第四話:闇の声
信守は敵の追撃と味方の誤りにしてお粗末な防戦とを振り切り、門をくぐった。
知れず肩の
実氏の陰助もあったとはいえ、率いて来た残存兵二千五百という数に比してこの被害というのは、僥倖に恵まれている。
もっとも誰もそれも歓ばない。そもそもがその作戦行動自体が、戦略的にも戦術的にもただその無事に済んだ兵力を捨てるばかりの愚行だ。
喜んだのは綱房ばかりだ。やれ見直しただの義と忠に殉ずるための潔さだとか称賛されたが、それを鼓膜より素通りさせて、信守は直截に尋ねた。
すなわち、父の安否を。
綱房の表情がにわかに変じた。否、その媚びるがごとき振る舞いやついて回る所作は、その件に触れられることを過剰に恐れたからに相違あるまい。
綱房の声を待たずに、信守は父の陣所へと足を速めた。
ついて回る奴輩の、言い訳がましい言葉を背に受けて。
曰く、味方の兵に兵糧を盗む者ども是あり。
その者に鞭打ち罰しその非を糾弾したところ、その者深く恨みて門扉を開け放って敵を引き入れんとし、それを咎めた鹿信卿ともみ合いの末、抜いた小刀が御仁の脇腹を貫いた、と。
父の手勢にそのような不心得者が生ずるべくもなし。
大方、第六軍の一部の者が、この綱房の厚顔ぶりに辟易してしでかしたことであろう。盗み云々はその溜めに溜めた不満が一気に暴発した結果に過ぎない。
「もう結構、下がられよ」
「しかし……あぁしかし! 我が部下の不明、いかにしてお詫び申し上げるべきか! 我が身で償いの能うことであれば、いくらでも捧げるというに!」
「黙れ」
芝居がかった所作で身をよじらせる綱房を、信守は一喝して引き取らせた。
そして、一拍子置いてのち、父の寝所を訪れた。
供回りは我聞のみである。その我聞も、見張りに立たせて、陣屋に入るのは信守のみとなった。
広がっていたのは闇である。一台の燭とてなく、一寸先も見えない。己が手さえも。だがそれゆえに臭いが濃いものとなる。
発酵臭と、血臭のまざりものが鼻孔を抉る。おそらく、小者に刺された傷が腸までに達している。もはや、助かるべくもない。
しかし今は、果たして死んでいるのか、生きているのか。
生きているとして、意識があるのか、それとも目覚めぬままなのか。そもそも生の線引きとは何処にある?
そして今、正体定かならぬ父を前にして、何を想っているのか。
この胸に去来する安堵とざわめきは、一体何に由来するのか。一方四寸の心の臓の所在さえもはや、分からない始末であった。
「何故戻ってきた、信守」
父の声がした。意識があるどころか、己の意図に背いて我が子が砦に再突入してきたという現状を寝たきりの身の上で正しく把握していた。
信守の具足の擦れ合う音が聞こえた。
「それは……ひとえに、父上の身を案じて」
「本心か?」
信守は押し黙った。
虚しい問答だった。おそらくは互いに、そうではないことに感づいている。
「まぁ良い。最期に一目、お前に会いたかったことも確かだ」
「最期などと、そのような……」
「いや、傷は腸に達している……もういかん。それに、これ以上は、見届けようとも思わぬ世の中となろうよ」
愚帝によって王朝はその舵切りを大いに誤り、ともすれば二代と続かぬであろう。そんな天下を乗り越えるには、父は齢を重ね過ぎていた。
「だからせめてお前に、言っておかねばならんことがある」
ここまでは常と変わらぬ様子で喋り続けていた父の容態が、にわかに変じた。
何とか気力で持ちこたえていて、いよいよ死期が差し迫っているということか。あるいは、これから打ち明けようとしていることが、鹿信の精神と寿命を圧迫しているのか。
息を荒げ、今にも意識を手放してしまいそうな父に、足早に寄って信守は助け起こした。
自分にも、伝えたい想いがある。謝したい過ちがある。信守は初めて神に、居るかどうかも分からない概念的存在に祈りを捧げた。
せめて半刻でも良い。ここまで平行して互いに歩み寄ることがなかった我らの蟠りを捨てさせ、僅かにでも親子の時を送らせ給えと。
「信守……お前は」
「はい……はい、父上」
我が子の肩や胸を借りて身を寄せた鹿信は、徐々に硬くなりつつある口舌を懸命に動かしながら、信守へと伝えた。
「お前は、狂っている」
聞き逃し、間違いのないほどに明瞭に。
「…………え?」
そう問い返した己の声の低さに、信守は驚いた。
「お前は間違っている。お前は過っている。お前はどうかしている。朝廷の危機に、何故自分を傷つけることさえも承知しているはずなのに、和を乱すようなことばかりする? この地獄のような状況下で、何故味方の勇戦を嘲るような顔をする」
「……私は、嘲ってなど」
「していたのだ、俺の目の前で、俺と別れる前の軍議で」
追い立てるがごとく非難の言葉を連ねていく鹿信は、幽かな抗議でさえも許しはしない。嗤った自覚がない倅を憐れむがごとく、双眸を引き絞っていた。
「そして我が身に禍が降りかかった。俺が受け持つのみならばまだ良いが、官軍の統制は大いに乱れ、士気が底まで落ちているのがこの岳より見えた。お前の笑みは、災厄をもたらすのだ」
慙愧に耐えられぬかのように顔を覆って、その我が子を肩で振り払うかのように布団へとふたたび身を沈めていく。
「嗚呼、何故お前のような鬼子が生まれてきてしまった? どうしてお前はそうなってしまった? お前を生んだことが、我ら夫婦の生涯最大の罪だ」
涙ながらにそう言いつつ、わずかに開いた指呼の間より鹿信は
「俺はそんなお前が恐ろしかった。布武帝の御代より藤丘をお支えしてきた上社家から、このような変異が生じてしまったという事実から目を背けて来た。そしてその放任こそが、より凶悪な魔を増長させる契機となってしまった」
おおよそ、実の子に向けるべき呪詛の数々が、信守の心にずっと空いていた穴を埋めていく。その幻痛に眉根を寄せ、奥歯を食いしばって俯く青年に、そこまで言っておきながら父は、
「すまない」
と詫びた。
「俺には、父としてお前の歪みを正すことができなかった」
最後は、呟くような悔恨の言葉であった。おそらくは本心からの、憐れみの情であった。
音がしなくなった。声も息遣いも絶えた。
そして信守自身は、氷の楔を背より打ち込まれて床に縫い付けられたのように、わずかな身じろぎもできずにいた。面持ちはきっと虚無そのもので、ただ眼だけが炯々と浮き彫りになっていたことであろう。
――そして、完全なる闇が、訪れた。
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