第五話:笑いか産声か慟哭か

 信守は、己がどうやって外に出たのか分からなかった。

 歩いて引き返すより他ないだろうとは思うが、その僅かな距離の間の記憶がなかった。

 あるいはその時に上社信守という男は死んでいて、今それ以外の何者かとして転生したのではないか、とも思った。


「若」

 我聞がそんな何者かとも知れぬ男をそう呼んだ。

「どうかお気になさいませぬよう。殿は意識が混濁しておられ、つい心にもないことを仰られたのです」

 親子の会話を拾い聞きしていたらしく、本人よりも悲しげな様子で、分別ぶった慰めの言葉を口にしたが、そうではあるまい。

 間近に聞いていた信守には分かる。あれは堪えかねた末に出た、偽らざる父の本心であった。


 そして、一度は正しいと認めた男が、虚飾やしがらみを取り払った末に振り絞った言霊だ。これ以上の真理が何処にある。


 そしてその『遺言』に心揺れた己を、今の信守は意外とも滑稽とも思った。

 認めたはずではないか。己が過ちを、歪みを。それを今更父に指摘されたとして、何ほどのことがある。

 お前は間違っていない、正しかったと認めて欲しかったとでも。転んだ童子がごとく、頭を撫でて励まして欲しかったとでも。


 だが、その動揺に信守は初めて、自らの内に心を認めた。人間を感じた。


 だからこそ、は、真実だ。


 信守は足を止めて天を仰ぐ。

 月のない夜。だが確かに、信守は月の光を浴びた。


「そうか。私は、やはり、狂っていたか」

 見開かれた両の眼に、煌々とした輝きが映しとられて宿る。

 さながら一宗教の開祖が、天啓を得たかのような心地であった。


 なるほど自分は狂っていた。

 では、他の連中が正常であったのか。

 だがやはり、そうとは思えない。

 自分たちが打ち立てた理念に足を掬われ、善性を言い訳にその矛盾から目を逸らして縋り付いく糞袋ども。その醜悪な姿が人として正しい姿だと、信守はどうあっても受け入れることが出来ない。


 我が理も偽。彼が理も偽。

 ならば答えは明解だ。


 凡そこの世に、正しき義などない。正しき理などない。

 あるのは各々が手前勝手に押しつける都合。やれ秩序だ徳だ正義だ忠道だと飾り立てられた狂気ばかりである。

 我々は、皆等しく狂気に縋りついた惨めな生き物だ。


 さながら、坂の下に穿たれた穴に、玉が吸い込まれるかのように。

 行き着いたその結論を、信守はごく自然に受け入れていた。


 我聞の背はすでに遠い。独りであった。


「ふ……ははは、ははっはははは」


 信守は笑う。衝動のままに、我が心に従い。

 最初はややぎこちなく声を控えて、だが瞬く間に馴れて、我が物として高らかに。


 我聞や待機していた番兵などがギョッとしたかのように彼を顧みたが、もはや信守の方は遠慮をしなかった。


「はははははは、ははははははは」


 宵闇に響かせる朗笑。

 それは、親知らずの嬰児みどりごの産声のようでもあり、自らの半生に絶望した老人の慟哭にも似ていた。

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