第十一話:偽善者

 空の御座所に、佐古直成は四肢を投げ出して寝そべっている。

 生涯に一度は試してみたかった悪戯ではあるが、実際にやってみればあまり良い気分とは言えなかった。

 打ち立ての畳の匂いに饐えた酒気の残留が交ざり、生物の本能的に不快な異臭がしてくる。

 一体何を思って、あの男はここにいたのか。何を考え逃げたのか。


 今の彼の姿勢を不敬と咎める者はいない。

 皆、それどころではなかった。

 帝逃亡の事実を知る者には緘口令を厳に敷き、それを破って敵や故郷に奔らんとする者少なからず斬った。

 が、この空の御所を吹き抜ける空風の虚しさばかりは如何ともしがたく、知らぬ者も薄々は違和感を覚えつつあるようだった。


 そうした多忙かつ緊迫な時期に、身を投げ出して忘我しているその怠惰と、不在とはいえ玉座で寝そべる大不敬を、せめて瑞石ぐらいは諫止してくれても良さそうなものだが、傍らの軍師は涼やかな目元を細めて、じっと黙していた。

 直成が自発的に動くのを待っているかのようでさえある。


 やがて自身の児戯じみた姿勢にも飽いた。色々な意味で長居すべき場ではない。

「如何にすべきかのう」

 身を起こして、軍師に問う。


「現状、桃李府軍が防戦に当たっております。なかなかに粘り強い。そして順門府兵の性質をよく弁えている。一度大きく下がりましたが、その後、敵の戦意が萎えたのを見計らって反撃に出、ついに追い返しました。それを繰り返して、なんとか膠着状態に持ち越しています。しかしながら、帝がご不在とも知られれば、いつ後ろから崩れるか知れない状態ですが」

「ならば、このように油を売っている場合ではないか。儂らも出るぞ」

「お待ちを」


 音もなく瑞石の手が挙がった。


「申し上げた通り、前線は典種公にお任せすれば問題はなく、真に恐るべきは後備えの崩れ。さすれば、どなたかが陣代をば務め」

「待て」

「大将として将兵を督戦し続け、落とし所を見つけ和議ないし停戦を申し出ることこそ第一義」

「待て、待てと言うとろうが、瑞石」

「は」


 珍しく、この書生の感情のタガが外れかけている。

 さほどの奇貨か、この状況が。

 さほどの蠱惑か、この地獄が。


「つまりは……何か?」

 直成は己の尻を着けた畳のヘリを叩いて、呻くように言った。

「この直成に、主上の代わりをば務めよ、と」

「鹿信卿、綱房卿は笹ヶ岳にて孤軍奮闘。典種公もつまるところは外様の大名。信守殿は未だ若輩にして方々に不興に買っております。残る禁軍の大将とは、すなわち殿

を置いてほかにはございませぬ」

「馬鹿な」


 直成は手を振って苦笑した。それこそ、空の御座に横臥する以上の不遜であろう。だが、瑞石の論調を打ち崩すだけの材料を持ち合わせていないこともまた、確かだった。


「殿」

 珍しく進み出て、瑞石は言った。

「そしてこの役務を果たしおおせて後は、ただの禁軍第四軍の長ともすでに滅びし旧家の名族とも言うような者はいなくなりましょう。場合によれば、故地奪回も」

 瑞石らしからぬ粗忽さを、直成は目で制した。

 軽く慌てて引き下がった瑞石の前に、直成は立ち上がった。


「それはさすがに気忙し過ぎるわい。……ま、大将となるかどうかは置くとしても、前線働き以外で成すべきことは?」

 瑞石は中指と人差し指をまっすぐに立てて言った。

「まずは兵糧。これより先は長陣も見込まねばなりませぬ。欠かすことのない補給線を確保し、かつ諸侯諸将に恩を売るまたとない好機。幸いにして昨年は豊作につき、名津なつの倉より供出します」

「分かった。ではそちらの手配はお主に任せよう。不足あれば私財を空にしてもかまわん……で、は?」

 瑞石は中指を折った。が、その間際に一瞬過った陰が、ふと直成の意識に引っかかった。


「言わずもがな、その長期戦の後の落としどころです。一度振り上げた

拳、そのまま宙吊りにしておくほど順門は甘くはありますまい」

「されど、すでに奴らがために多くの兵が血を流して斃れた。それでもなお、不足と」

「然り」


 頷く軍師の澄んだ瞳を、直成がじっと見返した。その智の深さを推し量ることはできども、その心底を透かすことはできた。


「ならんぞ」

 瑞石の言う落としどころが直成にも判った瞬間、反射的に拒絶していた。

 だがその反応は予想の範疇であったのだろう。息を荒くする主君に比して、瑞石はここが戦地とも思えぬほどに静まりかえっていた。


「そのためか、そのために鹿信殿をあえて砦に留め置いたか」

「上社卿は、清廉にして剛直な方。地田卿も性格の方です。彼らには、和議などまず頭にないでしょう。そしておそらくは上社卿の方はそれをよく分かっている。故にこそ彼はあえて自ら望んで」

