ったら、唇でKTの顎にふれてきた。

「髭がないんだね、おじさん。サングラス取っていい?」

 返事もまたずに、KTの顔からサングラスを取り去る。

 赤外線増幅のサポートがなくなって、視界が闇に沈む。

 <いぶ>の声が感嘆につつまれる。

「わあ、おじさん、きれいな顔。まるで、ママみたいだ」

 まま?

「ママなんかいない。おれたちはみんな――」

 去勢されている

 脳裏にわいたその言葉にKTは慄然とした。

 どうしてそんな言葉がでてきたのか、自分でもわからない。語彙としてはむろんあった。その番地も指摘できる。だが、その言葉を、こういう文脈で使ったことはいままではなかった。

「知ってる。ぼくの知っている大人はみんなそうだもの。でも、心配しないで」

 KTは困惑した。<いぶ>の唇が、KTの口を覆うように、動きはじめたからだ。

「なにを?」

 こんなことをしてもデータは伝達できない。口は、発音しなければ、有意なデータを発信することはできない。それだって、データ量が少なすぎて、とても実用には耐えない。だから、人間が脳にマイクロプロセッサを埋めこみ、データ通信をサポートするようになったのだ。

 なのに。

 舌がからんできた。熱く、やわらかな別種の生き物。

 異常をKTは感じた。

 心拍数の上昇、呼吸数の増大、発汗――。

 側頭葉をはしるA10神経に興奮がつたわる。ドーパミンが放出されはじめる。

 なぜ? 内窩皮質を刺激したわけでもないのに。

 なにかが伝えられているというのか――?

「やめ……よせ」

 KTは<いぶ>を押しのけた。

「やめてくれ。おかしくなりそうだ」

「そのために来たんじゃないの?」

 <いぶ>が不思議そうな表情で訊く。

「KTはママに似てるから、ぼく、好きだ」

 ママ?

 疑問を口にするいとまもないまま、<いぶ>の柔らかな身体がぶつかってきた。

 KTのシャツの下に、<いぶ>の手が入り――

 触れる。

 神経がその刺激を伝える。脊髄に戦慄じみた感覚が走る。

 延髄を抜けて、刺激は視床下部へ。

 そして、ホルモンが分泌しはじめる。

 脳幹から走るA10神経は、それを受けて加熱を開始する。

 オナニーと同じようで、そうじゃない。

 いつもなら、自分で快感をもたらすスイッチを入れる。でも、今は、誰がスイッチを入れたのか?

