第五章:覚醒の夜
第一話:不合理
信守の危惧した通りに。そしておそらくは瑞石の目論見通りに。
桜尾典種という巨石は動かなかった。いや、動けなかった。
心情としてはみすみす捨て置くわけにもいかなかっただろうが、瑞石の言ったとおり、桃李府軍が率先して反攻に出ているからこそ、この膠着がある。いわば今は、不安定な吊り橋だか舟橋だかを一気に駈け抜けているからこそ安定しているのであり、少しでもその均衡を崩してしまえばたちどころにすべてが崩壊してしまうという有様であった。
――混成軍となれば、指揮系統に混乱が生ずる。よって役割を分業する。背後は第四軍が守り、前線は当初どおり桜尾公に当たっていただきたい。
というのが、佐古家の弁。
聞こえが良いが、要は面倒ごとはすべて桜尾の軍に割り当て、自身は怯懦ゆえか野心のためか。直成は後方に引き下がって一応の支援を果たしつつも自ら矢面に立つことは控えた。
それを知るからこそ、信守もまた強いては求めなかった。
「申し訳ない」
時機に重きを置くのは自身も同様だろうに、それを割いてまで現れた実氏は、律儀に頭を下げた。
何故だかこの男に貸しを作りたくもなかった。その自身の奇妙な意地に、恥じるよりも忌々しさを覚えつつ、信守は食い下がることはしなかった。
その上で知ってか知らずか実氏は、
「直成卿を頼っては」
などと言う。
佐古を頼れば「桜尾に頼め」。
桜尾に頼めば「佐古を頼れ」。
絵に描いたような堂々巡りに辟易しながら、信守は最後に実氏に問う。
「風聞によらば、御座は空という。真実か?」
「……言えん」
言えない。虚報ではなく、黙秘することを即答した。
すなわちそれは事実である。そしてこの秘中の秘を暗に打ち明けることこそ、この男に許される限りの譲歩であり、好意なのだろう。
「相分かった」
そう言いつつも信守には、何から何まで理解できないことづくめだ。
帝の無責任な敵前逃亡も、今この時になって野心を萌芽させてそのために行動する佐古主従も。好意として投げかけられた本音と建前も。
いや、実際のところは分かっているのだろう。
だがそれでも、やはり。
その
すべてがおぞましく、到底許容しがたいものだった。
〜〜〜
二大勢力を恃めぬとあれば、あとの選択はそれほど多くはない。
中でも最たる心当たりへ、
(背に腹は代えられぬ)
とて信守は、
自分とともに岳を抜け出た、豪族、地侍たち。
彼らはさながら隔離された疫病患者のごとく、隅に留め置かれていた。
その陣所に近づけば、嫌でも酒の臭いが鼻孔を抉る。
家令貴船我聞を伴った信守の姿が近づけば、酔眼を向ける。
だがあからさまに認めておきながらも露骨に無視して猥談などを繰り広げていた。
「御免」
信守はそれを意図を承知で声をあげた。
「おぉ、これはこれは他人の働きを借りたうえで武勲目覚ましい上社卿のご子息ではございませぬか」
端緒から喧嘩腰である。
その理由はよく弁えてはいるが、信守の方も信守の方で、その伏したつもりらしい悪意を流して、切り出した。
「この信守、各々にあらためてお願いしたき儀があり参上いたしました。佐古直成は当初の約定を破り、我が父を見捨て自らのみが身の保身を図っている有様。ついては鹿信救出のため、お力をお貸しいただきたい。もしご助力いただけるのであれば、帰国次第あらためて謝礼を」
「ほう? 聞いたかお歴々! 上社の若殿さまのお望みを叶えれば、ご恩賞をいただけるとのことだ」
「ははぁ、負け戦も負け戦だというに、また豪勢なことよ」
「先の褒章も頂いてはおらぬのにのう」
「しかし見殺しにでもされたら、貰えるものも貰えぬとは思うがね」
「いやいや、そこはこの信守卿の深謀遠慮というものよ。先と同様に我らを体よく扱い、いざそれが成ったとなれば、死人に口なし……ということで」
「おぉ、怖や怖や」
などと、いちいち言葉尻を捉えては揶揄する有様。
見え透いた悪意に嫌悪など抱くものか。呆れはしたものの、それを努めて表情には表さず、信守は続けた。
「……もし諸将がこぞって鹿信救出に打って出たとあれば、桜尾佐古両氏もさすがに看過はいたしますまい。されば一度は乱れしこの連合軍も一丸となって順門府に当たり、こちらの士気がまだ維持できているともなれば和睦の目も」
「賢しいわぁっ!」
煽った側が、ついには切れた。
その内の雲木なる国衆の頭目が手にしていた酒器を信守へと投げつけた。
額に硬い衝撃がかち当たり、その突起が眉の上を軽く裂いた。