「ならぬ!!」


 肺に収めていた呼気を、すべて吐き出す勢いで直成は吼えた。

 荒ぶる気を、柳のごとく瑞石は受け流した。

 この怒りも、我が帷幄にとっては案の定であろう。空転した怒りに無意味さを覚えた直成は、息を整えて諭した。


「お主が言うたことではないか。笹ヶ岳を捨て石にはせぬと。佐古家中の者が、如何な本意があるにせよ、男同士が取り決めた約定を反故することは、許さぬ」


 諭す、という体を取りつつも、そればかりは佐古直成の内においては枉げられぬ事象であった。越えてはならぬ一線であった。

 むろん、無意味な努力で終わるかもしれないにせよ、その誓いを遂行する努力を頭から放棄してはならぬことだ。


「はっきり言わば、まぁ偽善、自己満足よな」

 引き下がる兆しを見せない瑞石に、直成は自嘲する。

「だが何度でも命ずるぞ。鹿信を……まぁあとついでに地田めを見殺しにすることは許さぬ。本懐秘めたる一個の雄として、甘い姿勢と思われようとな」

「……いえ、立派なお志と思っております」


 微笑を称えて、荒子瑞石は深々と拝礼した。

 だが下げられた頭の下で、この男が何を想いどのような貌をしているか、直成にはあえて暴くことは躊躇われた。

 そしてそんな己を、やはり偽善的で卑劣漢ではないかと揶揄する声は、たしかにあった。


 〜〜〜


 何度目とも知れず、上社信守が第四軍の営所を訪れていた。そして決まって応対するのは、瑞石であった。


「前線にも余裕が出てきたことですし、そろそろ兵を救援には割いてはいただけませぬか」

「いや、そうは申しましてもこれはいわば微妙な綱一本の上に立っているがごとき、微妙な状況なのです。貴殿も、お父上よりお預かりした第四軍の半分も、未だ疲れも取れておられぬでしょうに」

 そう嘆願する信守に対し、これまた決まった常套句で軍師は応じた。


「……この際正直におっしゃっていただきたいのですが」

 声音を低め、目を眇め、上社の若殿さまは問いを続けた。

「救う気など、元よりないのではありませんか」


 遁辞も最早通じぬと見た瑞石は、深いため息を隠さず吐いた。

(――はや、これが限界か)

 しかし何と険のある目つきと語調か。どうにもこの若武者は、人の感情を殊更に煽る天性の持ち主であるようだ。温厚篤実として知られる瑞石をして、心に波を立たせるほどである。


「されば、申し上げよう」

 と瑞石は切り返した。

「元より救う気がないのではない。元より助ける手立てがないのだ。この官軍すべてを犠牲とでのしない限りはね。だがそれをよく弁えていたからこそ、御父君も貴殿も、あえて別れたのだ。違うかね?」


 みずからの感情さえもさておくかのような瑞石の説諭とは対照的に、信守の目元の闇が濃くなる。険しく眉間を寄せ、何かに耐えるがごとくに唇を噛みしめていた信守はしかし、やがて、その口を開いた。


「我々が何を悟り、どう決断したかは問題ではない」

 続けて、言った。

が、仮初にも申した誓いを翻した。その下衆な卑劣さを、私は問題にしている。先にご大層に得意げに、知恵者ぶって語っていた軍略は見掛け倒しの机上のものか。自身の知恵さえ信じられぬとは、とんだ軍師もいたものだ」


 瑞石はさっと気色ばんだ。

 なるほど正論ではあろう。だが、なんら益をもたらさない、空虚な正しさだ。そしてそういうものほど、現を生きる人間を苛立たせるものはない。

 どうしてほぼ初対面とも言うべき相手に、かくも悪しざまに面罵されなくてはいけないのだ。


 そも、この男は一体何を説きに来た。何をしに来た。

 真に父を援けたいというのであれば、そういう憤懣を押し殺してこちらを宥めすかし理非を承知で頭を下げるのが筋目というものではないのか。

 ここで損得を超えて物の道理を振りかざす意味が分からない。この者が抱えているのは、実際は何に対しての怒りだ?


「……ともかく、お引き取りを。第四軍は本陣の守備に当たるゆえ、援兵は出せぬ。これは揺らぐことのない決定事項だ」

「……それは、佐古直成卿もご承知のことか」

「いかにも」

 ためらわず瑞石は言い切った。

「我が言葉は主、直成の意と受けていただこう。そうした相談は、桜尾公を通されるとよろしい」

 もっとも、桃李府とて結論は同じであろうが。そういう少し意地の悪い所感を後ろ暗いものとして押し隠して、瑞石は一礼とともに踵を返した。

 信守は追わなかった。ただ一言、


「偽善者め」


 とだけ、負け犬の遠吠えがごとくに、瑞石の華奢な背へと投げかけた。

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