第七話:残灰
敵が停戦を申し入れた。
と同時に、中立商都名都、その豪商六番屋の早船を介して鐘山宗円が本陣にも、かの打診は届いた。
「風祭府から?」
東方で静観していたかの公弟から寄越されたのは、和睦の仲介の申し出。そして程なくして風祭軍二万が着到するという報せ。
もし自分達の『好意』を拒むようなことあれば、この二万があらためて相手をするという、恫喝。
「……面白い!」
桜尾の邀撃に遭い、甲斐なく引き返してきた宗流は、勢いを取り戻して気を吐いた。
「名の如くに臆病風に吹かれて逃げ帰った弱卒どもなんぞ、何ほどのことやあらん! そのような朝廷の予備兵力ごとに官軍を吹き飛ばし、一気に天下へと邁進せん!」
言葉自体は豪壮なれども、それはもはや虚勢に過ぎないことは、誰しも承知のことであった。
そしておそらくは、頬を不自然な引き攣らせ、薄く汗の膜を額に張る宗流自身も。
宗円は黙して思考する。
これが絶好にして、最後の矢留めの機であるとは理解している。
だが順門府公としての矜持と打算が、それに難色を示す。
何故、戦いもしていない相手に頭を下げねばならぬのか。
まだ何か交渉の材料があるはずだ。
策をねじ込む余地があるはずだ。
そういう業を、捨て切れない。
「……殿」
幡豆由有が耳打ちしてきたのは、その苦悶の渦中であった。
「後背の不届き者ども、潮のごとく退いてございます。被害も思ったより微少であるとのこと」
報せを聞き、その意味するところを理解した時、知らず宗円の喉奥から自嘲がこぼれた。
よほど、狼狽えていたらしい。
往年の己であれば、今この敵が作れる遊軍などたかが知れたものだと推察できたはずだ。
そして、策により事前に遠ざけた風祭康徒の動向も、絶えず監視を怠らなかったはずだ。
いつの間に、一戦場に偏執するほどに、その視野は狭窄化したか。
(つまるところ、既にして儂とて正気ではなかったか。あの意味なき奇襲はそう抜かしたいがゆえか。『火付盗賊』よ)
――さればあの火災は、目にした者すべてを狂へと駆り立てる鬼火であったか。
老人の笑いは、いよいよもって諸将には正気を疑う類のものに映ったようであった。
「……おい、何を笑う? どうして黙っている?」
親に向けたものとは思えない険しさで、宗流が問うた。
笑いを納めた宗円は一転して無表情で項垂れ、倅には言葉も目も呉れなかった。
その無視が、人の形をした猛牛を狂い猛らせた。
「ここで退いては何のために起ったか分からぬではないか!! 親父殿、腑抜けている場合か!? 戦えっ、そう宣言せい! 将士百姓に死兵と化して最後まで戦えと厳命するのだ! ……そのように情けない姿を、俺に見せてくれるなァ!」
「ならば、お一人で戦でもなんでもされるが宜しかろう」
荒ぶる宗流の怒喝に、冷水を浴びせるが如き声が飛んだ。
顧みれば、宗善が立っている。
さんざんに炙ったであろう火熱はその具足を貫通して肌を焦がし、君子たらんとする平素の姿からは想い及ばぬほどにずたぼろになった姿で、目元には今まで溜め込んで、堰き止めていたであろう陰と険とが浮かんでいた。
「宗善……生きておったか」
「幸いにして。雨と、我が家臣の犠牲と献身により」
「助けてやったのは俺の手勢だがな」
可愛げのない宗善の応答に、面白くなさげにその兄が横槍を入れる。
宗円は軽く言葉に窮した。
よくやったと言える戦果などあるまいし、よくぞ無事であったというのも白々しい。叱責するのも躊躇われる惨状である。
それを汲んでか、次子は冷ややかな言葉をもって先回りした。
「お言葉をいただくには及びませぬ。全ては、身から出た錆ゆえ」
「……そうか」
「されど父上。もしあの者らの死に少しでも後ろめたきことがあれば、この申し出、一も二もなくお受けくだされ。……もはや、皆たくさんと思っておりまする」
膝を切るようにしてその場に屈し、低頭した宗善の前に、傲然と兄が立ち塞がった。
「ほざくな宗善。元を糺せば貴様の過ちであろうが」
「その前には、幾度とない兄上の失態もございました」
「何ぃ!?」
「さらに遡れば」
息子たちの視線は、依然黙したままの父親へと移った。
脚を擦って宗流のさらに前へ、父の足下へと割り込んだ宗善は、真っ直ぐに老人の横顔を睨み上げた。
「父上、やはり私には貴方の判断が正しかったと思えない! 伊奴の振る舞いは下劣ではございましたが、その殺害に対して理非を曲げ、民がためという題目の下に兵事に及んだは、父上の野心がためではございませぬか!?」
