第九話:溺れた男
かくして、直成を大将とする脱出軍は時機を見て、鹿信と、強いて志願した綱房の二部隊を残して山岳を脱出。
途中、幾度か敵に阻まれつつも直成みずからが竜槍をしごいて突き崩し、真一文字に駆け下りたために、その勢いには逆らえずに、典種の迎撃軍との合流を許した。
それを知った宗円の指図により、勢いづいた急襲軍ならびに七軍も潮のごとくに、未練なく引いていった。
――すでにして、勝利を掴んでいたがゆえでもあろうだろうが。
直成は本陣に戻ると喝采を適当にいなしながら足を早めて帝に言上すべく御座へと向かった。
拝謁は存外に手早く叶った。
直成の必死の形相に、取次役が気圧されたというのもあろうが、おそらく礼節の一片を捕まえては口やかましく文句を垂れるような文弱の徒が、逃げ散ったがゆえであろう。
「御免」
直成は一端そこで語を切った。本当は失意傷心に付け入り一気に奏上といきたいところであったが、本陣たる仏堂に立ち込める饐えた臭いが、この猛者の言葉を絶った。
濃い酒気に満ちている。尋常な酒量、時間ではあるまい。
おそらくは無理やりに逃げさせられてここに仮御所を設けられて腰を落ち着かせて後、戦線が圧倒的不利なままこう着してこの方、ずっとこの調子なのであろう。
「まずは、御身がご無事で何よりでございました」
「それは、
「本音でございますとも」
据わった帝の玉眼が、いびつに歪んで別の獣のそれと入れ違ってしまったかのようだった。が、言外に何を疑い、問わんとしているのかは付き合い以前に近臣にさえ逃散された今の有様から十分に察せられた。
(愚かなことよ)
直成は思った。逃げた廷臣らに対して、ひとまずは。
一時の恐怖に駆られて逃げたところで、帝が国に帰ればその非が訴求される。
親征において逃亡など、前代未聞の出来事ゆえに当てはまる定法などはありはすまいが、まず極刑族滅は十分にありえるだろうに。
(が、気持ちは分からんではない)
立場を放棄しての逃亡など以ての外だが、今この仁に命を託すことへ危惧と不信を抱いたとしても。
真意を知りつつもその下問を無視し、直成は進み出て言上した。
「臣の甲斐なきゆえ、
「そうだ、貴様らが悪い」
「……されば、万死に値する恥を忍びて、お願い奉ります。何卒、再度のご深謀のうえ、この場にしかるべきご英断を臣どもに賜りますよう」
「かしこまった物言いよな。何を、せよと申すか」
脇息が傾くほどにもたれかかりながら、帝は再度問う。
されば、と折った膝を推し進めて、直成は続けた。
「あらためて事の理非を明らかとし、順門府との矢留の調停をなさいますよう」
帝は首を横に向けた。素直に受け入れるとは、直成も思っていない。
それは、伊奴広政抜擢より始まる端緒より、帝の非を詳らかにせねばならぬことであった。これまでの流血を、すべて無意味であったと否定せねばならぬことであった。なまじそこまで読めるだけの明哲さが頭脳に残っていたがゆえに、帝は諾とは言わなかった。
「……よろしゅうござる。されども軍を退くこと。これこそ第一義にござる。味方の働きと言えば、赤池の偽りの武勲を除けば、禁軍が一砦を奪ったぐらいのもの。逆に言えば、帝御自ら不義者の国深くに攻め入り、あと一押しまで追い込みつつあえてその罪を赦した。そう天下に喧伝し、面目を保つこともできましょう」
「詭弁よな」
そもそもが詭弁から始まった大愚行ではないか。それを詭弁で締めくくることに何の憚りがあるか。
そう言いたいのをこらえ、何卒と深く頭を垂れる。
「殿軍は我らが務めます故、どうか、どうか正しきご判断を下せられますよう!」
「……その正しき判断とやらの裏で」
帝は脇息を倒して、その反動で立ち上がった。
ふらつく上体。畳を擦る足が、直成の前で止まった。
「貴様、朕の背を撃つ肚であろうが」
――不思議な感覚であった。
胸も、疑われた胆も、カッと血が熱した。