「若っ」
あわてて我聞が信守を介抱すべく駆け寄らんとしたところを、その信守の手が制した。一挙一動が相手を刺激し、ますます猛らせて我聞にも累が及びかねない。
「あの岳でなお我らを酷使しようというのか!」
「そもそも貴様の無謀にして無能な策がゆえに、宗円公の無用な怒りを買ってしまったのではないかっ!」
「何故その貴様の青い尻を我らが拭ってやらねばならぬのだ!?」
放言ここに極まった。
ではあのまま地田綱房の無謀な吶喊に付き合わせてやれば良かったのか。そうなれば今以上の、無用の痛手を被ったのは、この者たちではないのか。
だがその理を路を整えて説いたところで、酔いと積み重ねた憤懣に目を充血させたこの手合いに通じることなどあるまい。
「詫びろ」
おもむろに雲木が言った。
「謝れ! 手を土につけて土下座しろ!」
信守が黙って睨み返すと、さらに激して机を叩いた。
「何故、いま私がそんなことをせねばならぬのです」
「黙れ!! 貴様の、貴様ら官軍のせいで我らが被害を受けたのだ!」
「それとも鹿信卿はおのが子に詫び方ひとつも教えてはおらんのかぁ!?」
他の面々も唱和するがごとくに口々に身勝手なことを申し立てる。
「無礼はそちらであろうがっ……この方は」
「良い、我聞」
変わらずみずからの擁護に回らんとする家宰を、信守は静かに制して膝をつき、掌を地表に押し当てた。
そしていま一度確認をする。
「頭を下げよと言われるならばいくらでも下げましょう。それでここまでの遺恨を水と流していただけるのであれば」
「おう、考えてやろう」
ならば良し。
元より笹ヶ岳で使い潰すつもりだったこの身上。頭や首の一つ捧げることなど別段苦痛ではない。
信守は泥土に
粘性の強い嘲笑が頭に落ちてくる。
「ほう、中々に良き所作よ」
「誰ぞ、この仁に褒美の酒でも馳走せい」
落ちたものはそればかりでなく、飲みかけの濁酒が天頂より注がれる。意図したものかは知れず、誰ぞの足が信守の手甲を踏みにじった。
その冷たさに耐えた。自然、奥歯が軋んで歯茎に痛みを伴うほどに押し込まれた。
「若……」
だがそんな仕打ちより、憐れむがごとき我聞の涙声こそが逆に堪えたと言って良かった。
「もう良い良い。はや、見飽きたわ」
という許しを得て、信守は顔を持ち上げた。
至近に、雲木の貌がある。優越感と悪酒に酩酊した彼は、臓物のごとき臭気を吐きかけながら、
「お断りいたす」
と言った。
「さぁ各々がた、どこぞの民家でも借り受けて飲み直しましょうぞ」
「左様左様」
「まったく、辛気臭い顔を見て酒が不味うなり申したわ」
彼らが信守を蹴り飛ばすがごとく退出した後も、信守はしばしその場に居尽した。
頭の内に、声が響く。
――理に合わぬ。
――理に適わぬ。
――理に非ず。
別段、意趣返しするのは良い。逆がつくとはいえ恨みを抱き、嘆願を拒むのもまぁ納得する。
だが、それを同時に行う思考が理解できない。
意趣返しするのならもっと時があろう。拒絶するのであれば、最初からすれば良い。これでは互いに大切な時を浪費するばかりで何の意味もないではないか。
(そもそもあれらは、何ぞや)
今も先も、彼らは何に従事するためにそこにいるのか。
ただ後難に怖じて、かと言って戦いに加わることなく、酒肴を囲んで無駄飯を喰らい、誰ぞが解決してくれるのを待っているだけ。一時も早くこの苦行から解放されたいというのであれば、この事態の打開に率先して動くか案を出すか、でなければ糧秣をいたずらに消費せずに帰国すれば良いではないか。
禁軍相手のこの傲岸な言動から、彼らとて薄々帝の不在を察してはいるだろうに。
まったくもって、その不合理さに如何ともしがたく腹が立つ。
「――いや、不合理なのは、私も同じか」
そしてその怒りは、彼らと等しくその不条理に甘んじる己にさえ向けられていた。
独りごちて、我聞の手を借りずして汚れを払い、酒露を拭い去って立ち上がる。
「若……」
「聞いての通りだ。交渉は決裂した」
若、若とそれしか言えぬのか、という皮肉は胸に押し込め、信守は何事もなかったかのように、残臭の残るその場を後にした。
「これよりは、単軍にて父上をばお救いする」
だが果たして、これは最早なんのための戦なのか。
そして己は、いったい何をしたくて、あるいは話したくて父を助けたいと欲するのか。
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