宗円は乾いた唇を噛み締めて、耐えるがごとく真情の吐露を聴き続けた。
「結果、国は焼け、民を追い詰めた! 誰もが、間違えたのです! 私も、兄も帝も、赤池殿も近臣らも、桜尾らも、笹ヶ岳の上社も! そして父上とて例外ではありませぬ! 認めたくないのであればよろしいが、それでも、どうか責任だけはお取り下さいませ!」
たとえ一族が風祭康徒に腹を切れと命ぜられても、あるいは強引に詰め腹を切らされても、この戦には幕を引くべきであると、そう言外に次子は訴えている。
「……一つ、訂正しておく」
宗円はそこでようやく、沈黙の帳を払った。
「儂が挙兵したは、其方の申すような野心がためではない。天下を取るには歳を取りすぎておるわ」
「――はは」
宗善は所作のみはいつもの沈着なそれへと立ち返り、静々と、宗円の言い分には肯定も食い下がりもせず頭を垂れた。
あるいは、それは自分に言い聞かせるものであったのかも知れない。
「が、初めて物申したな。己の理と感情で」
宗善の腕を引き立ち上がらせた宗円は、あらためて幡豆由有へと向き直ってのち
「仲立ちの件、何卒よしなに。そう風祭殿にお伝えせよ」
と、重く苦い口で命じた。
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宗円が和議に乗り出したのち、兄はしばし呆然としていた。
あまりに呆気なさすぎる夢想の幕切れに、感情が追いついていなかったようだ。少なからず兄自身が疲弊していたというのもあるのだろう。
だがいずれは荒れることは明白であったので、それが本格化する前に宗善は自陣へと引き上げた。
ほぼ半壊と言って良い備はすでにして再戦に耐えうる陣容ではなく、生還できた者も皆大小の火傷を負って暗澹たる面持ちであった。
そのうちでも、老境の傅役三戸野光角がさしたる怪我もなく生き残れたのは奇跡であったのかもしれない。いや、あるいは常日頃そう感じているように、さては本物の妖怪であったか。
「若」
と、その老人は帰ってきた宗善と認めるなり、近づいてきた。
「……例の地田綱房、息を吹き返してございます」
そして、この虜将にしても。
地田綱房もまた、生き延びた。茣蓙の上に仰臥させられていた。
だが満身創痍の体であり、ともすればこのまま息絶えてしまうのではないか、とも宗善は思っていた。もっとも、その方が当人にとっては幸福であったのかもしれない。
哀れな男であった。
怨讐の焔さえも信守には体よく利用され、ついには半端な燃え滓となった。
煤混じりの、真っ黒な涙の痕を頬にくっきりと残して、虚ろな表情で雨天を仰いでいる。
「死ぬことさえ、満足に出来なかったか」
呆れたような、むしろ感心してしまいそうな調子の声を、宗善は半死人に落とした。
それが聞こえたかどうかは知れず。意識があってのことかも知れず。
ただかすれ声で、
「殺して、くれ」
と懇願した。
「
すかさず宗善が答えたことで周囲の将士はにわかに顔色を変じさせた。
「まさか、お助けになると……!?」
「八つ裂きにしても飽き足らぬ憎き奴! その必要はなしと存じまする!」
「八つ裂きにしても飽き足らぬのなら、殺したとて恨みは晴れまい。むしろ生かしおくことの方が、より地獄を見るに違いない」
酷薄なことをさらりと返されれば、言葉もなく将兵らは俯いた。
地田綱房は信守の悪業の証人である。今はその使いどころを見出せないが、殺さずにいればいずれは役に立つこともあろう。
そして生死を彷徨う本人の隣に宗善は腰かけ、
「生きていれば、王朝の御為成しえることもあろう」
と言い聞かせる。
同時にそれは、宗善自身への誓いでもあった。
このしぶとき消し炭に、宗善は己の影と行く末を見た。
綱房とともに業火に呑まれるはずであったこの命、拾ったとしてふたたび捨てることになるのかもしれない。勅命により死をもって償えと言われれば、父兄は知れず、おのれは従容として受け入れるだろう。
だが
信心や願掛けの類などではなく、朝廷がため、あるべき秩序がため、天下静謐がため、この国で果たすべき業があるがゆえの必然である。
そしてそのためであるならば。
――兄も。
――父さえも。
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