 マイクロプロセッサは沈黙したままだ。電子ネットワークのなかでは、情報処理にフル稼動するプロセッサも、ここでは処理できるデータがない。

 <いぶ>に翻弄されている。それはわかっている。だが、抗うことはできない。

 服をぬがされた。<いぶ>も、ぬいでいる。

「やめて……胸が、くるしい……」

 KTはあえいだ。

「エクスタシーなら、一瞬でたくさん。こんなこと、したくない」

「ほしいのは結果だけ? それさえあればいいの?」

 <いぶ>が耳元でささやいてくる。

 少年の――あるいは少女のちいさな前歯が耳たぶを軽く噛む。

 電撃が走る。

 KTはわなないた。

「KTって、やっぱり女の人だね。感じ方でわかるよ」

「そんなこと、ない」

 KTは、かたく閉じていた目をひらいて、<いぶ>を見た。

 覆いかぶさっている<いぶ>の胸元は、少女のふくらみを見せていた。

 と、同時に、KTの太股に当たっているのは、確かに少年の性の高まりだ。

 KTは手で触れてみた。硬い。それに、かわった形状をしている。

 今度は<いぶ>が身をよじった。KTはびくり、とする。

「くすぐったい」

 くぐもった笑い。不快ではないようだ。KTは安心した。

 指を先に進めてみると、やはり、そこには女性のしるしがあった。

 これが、そうか……

 性器。交尾して子孫を残していたヒトという生き物のなごり。しかも、<いぶ>はそのしるしをふたつとも持っている。

 KTには、そのどちらもない。

 哀しかった。

 どうして哀しいのか、説明する語彙がないのだけれど、切なかった。

 与えられなかったもの。

 べつに欲しいわけではなかった。原始時代の生殖など、だれもする必要がないのだから。セックスの快感ならば、いつでも好きな時に手に入るのだから。

「でも、与えられないよ」

 いつも独りだけ。

 データはたくさんあるけど、独りだけ。

 なぜなら、それが効率的だからだ。強烈で深いエクスタシー。体力を消耗することもなく、純粋な快感がおとずれる。

 だから、独りでするのが正しい。

「でも、さびしいでしょ?」

 訊いてくる<いぶ>の問いは、でも、言葉ではない。指や唇や舌――あごの先や、手の甲や、膝も――あらゆる身体の箇所をつかって、KTの身体にふれてくる、その刺激。

「こうすると、安心するでしょ」

「こっちは、ちょっとドキドキするでしょ」

「ここはピリッとくるよね」

「ほら、たまにはお返しもしてよ」

「いいよ、そんな感じ」

 そう?

 気持ちいいの?

 なんだか、うれしい気持ち――

 <いぶ>?

 そんなにいいの?

 声をそんなにあげて。

 身体をゆすって。

 動きが激しくて。

 こっちにも伝わってくる。

 すごく感じてる。

 わたしも、感じてる。

 おんなじように感じてる。

 高くのぼっていく感じがする。

 速度があがっていく感じがする。

 どんどんまわりが白くなっていく感じがする。

 ああ。

 <いぶ>

 いくの?

 わたしも

 つれていって――



 それ――かつてKTであったもの――は、そこにいた。

 あたたかい海のなかにいた。

 滋養に満ちあふれている。

 危険なものはなにもない。

 王宮にまもられた王女。

 やすらかな、

 すこやかな、

 まどろみ。

 ――まま。

 ――ずっとこのまま。

 ――ずっと。

 ――まま。



 轟音が夢をやぶった。

 空気に叩きつけられて、KTは意識をとりもどした。

 自身の心拍数も血圧も数値でモニターできる意識を。

 マイクロプロセッサが稼動し始めたことをKTは自覚した。

 電話が鳴った。無意識に回線をひらいていた。

「ハロー」

『だいじょうぶ? KT』

 ファメイのIDだった。電話をかけてきたのは。

 KTは部屋の戸口に顔をむけた。

 開いたドアから光がさしこんでいる。まぶしくはない。光量は虹彩が完璧に調整している。

 逆光のなかに立っているのは、ほっそりとした身体に戦闘服をまとった――アオザイ姿ではない――ファメイ。ヘルメットはその顔の上半分を隠し、パールホワイトに塗った唇だけが外気にさらされている。呼吸は鼻から――それもクリーナーを通じて供給されているはずだ。外界の空気はまともな人間にとっては毒だから。

 ファメイの手には拳銃が握られ、その銃口からはかすかに煙がでている。

 KTは、かたわらに手をのばした。

 やわらかいものに当たった。

「……<いぶ>」

 膚はしっとりとしていてまだ温かい。でも、触れても、反応するものがない。生命をたもっていないことは明白だ。

 それでも、見た。

 白いしなやかな肉体。

 愛らしい少年の――いや、少女かもしれない――顔。

 その額の部分に穴がぽつんとあいていた。後頭部にあたる部分は弾けていた。血と脳漿がベッドにぶちまけられていた。

 あまりの違和感にKTの嘔吐中枢が反応した。胃が収縮する。アドバンスド・ミールを摂取するためだけにつかわれ、ほとんど退化した胃が。

 神経伝達の速度を調節して、不快感を減衰させる。

「ファメイ、なぜ……?」

 喉からでる声はふるえていた。

『あやまらなくちゃいけないわ。わたしはあなたを利用した。必要だったのよ。<いぶ>を処分するためにね』

 すぐ間近にいるファメイは唇をすら動かさない。

『この世界には、ごく一部、去勢処置のされていないヒトが残っているの。それを狩るのがわたしの仕事。香港ネットに籍をおいているけど、住所はあなたのアパートメントから二ブロックも離れていないわ。タワーの外で、脳にIDをもっていないサル同然の生き物が繁殖している。これは危険なことだわ』