にも関わらず、背筋を流れる汗は冷たかった。
「……なんですと?」
「とぼけるなとぼけるな! どうせ、赤池が寝返ったは貴様の差し金であろう。水賊同士、気が合うとみえる。大方順門府を相諮りて、朕とこの王朝を貶めようというその黒い腹、見抜けぬとでも思うてか!」
などとまくし立てる男を、かつての友を、いや己のみが身分も恩も仇も超えた友と思っていたはずの男を、心の中で初めて冷視した。
「……それは、貴様に限った話ではなかったな。皆が」
激したかと思えば、『男』の頭と声はふたたび沈んだ。
「誰も彼もが、俺と父上を較べるのだ。そして先帝陛下より大分に劣る暗君と心底では舌を出して嗤っている。順門府が良い証拠ではないか。父の治世においては、どれほど無体を働かれたとしても、決して反旗など掲げなかった筈であろう」
それは、順序が逆であろうと直成は思った。
明君であったから背かれなかったのではあるまい。順門府をして叛かぬ公正な治世を敷いたからこそ、布武帝は明君たりえるのではないか。
そして僻目はたしかにあったであろうが、等しく評価の機は与えられていたはずだった。
戦になってしまう前、見事裁いて収めてみせたのであれば、あるいは今この時、酔いより醒めてみずからの非を認めて頭を下げて宗円と手を取り合えば、天下も順門もそして己も、あらためてその器量を見直すこともあっただろうに。
だが実際はどうだ。
今この瞬間にも、酒も、時も、将兵も、浪費させられている。
――そしてこの後は国も。
この男は先帝の築いたものを超えるでもなく、より作り替えるでもなく、ただただ破壊し続けるのであろう。
そしてその本懐はおそらくは叶うこととなる。
「侍従殿」
そばに影のごとく控えていた近侍は、ビクリ過剰に反応した。無きに等しかったその存在感が、にわかに浮き彫りとなった。
だがその怯えようは、乱行の帝よりもむしろ、直成の一挙一動にこそ向けられている気がした。
「いや、どうにも折りの悪いところに参じてしまったようでな。また、酔いの醒めた頃合にあらためて謁し奉る旨、お伝えくだされ」
直成は苦笑とともにみずから髪の生え際をピシャリと叩いて戯けて見せた。
「……そうよ。面従腹背の不忠者に不義者無能者……そんな者らを率いて戦だの政だの、出来るわけがなかったのだ」
当の帝はそうした呟きを繰り返しつつも、すでに虚空を向くその意識の中に直成の姿はなかったようだ。
「然らば」
と直成は最後に深く一礼した。
我が別辞ながらもそれは、言霊であったようにこの男には思えた。
今まさに苦界から逃れ出でてあらぬ方向に飛散しようとする旧友の魂魄と、永の別れのためのものとさえ感じられた。
退出した直成は、淀んだ酒気から脱して、わずかに血潮の辛さと生臭さを含んだ空気を吸った。
さて、と気を持ち直した後、最後に男のいた陣を顧みた。
そして想った。
この戦場において、この天下において、
「果たして儂は、何をなさねなならぬのかのう」
だが、それに答えを出すのは帝でも、首尾を伺うべく早足を擦って近づいて来る軍師瑞石でもない。
一個の雄として、己が決断しなければならぬことであった。
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これ以上は事態は悪化すまいと踏んでいた直成であったが、その値踏みが甘いことを、その翌日に知った。
桃李府公桜尾典種に急かされてあらためて御座所を訪った直成の頬に、思わず乾いた笑みが引きつった。笑うよりほかないではないか。
「主上、それは…………あまりに」
投げかけた言葉に、言葉を返す者はない。
その座はすでに蛻の殻となっていた。
帝は、一部の供回りとともに逃げ出していた。
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