 そうだ。肉体的に人間が暮らしているのは、タワー一箇所だ。八十層からなる層状の都市。人口は約三億人。それぞれに許される空間は厳密に規定され、食料も水も空気も正確に分割されている。だから、人は電脳空間に都市をつくったのだ。失われた都市が、文化が、習俗が、あたかも残存しているかのように。

 それでも、タワーの外にはわずかな生存者がいた。むろん、激変してしまった気候、有害物質をふくんだ大気、破壊された生態系のなかにあって、生存できる確率は限りなく低く、遺伝子は影響をうけて変質し、すでに人類とはちがった生き物になってしまったと――

『<いぶ>は、そのうちのひとりだったの。われわれが、研究のために捕獲した実験体。それを<アポスル>が奪取したのよ。彼らペドフィリアにとって、性器を二種類とも持った子供と、肉体的に<ねる>なんて、至高の宗教体験だったのよ。そして、<いぶ>には恐るべき能力があった』

 恐るべき能力――?

『あなたも体験したはずよ。それに、香港の裏ネットの書きこみをみたでしょ? あれは、われわれが仕組んだモニター調査の結果だったのだけれど……。つまり、<いぶ>には、性器を持たないわれわれに、性器をつかった性行為を実体験させるようなホルモンを分泌する力があったの。それは、<いぶ>の唾液を通じて、相手に伝達され、急速に作用する。すると、その人間の脳内で、性ホルモンが分泌されるようになるの。基本OSによって削除されたはずのホルモンがね。極端な例では、<いぶ>との接触後、睾丸を体内に発生させたケースもあるほどよ。おそろしい力だわ。どうにかして、遺伝子をかけあわせ、複製しようとしているみたい。<いぶ>は、自然が人類を退行させるために送りこんだ刺客のようなものだわ』

「それが、いけないことなのか? あれはとても気持ちがいいのに。満足感があるのに。そして、すごく優しい気持ちになる。ひとりで快感を追求しているのとはちがう、あたたかい気持ちに……」

『そして際限なく子孫を増やし、殺しあいをするわけ? 自分の子孫を、自分の遺伝子を、この限りある世界に残すために――? この世界では、もう、よぶんな生命を養うことはできないのよ。すべてを分割し、できるだけ維持しなくちゃいけない。そのためには、生殖は悪なの。あなたも善悪の判断くらいはつくでしょ?』

 ――そのとおりだ。

 人類は、もはや増えてはいけないのだ。すでに人類は充分すぎるほど犯罪をおかした。増えすぎ、地球の環境を回復不能なまでに破壊した。ほかの動物を滅ぼした。植物を根絶やしにした。大気をよごした。海を殺した。自分の子供にいいものをやるために戦争をした。それも繰りかえし。あきることなく。

 結果、世界は変貌した。人類にとって優しい母親だった世界はいまは存在しない。巨大なタワーに残存した人類を詰めこみ、細々と生き延びているだけだ。もう、増えることは許されない。

 だから、しかたないことなのだ、とKTは理解した。

 <いぶ>が殺されたことも。

 おそらくだれも知らないクスリ、など、あってはならないことも。

 ――ほんとにそうなのだろうか?

これはKT自身が考えていることなのだろうか?

 それとも――マイクロプロセッサが考えているのではないのだろうか?

 わからない。判断のしようがない。

 すべて。




1996/7/28 一応完成

         2021/7/4 一部修正

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「1996」番外:おそらくだれも知らないクスリ 琴鳴 @kotonarix

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